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連載1回目

「悪いことばかりじゃなかった」入院生活と退院の決意

Masanobu Ashikari

文/吉成亜実 : 写真/NPO法人自立支援センターおおいた提供

デュシェンヌ型筋ジストロフィー|芦刈昌信

1976年生まれ、大分県出身。デュシェンヌ型筋ジストロフィーのため、24時間人工呼吸器を使用している。地域の学校への通学が困難になったことを理由に、小学校4年生から西別府病院に入院。35年間の入院生活を経て、2021年に退院する。現在は、大分県別府市で24時間ヘルパー制度を活用しながら一人暮らしを営む。NPO法人自立支援センターおおいたで、SNSを活用した情報発信や人工呼吸器体験会の企画などを担当。

【イントロダクション】

2021年に筋ジス病棟から退院された芦刈さんは、2023年1月23日にご逝去されました。
芦刈さんへのインタビューは2022年7月13日に行っていたのですが、インタビュー記事の公開前にご逝去なさったため、しばらくそのままになっておりました。芦刈さんが生前深く関わりのあったNPO法人自立支援センターおおいたの押切さんとのやり取りの末、掲載が実現しました。
芦刈さんは、インタビューを通してたくさんの素敵な言葉を残してくださりました。今回、その言葉たちを皆様にお届けできることを嬉しく思います。

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筋ジストロフィー児・者病棟 (以下、筋ジス病棟)は全国に26箇所あり、約2000人の筋ジストロフィーをはじめとする神経筋疾患患者が入院しています。それぞれ、通学の困難さや家族介護の限界、病状への対処などさまざまな理由で入院しますが、患者さんの多くが数十年単位の長期入院となっており、入院後に退院して地域生活を送ることは非常に稀なケース※1と言えます。
インタビュアーの吉成も筋ジス病棟で長期入院をしていた一人ですが、退院にはとても大きなハードルがあり、2020年に退院した際にも、たくさんの困難さを感じました。まだ十分ではないにせよ制度などが整い、重度の障害があっても、地 域生活が可能になっている中で、なぜ、長期入院からの退院は困難になっているのでしょうか。
今回のインタビューイである芦刈昌信さんは、大分県にある西別府病院に35年入院されていました。本文中にも登場しますが、芦刈さんはコロナ禍以前には入院中も外部のボランティアや友人、重度訪問介護※2を活用した介助者たち と外出や外泊をしており、入院生活にそこまで不自由さを感じていなかったそうです。しかし、コロナ禍によりその生活に変化が訪れ、芦刈さんは退院を決意されます。
芦刈さんはどのように長期入院から退院を決めたのか、どんなことが困難だったのか、現在の生活についても合わせてお話を伺い、後半の介助者との関係性については、対談形式でお話をさせていただきました。芦刈さんと私の状況の違いや共通点を通して、長期入院からの退院の困難さはどこにあるのかを、紐解いていきたいと思います。

※吉成亜実インタビュー記事はコチラ→①二度の退院の断念ーー命と将来を天秤にかけられるーー絶望から、退院までの道のり「私にもできたのだから、あなたにもできる」と伝えたい

(文/吉成亜実

目次

外とのつながりがあったから、続けられた入院生活

吉成:芦刈さんが西別府病院に入院した経緯などを教えてください。

芦刈:小学校4年の10月までは家族介護を受けながら、普通校に通っていました。当時、学校に通うのがすごく大変になってきたので、ちょっと病院に入院しようかって感じで、最初は入院しました。それから気づいたら、結局34年10カ月入院生活を送っていました。
入院をするときには、筋ジストロフィーという病気がどういうものなのかをまったく聞かされてなかったので、「ちょっと入院して手術でもすれば治るのかな」くらいの感覚でした。入院するときは、嫌って感じではなく、すぐ帰れるだろうと思ってました。

吉成:退院が難しい、長期の入院になるのだと気づいたタイミングはありますか?

芦刈:(長い間入院している)同じ病気の先輩とかを見てて、自分も大きくなったらこんなふうになるんだって思ったときと、先輩とかが亡くなったときに、筋ジストロフィーという病気の怖さを知って、「たぶんもう退院することはないんだろうな」と直感的に感じました。

吉成:入院当時、退院して地域で生活している患者さんは、周りにいましたか?

芦刈:いないですね。入院当時は、36年前なのでまったく介護制度もなかったし、「病気になったら病院だ」って意識を周りも持っていたので、退院して病院を出るのは亡くなるとき、という感じでした。僕が退院する直前や退院した後には、家から(病院に隣接する特別支援)学校に通うために病院に来たり、学校に通うために何年か入院して退院する人いました。でも、長年入院している方で退院した人は一人くらいしか知らないです。

吉成:私のいた病院も退院される方はめったにいない、似たような状況でした。芦刈さんは入院生活を今振り返ると、どのように感じていますか?

