あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

「他人に頼っても良い」と教えてくれた『夜バナ』

Kouhei Kajiyama

文/篠田恵 : 写真/嶋田拓郎

筋ジストロフィー(デュシェンヌ型)・東京都武蔵野市在住|梶山紘平(かじやまこうへい)

1985年、東京都葛飾区生まれ。3歳の時、筋ジストロフィー(デュシェンヌ型)と診断される。実家で暮らしていたころ、『こんな夜更けにバナナかよ』 (渡辺一史著)を読み、自立生活を志す。2010年、25歳の時に事業所派遣ヘルパーを利用し、埼玉県さいたま市中央区で一人暮らしを開始。一時体調を崩し入院するものの、2012年にさいたま市大宮区で自薦ヘルパーを利用して一人暮らしを再スタート。2017年からは東京都武蔵野市で、常勤自薦ヘルパー5人体制で一人暮らしをしている。気管切開し人工呼吸器を使っており、全介助が必要。

【イントロダクション】

東京都武蔵野市在住の梶山紘平さんは現在、5人の常勤自薦ヘルパーを利用して一人暮らしをしています。自分と同じ筋ジストロフィーだった鹿野靖明氏の自立生活を描いたルポルタージュ『こんな夜更けにバナナかよ』(※1)に触発され、15年前、20歳で介助者利用を始めました。

そんな梶山さんの強い味方は当事者仲間だけでなく、インターネットをはじめとするテクノロジーとSNS。自分も『夜バナ』に出会うまでは他人を頼って良いという考えがなかったことも踏まえて、現在は重度障がいを持つ子どもたちがオンラインゲーム対戦を通じて「やりたいを言える場、反応を示せる場」をつくっています。わをん代表理事の天畠大輔と臨んだインタビューでは、これまで体当たりでつくってきた自立生活とこれからの活動について、梶山さんらしいユーモラスな語り口で話してくださいました。

(この記事はオンラインでのインタビューと、講演録から構成しています。)

(文/篠田恵

目次

ゲーム好きの原点は、1カ月間の不登校

――まず、自己紹介をお願いします。

梶山:僕の病気は筋ジストロフィーのデュシェンヌ型です。筋遺伝の病気で、筋肉のディストロフィンがまったくないから筋肉が再生しない。再生しないことによって、どんどん筋力が低下する。神経ではなく筋肉そのものの病気です。気管切開と、胃ろうを作るための手術を受けています。幼稚園で病気がわかった当初は、二十歳までしか生きられないなんて言われていましたが、もう35歳になってしまいました。

介助者を利用し始めたのは20歳の時です。実家で両親が働きに出ている日中の間、非自立支援系の事業所から派遣してもらっていました。25歳の時には、さいたま市で一人暮らしを始めました。その2年後にさいたま赤十字病院で気管切開の手術をして、退院後に自薦ヘルパーの利用を始めました。その後、わをん代表理事の天畠さんのような個性あふれる障がい者の多い、東京都武蔵野市に引っ越しました。僕にとって強い味方です。

都内の重度障がい者は他の自治体に比べて、6万円ほど多く手当がもらえ、さらに武蔵野市は住宅補助もあります。自治体からの支給総額は重度訪問介護を除いて20万円を越えます。生活保護を受ける必要がないのも、引っ越しを決めた理由です。

――小中学校は、千葉県野田市の普通学校に通われたと聞いています。

梶山:はい。最寄りの養護学校(特別支援学校)は自宅から1時間弱かかるところにあって、共働きの両親では送り迎えが難しかったから、我が家は近くの普通学校を希望していました。当時は障がいのある子どもは特別支援学校に行くのが普通だったので、両親は教育委員会ともめたみたいです。

入学してからは普通学級で介助員なし、母の付き添いは登下校のみで、あとは自分でなんとかしていました。徐々に歩行が難しくなり、校外学習をきっかけに4年生から車椅子を使い始めました。

――中学校でも普通学校に通われたわけですが、どんな思春期でしたか?

梶山:他の健常の生徒たちと自分の違いをすごく意識させられて、絶望的な気持ちになっていた時期でした。京都への修学旅行は「参加できない。京都には家族旅行で行くように」と担任に言われ、教室で大泣きした記憶があります。あまりに泣くものだから、親の付き添いありの自主参加という条件で行けることになりました。

普通学校に入学したのに他の生徒と分けられて学校生活を送るわけなので、会話の経験不足で話しかけ方が分からない、分からずにいて会話に置いていかれる、そして落ち込んで自信を無くす、の繰り返しでした。

家庭でも、不況の影響で両親がいっとき別居する騒動があって。1カ月くらい学校に行けず、いとこの家にずっといました。不登校だったいとこはゲーマーで、ずっと一緒にゲームをしていました。すっかりゲーム好きになりました。

「人生をほぼ諦める気持ち」で入学したけど、やりたいことができた特別支援学校

――高校は特別支援学校への入学を決めたのは、どんな理由があったのですか?

