あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

二度の退院の断念ーー命と将来を天秤にかけられるーー

Ami Yoshinari

文/油田優衣 : 写真/浅里のぞみ

SMAⅡ型・札幌市在住 | 吉成亜実(よしなりあみ)

1993年生まれ、北海道札幌市出身。SMA(脊髄性筋萎縮症)TypeⅡ。電動車椅子を用いて移動。ほぼ全ての日常生活動作に介助が必要で、夜間は人工呼吸器を使用する。中学入学時に八雲病院に入院し、14年間の入院生活を送る。今年6月に八雲病院を退院し、札幌で自立生活を始める。

【イントロダクション】

吉成さんと初めてお会いしたのは、私が大学進学に伴う自立生活を始める直前の頃、八雲病院に呼吸器の調整のために短期入院した時でした。そこで吉成さんと知り合い、京都に引っ越してからも一人暮らしや大学生活の話をよく聞いてもらっていました。吉成さんといろんな話をする中で、私は、病院に長期入院している吉成さんが置かれている状況をだんだんと知っていき、「私はこうやって一人暮らしができているのに、なぜ亜実ちゃんはそうではないのだろう…」と疑問を抱いていました。
そして、知り合ってから4年後、吉成さんは退院に向けて動き出し、2020年6月に八雲病院を退院されました。それは私にとっても本当に嬉しい出来事でした。
今回のインタビューでは、長期入院での経験や退院までのことについて、詳しくお話をお聞きしました。病院での生活はどのようなものだったのか、病院から退院するにあたってどれほどの困難があったのか、そのなかで吉成さんがどんなことを感じ考えてこられたのか――その一部を吉成さんにお聞きしていきます。

(文/油田優衣

目次

自己紹介

――今回は私、嶋田・天畠と、吉成さんと親交の深い油田優衣さん(SMA当事者)にも加わってもらって、お話を聞かせていただきたいと思います。最初に吉成さんから自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか?

吉成:はい。1993年生まれの27歳。出身地は北海道札幌市で、今も札幌で暮らしてます。現在の介助時間は、重度訪問介護を540時間支給されています。介助時間としては今もらった支給時間が初めてです。ただ、時間数は足りていない現状です。540時間というと、一日平均18時間で、空白の時間があるので、時間数を増やしたいと思っています。10月から、札幌市の取り組みとして、「非定型」という取り組みが始まるそうです (※1)。これまでは「定型」という、病気や障害の種類によって(あらかじめ決められた)時間数を出すという方式だったのですが、これからは「非定型」という、その人の状態に合った時間数を出そうという形になるそうです。今はその申請準備をしていますね。

――札幌市としての取り組みなんですね。

吉成:そうです。10月から、とりあえず540時間という時間数を支給されている方を対象に始めるっていうお話がありました。…自己紹介の続きですが、現在の所属と仕事について、所属は特にありません。通信制の大学で勉強しています。お仕事としての所属はまだないですが、東京大学先端科学技術研究センターの障害研究をしてる研究室と関わりがあったり、大学等の講師をやったり。最近では今入ってもらっている在宅医療の法人、稲生会ですね、そこの障害研究関連のお仕事を始めようかなと思っています。

――ありがとうございます。次に吉成さんのこれまでの生い立ちをお伺いできればと思います。

吉成:障害の名前としては、脊髄性筋萎縮症Ⅱ型という難病です。状況としては、生活は全介助で、夜間のみ人工呼吸器を使用しています。生まれた頃から小学校を卒業するまでは、札幌市で家族と在宅生活をしてました。小学校は普通校に通ってました。中学入学時から今年(2020年)の6月22日まで八雲病院に入院していて、中学校・高校は病院に隣接していた養護学校に通ってたという感じになります。入院した経緯としては、両親が離婚して、父親が私たち兄弟の親権をとったということで、一人で我々を養育することが難しくなり、同じ病気の弟と共に入院しました。

――ご両親の離婚などもきっかけで、ご兄弟で八雲病院に入所することになった。こちらは14年前とのことなんで、2006年ぐらい。14年間って長いですよね。入所していた初期から、そのときどきで状況や思いも変わっているかとは思うんですけども、どういった生活だったのか、お伺いできたらと思います。

