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連載2回目

絶望から、退院までの道のり

Ami Yoshinari

文/油田優衣 : 写真/浅里のぞみ

絶望から、退院までの道のり/吉成亜実インタビュー2回目

SMAⅡ型・札幌市在住 | 吉成亜実(よしなりあみ)

1993年生まれ、北海道札幌市出身。SMA(脊髄性筋萎縮症)TypeⅡ。電動車椅子を用いて移動。ほぼ全ての日常生活動作に介助が必要で、夜間は人工呼吸器を使用する。中学入学時に八雲病院に入院し、14年間の入院生活を送る。今年6月に八雲病院を退院し、札幌で自立生活を始める。

目次

絶望から、退院までの道のり/吉成亜実インタビュー2回目

味わった絶望ーー「私は一生退院できない」

――吉成さんは、入院生活をしていく中で、「出たい」という思いになったけど、二度も諦めざるをえなかった。そして今年の六月には、ようやく退院を果たされたということですが、その、日々削られていきそうな中でも、やっぱりそういう思いは消えなかったっていうことなんですね。

吉成:うーん。出てみた今思うんですが、ここの家の方々―支えてもらってるホストファミリー のような方(地域移行を進める中で出会った支援者であり、現在家を間借りするとともに、介助時間の不足分を部分的に支援してくれている)がいらっしゃるんですけど―と色々話してて、私は好奇心が強いねっていうふうに言われて。何をするにも何でも知りたいとかやりたいとか、そういう思いが強くあったみたいで、だから、ここまで来れたのかもねみたいな話をしていました。

そういうのはあったのかもしれないですけど、二度目の断念のとき、「障害者が一人暮らししたいっていうのはわがままだと思う」って言われたときには、ほんとにショックで。これはさすがにもう無理だなって、「今のこの私の人生では絶対実現できないわ」って本気で思って。だったら生きてる意味あるの?みたいな、そこまで考えました。私は(病院から)出ていろんなことをしたいし、できればみんなだってそうできるようになればいいと思ってて、そういう思いも踏まえてお伝えして、でもだめだったんですよ。あんなひどいこと言われて、どうやっても実現できる状態が見えない中で、もう無理だなあってほんとに思ってたから。今回病院を出るまでの話が始まったのも、去年(2019年)のはじめとかだったんですけど、その当時も別に出たいという思いがあったわけじゃないです。

優衣ちゃんが、私に京都のCILの岡山さんという方(JCILの当事者スタッフで、筋ジス病棟の地域移行支援などをされている)を紹介してくれて、そこから始まったんですけど、その方と出会ったときも内心「無理だよ」って思いながら、まぁでも優衣ちゃんの紹介だし、ちょっと話を聞いてみるぐらいなら、いろんなことのためにもなるかなと思って、お話をさせてもらったんですけど、希望を常に抱いていたわけではないですね。

油田:すごい、なんていうかな、「落ちてた」っていうありていの言葉じゃ足りないぐらい、ほんとにね、絶望ではないけど落ちてたよね。

吉成:ほんとに絶望だった。

油田:LINE越しとかでも、すごい落ちてるっていうことが伝わってきたから。私も最初、岡山さんを紹介するのもすごい迷って。2回目に退院を希望した時、東大の先端研っていうバックがあったのに、退院が叶わなかったじゃない。

吉成:そう。先端研の方もとてもフォローしてくれたんですよ。その方がわざわざ病院まで来て、主治医と話したりもしてくれて。でもだめだった。

油田:それでもだめで、で、亜実ちゃんは簡単には病院を出れない状況にあるってことがわかって。また私が話を蒸し返すではないけど、最初、岡山さんを紹介していいのかっていうのは悩みましたね。これでまた―それこそ亜実ちゃんは前に「希望は劇薬になる」って言ってたけど―、また叶わないかもってことを考えると、伝えるのをすごい迷いました。

――「希望は劇薬になる」っていうのは、希望をもったときにそれが折られてしまうと、けっこう反動は大きいという……

吉成:そうです。希望って一見甘い感じに見えるじゃないですか。例えば、私が今病院にいる方に「出れるよ。だって私出れたもん。やってみようよ」って言うのは簡単なんですよ。それで相手の方も希望を持つのはきっと簡単だし。それってすごい甘い言葉だと思うんだけど、じゃあ実際に出るってなると、ほんとにほんとに沢山のことを考えないといけないし、それこそ命と地域で生きることを天秤にかけて考えないといけないし。いろんな体制づくりとか、コミュニケーションだったり、マネジメントとかが実際できるかっていうと、人によっては難しいところもあると思うから。それで、変に希望を持たせて、「よし」って思って、後でだめになったとき……、私はその気持ちを一番知ってるから、希望っていうのは劇薬のようなものだなっていうふうに思ってて。