梶山:両親が共働きで通学や授業の付き添いが難しかったし、病気が進行して体力低下の不安もありました。でも何より、大学を卒業しても就職先が見つからず、家に閉じこもっている同じ病気の先輩の姿を病院で見ていたので、普通高校を出て大学進学する進路にまったく魅力を感じなかったんです。

肢体不自由の障がい者向けの特別支援学校は、スクールバスもなく遠かったので、近くの知的障がい者向けに行きました。家が裕福だったら、合った学校に行けたのかもしれないのですが。我が家は障がいというよりは、家計に悩んでいたって感じでした。障がい者が自分らしい生活を送れるかって、社会制度が整っていない中では結局、お金の問題になってしまうんですよね。僕だけ特別に数学や英語を教えてもらうこともありましたけど、学習コース自体がありませんでした。教員が「〇〇ちゃん」とか子ども扱いしてくるのもすごく嫌でした。

でも特別支援学校に行ったのを後悔しているかというと、今の活動がとても充実しているので、後悔はまったくありません。人生をほぼ諦める気持ちで入学したわりには、普通学校よりやりたいことがやれたと思います。文化祭のプロモーションビデオを作ったり、知的障がいの子どもたちとサザンオールスターズの曲を演奏したりしました。一眼レフのシャッターを自分で切れるように、先生に工夫してもらうこともありました。

どれも就職に役立つものではありませんでしたが、今の活動の原点になっています。普通学校と特別支援学校どちらの経験が一人暮らしに役に立つかというと、どちらとも言えません。むしろ学校での経験は、一人暮らしをする上であまり関係がないように思います。

「他人に頼っても良い」と教えてくれた『夜バナ』

――梶山さんが今の一人暮らしに至るまでの過程を教えてください。初めて自立生活を知ったのは、いつ、どんな状況でしたか?

梶山:特別支援学校卒業後は、特に何かやりたいという目標もなく、市営の重度心身障害者通所施設(デイサービス)に2年ほど通いました。利用者が並んで、幼児向けビデオを毎日のように見るだけ。やることがなくて、ほとんどその時期の記憶がぶっ飛んでいます。

しかも職員の賃金が低いので、ストライキがありました。大半の職員は介助サービスへのやる気がなくて、一部の意欲的な人も一生懸命に仕事すると目立って嫌だから、そこそこでやっているという感じ。

そんな中で僕は、職員のストレスが少しでも自分や他の利用者に向かないように、スタッフが快く介護してくれるような言葉がけをするようにしていました。今思えば、人の気持ちを考える訓練になっていたのかもしれませんが。でも当時はつらくて、ここにいるのは嫌だという気持ちがどんどん強くなっていったんです。

『こんな夜更けにバナナかよ』 が出版されたのが、ちょうどそのタイミングでした。父親が広告を見て、「これ読んでみたら」と渡してくれて。鹿野さんが24時間ボランティアを使って、自宅で生活している様子がすごく新鮮で、いいなと思いました。そういう方法があるとは、それまで思いつかなかった。自分が生活するために他人の手を借りちゃいけないと当時は思っていたので、こんなふうに頼っていいんだ、と。支援費制度も始まっていたし、在宅生活してみようと思ったんです。

――『夜バナ』に出会い、支援費制度のスタートが後押しとなって、デイサービスを退所して、在宅生活を始められたんですね。

梶山:はい。20歳から5年ほどは、両親が仕事に出ている日中だけ、一般の事業所(障がい者の自立生活運動をルーツとするCILではない)からヘルパーを派遣してもらって実家で生活しました。支援費制度の身体介護で16時間つきました。野田市としては異例の多さです。僕がケースワーカーと仲が良かったからでしょうか()

その事業所から来ていた年の近いヘルパーから、生活の組み立て方、ヘルパーとの関わり方をいろいろと教えてもらいました。自立生活のお手本になるのは、なにも障がい者だけではありません。自立している人の話は何でも参考になるものです。

 

次回は、梶山さんが経験されてきた様々な一人暮らしの形について、伺います。

注釈

1.「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」(渡辺一史著、2003年初版)は、北海道札幌市に住む筋ジストロフィーの鹿野靖明氏と、彼の自立生活を支えるボランティアたちの日常を描いたルポルタージュ。

プロフィール

筋ジストロフィー(デュシェンヌ型)・東京都武蔵野市在住|梶山紘平(かじやまこうへい)

1985年、東京都葛飾区生まれ。3歳の時、筋ジストロフィー(デュシェンヌ型)と診断される。実家で暮らしていたころ、『こんな夜更けにバナナかよ』 (渡辺一史著)を読み、自立生活を志す。2010年、25歳の時に事業所派遣ヘルパーを利用し、埼玉県さいたま市中央区で一人暮らしを開始。一時体調を崩し入院するものの、2012年にさいたま市大宮区で自薦ヘルパーを利用して一人暮らしを再スタート。2017年からは東京都武蔵野市で、常勤自薦ヘルパー5人体制で一人暮らしをしている。気管切開し人工呼吸器を使っており、全介助が必要。

文/篠田恵

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