吉成:もともと八雲病院には、2歳ぐらいの頃から検査入院や、レスパイト目的の入院、あと、重度の肺炎になった時に緊急移送というかたちで駆け込んだりっていうように、年に1度2度は出入りしていました。なので、中の環境だったり、中にいる方々とは、ほぼほぼ顔見知りで、知ってるっていう状況ではありました。それまでは短期入院ばかりだったので、長期の入院は初めてだったんです。入院し始めの頃は、もともと生活の流れはわかってたからスムーズにいったんですけど、やっぱり何ヶ月か経ったとき、3ヶ月ぐらいかな、本当に家に帰れないんだなっていうのを実感して。そこで父に「やっぱ帰りたいです。無理です」みたいなメールを送ったことがあって。父からの返事は、「無理だよ」「頑張って生きようね」「ぼくも頑張るから」みたいなもので、うまいこと流されたんですけれども…。そういった辛いとか淋しいみたいな思いは、ちらほらありました。が、長いこといれば慣れるもので、淋しいっていう思いは、年を重ねることに少なくはなっていきました。でも、「出たいな」っていう思いはずっとあって。高校入学前も(病院を出たいと)言ったような気はするし、あと高校卒業のタイミングでも一度、出たいっていう旨を伝えたりもしたんですけれど、叶わず。その後もまた、22歳か23歳ぐらいの頃にも「出たい」という意思を伝えたんだけれども叶わず、みたいな感じで生活をしていました。

二度の退院の断念ーー命と将来を天秤にかけられるーー

――その、叶わずっていうのは、どういった理由で諦めざるを得なかったんでしょうか?

吉成:高校卒業後の、大学進学のために病院を出たいという話に関しては、当時、母親と一緒に暮らして、大学進学をしたいという話をしてました。でも、母の状況や金銭的な面からもリスクのあることだからっていうことで、病院側に退院を反対されました。その話の際に、病院のほうが安全っていう意識からか、「ここを出たら死んでしまうよ」みたいな言葉を病院側から言われたりして。「死んでもいいというなら出てもいいけど、もし今出るというなら、もう私たちは診ないよ」という言葉も言われてしまって。命と将来を天秤にかけるっていうような状況になりました。死ぬとか、死んでまで、っていう思いはなかったし、実際母も安定していたわけではないので、それだったら……っていうので泣く泣く諦めたんですけれども。「ああ、病院から出るっていうことは死ぬっていうことなんだな」ってその言葉が強く頭に残っていて。八雲病院は、この病気の医療について、技術が高いっていうことがあって、そういうのも踏まえて、ここ以外の病院では(高水準な医療を)みんなできないから無理だよ、ということを言われてしまったっていう背景がありました。

それで、そのあと、(22~3歳の頃に)2回目の断念をするんですけど…。1度目の断念の後は、病院で入院をしながら、先ほど言った東大の先端研やいろんなところと関わりをもっていました。それこそ優衣ちゃんにも、優衣ちゃんが大学に行って一人暮らしをしようとしているっていうタイミングで出会って、「ああ、こういうふうにできてる子もいるんだな」っていう気づきとかもあって。それ以外にも、外来の患者さんで地域で生活されている方はいっぱいいたので、やっぱり地域で生活できるんじゃないかなっていう思いを持ちました。当時は東大先端研の人とかと繋がりがあったので、関東付近を軸にして、そのへんに出て生活していきたいなと。そういう思いをもって、22~3歳の頃にまた病院から出ることを希望したんです。そこでは、病院側も最初は応援してくれてたんです。(病院側は)「関東っていうのは遠いし、自分達の手も届かなくて危ないから本当は嫌だけど、そこまで(吉成さんが)言うんだったら応援したい」というようなことを言ってくださって。私も「やっていきたいな」みたいな、医療と自分の生活を大事にしたものを作りたいっていう思いがあって、進めていこうとしてたんです。でも、病院の先生もだんだん「これから準備を頑張るから、まだ待って」みたいな感じになったりして、雲行きが怪しくなっていきました。