油田:亜実ちゃんも、去年の、岡山さんを紹介したときは、「ひとまず話を聞く」ぐらいの感じだったよね。「出たい!」っていう気持ちは抑えられてるのかなって感じて。

吉成:その頃はもう、希望自体がなかったです。ただ単に、信頼している優衣ちゃんの紹介で、その優衣ちゃんが「すごく信頼できる人だよ」っていうふうに言ってたっていうので、とりあえず話だけ聞いてみようって思ったんだけど、やっぱり頭のうしろには、「でもどうせ無理なんだ。また変に期待を持って、だめになったらどうすんの?」っていう思いはあったけど、とりあえず話だけ聞いてみようって、ほんとにそれしかなくて。誰かに、藁にもすがる思いで岡山さんに駆け込んだっていうわけではないです。

 

絶望から、退院までの道のり/吉成亜実インタビュー2回目

退院までの準備ーー「ここまで準備すれば、誰も止められない」

――その状態からまた出たいっていうふうに思えたのはなんでですか?

吉成:そうですね。退院までの経緯を簡単に説明しますと、去年(2019年)の3月ぐらいに優衣ちゃんから京都のCILの岡山さんを紹介いただいて、そこで情報提供とか経緯をお互いに共有しあいました。そこで、京都での退院支援の事例とかも聞いて、支援体制があれば退院も実現可能そうだっていうことはわかったんですよ。岡山さんたちみたいな支援者がいればできるんだろうなみたいな。ただ、今までの2回の断念とかの経験からも、病院の協力を得るのは難しそうだったし、自分は外部の繋がりもなかったから、不可能だろうなって思いをまだ抱いてて。

そのあとに、岡山さんから、『こんな夜更けにバナナかよ』の渡辺さんを紹介してもらって。渡辺さんは病院のこともわりと詳しく知っておられたんで、情報共有をしながら話をしてて。渡辺さんも「出れるよ」っておっしゃってたんですよ、最初から。「大丈夫だよ」って。でも、そこでも私まだ「いや無理でしょ」みたいに思っていて、内心。そこから、渡辺さんが、ある在宅医療関係者の方と話す機会を作ってくれて、その人が知っている私と同じ病気の方の状況とか、地域の状況とか、在宅医療ってどういうものなのかみたいなことを教えてもらいました。そのへんから、「病院を出たら死ぬって言われてたけど、今、病院の外で生活してる人は普通に在宅生活をしてるみたい。……死んでないじゃん」って思って、そこでちょっと「あれ?」って思い始めたんですよ。その後CILの方とか、今私が住んでるお宅の方(ホストファミリー)、介助ボランティアの方に出会ったり、自立体験をしたりっていうことをやってるうちに「実現できるんじゃない?」って思ってきて。1回目の自立体験をしたのが去年(2019年)の10月ぐらいで、それが終わったあとから、だいぶ出れるという現実味が帯びてきたなっていうところかな。

――その中でロールモデルとなった人はいましたか?

吉成:ロールモデル自体はいませんでした。そもそも病院から、このようなかたちで出て一人で、いろんな方の手を借りて暮らすっていう人は私の知る限りいなかったから、本当にそこが大変でした。ただ、優衣ちゃんみたいに親元を離れて一人で暮らすっていうことを、制度とか公的支援を利用して実際やってる方も見ていたし。でも、私の状況のような、がんじがらめの中から出れたっていうロールモデルはいなかったですね。そのほかにもいろんな方のお話を聞いたは聞いたんですけど……。全部自分で一から作ったから、そこが一番大変だったかな。

――パイオニアですね、吉成さんが。いろんな人との出会いがあって、自立体験もして、それで主治医を説得してっていうところで八雲病院をもう退所するぞっていうところに、じわじわといっていったんですね。

吉成:今までの経緯もあったし、私以外にも様々な理由で退院を断念せざるを得なかった方々がいたから、最初から病院に「出ようと思う。こういう準備をしてます」と言ったらおしまいだっていうふうに思っていて。今回は一切病院には伝えずに、今まで話してたここまでのことをやってきました。制度のことも、家のことも、親の説得も、医療のことも、介助の体制も、だいたい全部大丈夫だっていう準備ができたあとに、主治医に全部伝えました。

油田:病院に言ったのっていつやったっけ?