芦刈:すべてが悪いことばかりじゃなかったと思います。僕は詩を書くんですけど、養護学校では付きっきりで先生がついてくれてて、その力を伸ばしてくれました。あとは、体調不良のときもすぐ対応できるので、体調管理の面では病院生活も良かったです。
また、コロナ前までは結構自由に外出したり、コンサート活動とか講演とかもやってたんです。そこは別に病院として反対されることはなくて、外出で帰りが遅くなったときは家族室(家族で泊まれる部屋)を貸してくれて、むしろ協力的でした。
制限はいろいろあったし、嫌な思いをしたこともいっぱいあったんですけど、でも振り返ってみたら楽しいこともあったし、良かったのかなって思うところはいっぱいあります。

吉成:私も悪いことばかりではなかったという部分では、とても同じ気持ちです。立命館大学の芦刈さんのインタビュー記事※3を見て、私が印象的だったのが、芦刈さんは入院中も重度訪問介護を活用して外出をされたり、ご友人などと宿泊を兼ねたお出かけをしたりしていたという点で、入院をしていても比較的自由度が高かったことです。
私のいた病院では制度を活用した外出や外泊ができませんでした。病院のあった場所が、田舎で介護事業所がほとんどなかったというのもあるかもしれないですが、「外出は家族とでなければいけない」という流れが強くありました。そういう部分ですごく違いがあるなぁと感じたのですが、芦刈さんのいた西別府病院で重度訪問介護を活用した外出というのは、どのような経緯で可能になったのですか?

芦刈:うちの病院も家族がいないと外出できなかったんですけど、途中でボランティア登録をすれば外出ができるようになったんです。でも、なかなかそれで出かける人はいませんでした。僕はいろいろ活動してたので、これは使えるなと思って友達にボランティアを頼んだりして出かけたりしてました。
9年くらい前、僕が呼吸器を日中もつけるようになってから、「呼吸器をつけたまま病棟からはいっさい出られない」と言われたんですけど、入院中もヘルパーを頼めるっていうのを聞いたり、病院にいるときから14年くらい付き合っている人がいたので、病院側もその人をほとんど家族みたいに思ってくれてたので「その人が一緒に居るならまあOK」というように言ってくれました。こんなふうにボランティアや制度を使って外に出ることができなければ、入院中も自由に活動はできてなかったのかなと思います。
ずっと入院してる人もいるし、やっぱり家族以外のつながりは作りにくいですよね。僕はたまたま少し普通校にいた時期もあったし、その後も社会ともつながりがあったのでいろんな人の手を借りることができていましたが……。病院側も僕に対してどこか呆れてるというか、ご自由にどうぞという雰囲気があったので、そういう面ではすごいやりやすかったかなと思います。

吉成:入院中の重度訪問介護の支給時間は何時間でしたか?また、その時間数を得るための交渉はどのようにしていたのですか?

芦刈:入院中は1ヶ月に24時間くらい、外出支援として支給を受けていました。交渉は、全部相談員さんに相談したら動いてくれて、時間を支給してもらいました。なので、自分で行政に行って交渉はしてないです。

吉成:入院中の相談員さんというのは、病院の職員の方ですか?

芦刈:病院の職員ではないです。地域の相談支援事業所の相談員です。もともとうちの病院にいた人が辞めて相談員になった方なので、僕のことも全部わかってくれているから、このくらい時間数取ったら大丈夫でしょうって進めてくれました。

吉成:私のいた病院の場合は、指導室の職員(指導員)が相談員の代わりというか、相談業務を行っていました。芦刈さんの場合は、病院にいながら地域の相談支援事業所の相談員も関わっていたということですか?

芦刈:そうですね、うちはみんなそれぞれ自分の好きなところに頼んで(契約して)、みたいな感じでした。

吉成:芦刈さんのいた病院では、そのように制度を活用して外出が可能だったようですが、周りには芦刈さん以外にボランティアや制度などを活用しながら家族以外の方と外出をしていた方はいましたか?

芦刈:いないですね。たぶん一人も。みんな家族と外出していたと思います。

「病院で死ぬのは嫌だ」 コロナ禍の中で決意した退院

――過去に行った吉成さんのインタビューでのお話と比較すると、入院中の経験や体験の違いがあると思いました。芦刈さんのいた病院の場合は、「不満はあるけど病院でもやりたいことはできるし、地域にわざわざ出なくてもいい」と思う人が多かったのでしょうか?

芦刈:そうですね。家族さえいれば外出はできるので、なかなか地域移行しようとする人はいませんでした。僕もその中の一人でしたが、病院でいいやという人が多かったと思います。わざわざ地域に出て苦労する必要もないし、出たら大変だとか、地域に出られる人は「特別な人」みたいに思ってたので、地域移行は僕にはまったく関係ない話だと思ってました。たしかに、入院中に不満はいっぱいありましたよ。時間のことは細かく言われるし、プライベートな時間もなかったし。でも外出できたり、昼間とかも病室から出て家族室で友人や彼女とずっと過ごしたりしてたので、そこまで困ってなかったんです。

――コロナ禍で面会や外出、外泊の制限が続くなどの院内の状況も変化していったことで、芦刈さん含め患者さんの心境に変化はあったのでしょうか?