一番悲しかったというか、ショッキングだったのが、ある病院職員にとてもひどい言葉を言われたことです。ひどい言葉というのは、「普通に働いて、定年まで働いて税金を納めた高齢者の方でも、働けなくなってボケてしまったら、制度で一人暮らしというものを支えてもらえない状況にある。そんな中で、あなたたちみたいな税金を払ってないような障害者が一人暮らしをしたいっていうのはわがままだと思う」って。私に直接おっしゃった方がいて。その言葉を聞いて、私は本当にショックを受けました。病院の中の人からそういうふうに言われてしまったので、病院にどう話をもっていっても、地域生活を実現するのはもう無理だな、不可能なんだなっていうことを強く思って、ほんとに悲しかったです。そこで、心がぽっきり折れてしまいました。それで、そのことを優衣ちゃんに共有したんですよ。「こういうことを言われたんだけど、どう思う?」って。そこで優衣ちゃんは怒ってくれて、怒りを持って、持ったままずっと繋がっていてくれて、今に至るんですけど。二度の断念の詳細はそんな感じです。

――まず、命と将来を天秤にかけるっていうことはありえないだろう。違うだろうって思うんですが……。

吉成:そうだと思います。でも、もっと前段階で諦めている人もきっといます。病院の中では、地域に出るという考えを持つことが、そもそも難しい状況でした。

油田:地域に出るんやったら、親・家族の力があるかとか、経済力があるかとかが大事だと病院側は思ってるんですね。公的資源に頼るっていうビジョンはすごい薄いのかなっていう。

吉成:そうですね。病院の中で、例えば元職員の方と結婚されて退院される方とかはいたんです。そういった、強い、何があっても支えてもらえるパートナーとかがいたり、あるいは精神的にも金銭的にも余裕のある親との繋がりがあるんだったらいいよみたいな。別に入院した方がみんな退院できないわけじゃなくて、親が太いというか、そういう方は普通に退院できるんですよね。定期的に病院に来れたり、なんかあったときにも対処できるような体制ができるんであればいいっていう方向なんで。ただ私のように親も不安定で、本人も未熟で、っていう状況では難しいという感じでした。公的資源を利用するっていう発想は薄かったです。

――今の話をお伺いすると、地域で生きていこうっていう思いとか考えを持つこと自体が難しいような環境ができあがっていますね。

吉成:長期入院ってなると、卒業後も入院される方は「出る」という選択肢はそもそも持てないので。入院して如何に過ごすか?どう過ごすか?ということはすごく考えたり、入院中の活動はいっぱいありますが、外との繋がりを持つことだったり、本人の本当に希望することをサポートできているか、というと疑問はありました。

――施設の中でも、ある程度我慢すればなんとか暮らしていけるというか。そういう状況だから、外に出る気力もなくなっていくっていうことなんですかね?

吉成:病院とか施設っていうのは、集団生活であることと、介助者も何人に一人とか、多くない状況なんです。だから、生活の中でも制限だったり、我慢したりする場面っていうのは、ほんとにほんとに多くて。入院中の他の方々も、つらいとか、これは嫌だなとかいう思いはあると思うんですけど。だからといって、出ればよくなるというビジョンがあるわけではありませんでした。ただただ諦め? 諦めのようなものが多いと感じていて。地域に出ることは不可能っていう固定観念と、諦めの思いっていうのが多くあるなって。今のところは、地域に出たいっていうことを堂々とおっしゃっている方々は私の目に入ってません。また、今まで自立生活というかたちで地域に出た方もいらっしゃいましたが、あまり在宅の当事者やCIL関係の方々と繋がれる機会はありませんでした。あと、八雲病院は医療が強いっていうことで、全国各地から八雲の医療を求めて来る方々がいらっしゃいました。そういう方々を診ていると、病院の方も「ここじゃないとだめなんだな」っていう意識が強くなってしまうということもあるのかな、と。

 

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注釈

1.https://www.city.sapporo.jp/shogaifukushi/documents/300806shiryou2.pdf

プロフィール

SMAⅡ型・札幌市在住|吉成亜実(よしなりあみ)

1993年生まれ、北海道札幌市出身。SMA(脊髄性筋萎縮症)TypeⅡ。電動車椅子を用いて移動。ほぼ全ての日常生活動作に介助が必要で、夜間は人工呼吸器を使用する。中学入学時に八雲病院に入院し、14年間の入院生活を送る。今年6月に八雲病院を退院し、札幌で自立生活を始める。

文/油田優衣

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