吉成:(2020年)6月5日。

油田:退院する2週間前か。

――すごいですね。

吉成:そこまで主治医はたぶん知りませんでした。病院の人は誰も。

油田:1年ぐらい水面下で動いたってことやもんね。

吉成:うん。みんな、協力する人にも「絶対誰にも言わないでください」、「お願いだから慎重にしてください」って言って、いろんな準備をして、病院にはぎりぎりまで伝えませんでした。

油田:そのとき亜実ちゃん、「もう戻れないぐらいまで準備して、病院から何を言われても折れないぐらいまで準備をして出る」っていうことも言ってなかったっけ。

吉成:そうやね、変に中途半端な段階で伝えて、また「だめだよ」「無理だよ」って言われて、心が折れてしまうのは本当に嫌だったから。もう戻れないぐらいのところまで来ちゃえば、自分の背中をせっつけるみたいなのもあって、こういう方法をとったんですけど。本当は絶対に(この方法は)とらないほうがいいと思う。ちゃんと病院の協力を得たうえで、いろんな研修とかもやって、そういう体制をちゃんとみんなで一緒につくったほうがいいと思う。

油田:病院側に(退院しますってことを)言った後に、亜実ちゃんになにか不利益なことがあった場合は、こうこうこうしようみたいなことも考えてたよね。

吉成:もしそういうことがあったら……みたいな、そこまで考えないといけなかった。実際やってみればそんなことは全くなかったんですよ。でも何もなかったのも、私がここまで準備して、病院側も私の退院計画の全貌が見えなかったからで、何も考えなしに「出たいです」「こういう支援者がいます」とか言ってたら、もしかしたらまた断念する方向で進んだかもしれない。っていうふうには思います。

――いろいろ準備を整えて、出れる状態になって、退院の2週間前に主治医の方に伝えて出たっていうことなんですけど、例えば一人暮らしの場所の確保とか、行政との介助の支給時間数の交渉とかは、どのような感じでされたんですか?

吉成:まず一度札幌の協力者の方々と会って話をしてみようという流れになりまして。去年(2019年)の6月に、札幌に外泊をしました。渡辺さんや地域の在宅医療の状況に詳しい方々や、札幌の当事者の方々とお会いして、お話をしたんですよ。そこでは、自分のこれまでの経緯を共有したり、「出たいと思っているんだけど、どうすればいいのか、さっぱりわからないからお知恵を貸してほしい」っていうことで、お話をさせてもらって。

で、その後もまた情報をいろんな方と共有して、同じ年(2019年)の8月にも、協力者の方々と集まって話をしました。そこで、介助の支給時間数をもらうための手続きも病院に気づかれずに行わないといけないっていうことと、家を探さないといけないということと、あと介護事業所を探さないといけないっていう、大きな3つの課題があるっていうことがわかって、どうしようかなぁと。その話し合いの後、ある介護事業所の方を紹介されて。それが今利用している事業所さんで、先ほどから出ているホストファミリーの方なんですけど。その方が、たまたま退院支援をしたことがある方でした。病院から出るにしても、病院から移って住む場所がないと大変だということから、ご自宅の二階に空き部屋を用意して、私のような状況の人も一時的に住めるような環境があるっていうことでした。で、その方から「お部屋を探す協力もできるし、とりあえずはうちの部屋を使ってもいいよ」っていうことで声をかけていただいて、住宅の候補としてはそこが挙がりました。

制度のことはどうしていいかまだ全然わからないままで、とりあえずそのお部屋で自立体験をしてみようということになって。渡辺さんや、その後出会った札幌の当事者の方の協力のもと、ボランティアというかたちで介助者を手配してもらって、(2019年)10月に(現在も住んでいる)この家で自立体験をしました。
で、自立生活センターに行ったりして、制度面でどういう相談を誰にすればいいのかということで紹介されたのが、市の基幹相談支援センターという相談室でした。そこで制度や手続きの面のことを相談したら、その方々が役所とやり取りをしてくれました。定型なんで、540時間と決まっていて、交渉とかはそんなに必要なかったです。

 

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絶望から、退院までの道のり/吉成亜実インタビュー2回目

プロフィール

SMAⅡ型・札幌市在住 | 吉成亜実(よしなりあみ)

1993年生まれ、北海道札幌市出身。SMA(脊髄性筋萎縮症)TypeⅡ。電動車椅子を用いて移動。ほぼ全ての日常生活動作に介助が必要で、夜間は人工呼吸器を使用する。中学入学時に八雲病院に入院し、14年間の入院生活を送る。今年6月に八雲病院を退院し、札幌で自立生活を始める。

文/油田優衣

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