芦刈:僕自身、コロナの影響で面会や外出の制限を受けてから、地域に出たいと考えるようになりました。他の方はどう思ってたのかわからないですが、(地域に出たいと思う人が)増えたことは確実だと思います。僕が地域に出たあとに後輩から「自立できていいなぁ」と言われたりしたので、やはり面会できないということは僕たちにとってかなり大きいことで、コロナは必ず影響してると思います。

――面会できない、人と自由に会えないことが人生の重要な部分やQOLにとても影響を与えると改めて思いました。その中で、芦刈さんが「病院を出たい、出るぞ」と思えたのはなぜだったのでしょうか?

芦刈:僕は自立生活センターと8年くらい前から関わりがありました。その中で自立の話を聞いたり、海老原さん※4が大分に来て講演をされたときも自立しようというような話を聞いたりして、僕も自立生活をしたいと思うことはありました。でもなかなか一歩を踏み出せずにいたんです。コロナ禍になって外出や外泊の制限が続いていたとき、「このままでは僕は弱って、さらに身体機能も落ちていってしまう。病院の中で死んでいくのは嫌だ」と思ったんです。そのときに自立支援センターおおいた※5の押切君の顔が浮かんで、思い切って相談してみようと思ったんです。
押切くんが「オンラインILP※6とかをしていけば、自立はできるよ」って言ってくれて、そこから(地域移行を支援する)チームを作ってリモートで相談しながら準備を進めていきました。その中で「僕にも自立できるかも」という自信も芽生えていきました。自立支援センターおおいたの人と繋がっていなかったら、自立したいって思ってるだけで、どう行動していいかわからなかったし、たぶん思うだけで終わってたと思うんですよね。やっぱり、僕にとってはつながりがあったことは大きかったと思います。

吉成:自立生活センターとオンラインで連携しながら、ILPなどを行って一人暮らしを実現されたとのことですが、退院をして一人暮らしを始めるまでに大変だったことは何ですか?

芦刈:僕がいちばん大変だったのは親の説得でした。親から退院について猛反対をうけて、親子の縁を切るとまで言われて、本当に一回は(退院を)やめようかなと思ったときもありました。すごい親不孝なのかなと思ったり。それでもずっと説得はしてたんですけど、このままではらちが明かないなと思って、自分で退院の日をこの日って決めて後戻りできないようにして、親も仕方なくOKしてくれて退院しました。親からは最後まで結構いろいろ言われたので、そこがいちばん大変でした。
あと、病院がなかなか支援してくれなかったというか、ドクターがすごい消極的というか全然協力的じゃなかったのも大変でした。自立支援センターの人にも全然会ってくれないし、「(退院は)無理だ」の一点張りで全然進まなかったのはすごい苦労したけど、途中でドクターが変わってからはトントン拍子で進んでいきましたね。病院が地域移行のことをあまりにも知らなかったのがあって、自分で全部進めていきました。その病院とのやりとりも大変でした。
もう一つ、面会や外出ができなかったので、介助体験もリモートでしかできませんでした。住む予定の家にいる僕の代わりの人形に対して、僕の指示で介助者が介助をするっていうやり方だったんですが、それだけで介助のやり方が伝わるのかなって思ったりしたので、それも苦労したとこですね。住む場所はもうここ(自立支援センターおおいたが所有するマンションの一室)に入るって決まっていたので、そのへんの苦労はなかったです。

注釈

※1 筋ジス病棟などで長期入院する患者と繋がり、院内生活改善や地域移行の支援を行うネットワーク「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト」というものもある。 https://note.com/kinjisu_project/
※2 https://wawon.org/institution/
※3 芦刈昌信氏インタビュー http://www.arsvi.com/2020/20201219am.htm 、http://www.arsvi.com/2020/20201219am2.htm
※4 海老原宏美、自立生活センター東大和元理事長。2021年12月24日、44歳で逝去。
※5 https://jil-oita.sakura.ne.jp/
※6 自立生活プログラム。ILPは、障害者が自立生活に必要な心構えや技術を学ぶ場。 http://www.j-il.jp/about/ilp.html

プロフィール

デュシェンヌ型筋ジストロフィー|芦刈昌信

1976年生まれ、大分県出身。デュシェンヌ型筋ジストロフィーのため、24時間人工呼吸器を使用している。地域の学校への通学が困難になったことを理由に、小学校4年生から西別府病院に入院。35年間の入院生活を経て、2021年に退院する。現在は、大分県別府市で24時間ヘルパー制度を活用しながら一人暮らしを営む。NPO法人自立支援センターおおいたで、SNSを活用した情報発信や人工呼吸器体験会の企画などを担当。料理が好き。最近作って美味しかったのはハンバーグ。

文/吉成亜実

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