連載2回目
友人関係に根ざした介助で得られたアメリカでの暮らし
2021年10月05日公開
Dan ITO
文/嶋田拓郎・伊藤弾 : 写真/嶋田拓郎
SMA(脊髄性筋萎縮症)・東京都板橋区在住|伊藤弾(いとうだん)
1992年2月2日に東京都で生まれる。生後約8ヶ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断される。1歳まで生きることすら難しいと医者から宣告されるが、大きな病気を患うことなく現在まで過ごしている。高校卒業後はアメリカ合衆国・ユタ州で約9年間生活し、2018年にBrigham Young大学卒業。 地域の新聞に自身の背景について取材され、また英語習得のため通っていた英語学校にて、自身の名前を冠した特別奨学金「Ito Scholarship」(※)が始まるなど、地元ユタ州にて注目される存在となる。
現在は、日本に帰国し、東京都板橋区にて自立生活をする傍ら、CIL東大和とNPO法人境を越えてでボランティアをしながら、都内で英語塾 を経営している。
アメリカに惹きつけられて渡米
――伊藤さんは高校卒業後、18才でアメリカに渡られました。大きな決心だったと思うんですけど、きっかけは何だったんでしょうか?
伊藤:アメリカに行きたいという想いは小学生ぐらいから持っていました。というのも、小学4年生のときに、家族旅行でアメリカに行ったんです。またその後にもう一度、兄の結婚式でハワイにも行きました。それでアメリカに縁を感じて、惹きつけられていました。そのときは英語がわからずコミュニケーションが取れなかったのですが、それでも「コミュニティの一員になれた」と小学生ながらも感じました。「自分はアメリカに生まれてアメリカに育ちたかったな」と思うぐらい、小学生ながら衝撃的な旅行でしたね。
兄のパートナー、つまり義理の姉は[日系]アメリカ人なんですけど、彼女の家族もすごくいい人たちで。言語の壁はあるけど、よくしてもらいましたね。あとはアメリカのドラマを観始めて、アメリカ文化に憧れを持っていました。それで「そのうちアメリカに行けたらいいな」っていうふうに言っていたんですね。それで自分が高校を卒業するタイミングが近く、高校卒業する期間が近づいてきて…。
――「日本に住んでいることの生きづらさ」っていうことを、アメリカに行ったことで何か気づいたっていうことなのですか?
伊藤:日本で生きづらさを特別感じていたわけではないのですが、アメリカに行ったら、もっと人がフレンドリーのように感じました。優しさに触れることで、「ああ、なんかいいなここは」とすごく惹きつけられていました。それで特別支援学校の先生に「アメリカにいつか住む」と言っていたみたいです。
――高校生が単独渡米する準備は大変だったと思うのですが。
伊藤:実は兄のうちの一人、タツも障害を持っているのですが、彼もアメリカに一緒に行きたいと言っていたんです。タツはすでに日本の大学に通っていたのですが、あと1年で卒業というときに、退学を決めました。行動力がある兄だったので、自分たちが通える学校があるか、3週間アメリカに偵察に行ったんです。
自分はまだそのとき高校生だったんですが、兄が調べて手続きのやり方を学んできてくれました。自分が高校もうすぐ卒業っていうことで、「じゃあもう4月に行くか」っていうことになって、「じゃあ誰が一緒に行くんだ」とかいう話になりました。それで、母が「じゃあ私いくよ」と(笑)。母はフットワークが軽く、良い意味で後先考えないような、フィーリングで生きているような人なんですよ。
ただ、母が日本を離れることができた理由がもう1つあります。それは障がいのある兄が突然亡くなったことです。兄が生きていたら「家で兄を誰が介助するんだ?」となっていたはずです。辛かったんですが、兄が亡くなったことで、兄の分の介助がなくなって、母が僕とタツの介助をできることになり、アメリカに行くことができました。姉も結婚していたし、父親も単身赴任で長野のほうにいたので、母親も「家に誰もいないし、行こうか」ってことになった。私ともう1人の兄と母親と3人でアメリカに行くことにしたんですね。
――すごいですね。
伊藤:偶然に偶然が重なっていますね。
ボランティア介助で成り立っていたアメリカでの生活
天畠:向こうでは介助の体制はどうされていたのですか?
伊藤:起床時と就寝時の食事介助や着替えを母にやってもらっていました。学校に通い始めると、通学やキャンパス内で助けてくれる人がいっぱいいました。友だちが助けてくれたり、学校側がボランティアを学校中から探してくれたり。
最初は英語が全然わからなかったので、英語学校に通う必要がありました。その英語学校は、大学付属で、障害学支援センターも近くにあったのです。そこで障害当事者も何人か働いていて、キャンパス内で助けを必要とする障害者への相談に乗ってくれていました。私が相談にいって何が必要かすべて話すと、「じゃあこのサービスを使ってください」とアドバイスをくれました。それも学生なら無料で使えるサービスなんです。
たとえば試験時間を延ばしてもらう必要があったら、先生に「テストの時間を延ばしてください」という手紙をスタッフが書いてくれました。ノートテイクの学生ボランティアも探してくれました。何か困ったことがあれば、全部センターがサービスとつなげてくれました。
ノートテイクの学生やクラスメートからは、「時間があるから、食事介助もしてあげるよ」というように、決まったこと以外も頼めばやってくれました。入浴介助も、力のある男友だちが家に来て、お風呂の浴槽に入れるのを抱きかかえてやってくれました。そうやって、なんとか介助体制をつなげていった感じです。なので、特別に介助者を雇っておらず、母親に必要最低限やってもらって、外に出たら外にいる人に頼りまくっていた9年間でしたね。
――手伝ってくれた友人も、ボランティアだからというよりも、「友だちだから」手伝ったということなのですかね。
伊藤:そうですね、友だちですね。
――遊びに行くついでに介助もした、というような。
伊藤:はい。もうほんと友だちだから別に、何にも違和感なかったです。
——なるほど。ただ、アメリカでも公的な介助制度はあったと思いますが、伊藤さんは利用されなかったのですか?
伊藤:そもそも介助サービスがあるということも知らなかったんですよね。その後、制度の存在は知ったので、利用しようと思えば、途中からできました。ただ、公的以外に支払いが必要となる部分について、保険が無く、自費が高くついてしまうという欠点があって、ハードルの高さを感じました。
――自費で賄わなければならない点にハードルがあったと。
伊藤:そうです。そして、その時点で私の場合は、友達の助けで間に合っていたので、「なんとかなるか」と思っていたんです。
――「なんとかなるか」と思えるほど、周りの友人に恵まれていたということでしょうか。そのほかにも、障害者支援センターに当事者の職員がいるということも重要ですね。
伊藤:そうですね。私の場合は、同じ障害の女性に相談役になっていただきました。同じ障害だから、「これとこれが必要で」っていうのを全部わかってくれていました。私のような重い障害の人が学校に通う事例があまりなかったのですが、「事例を作ろう」って言ってくれて。心強かったです。
――心強い。日本の大学でもそうした障害者支援の窓口とか当事者職員をどんどん雇ってもらえればいいんだろうなあ。ところで伊藤さんは、アメリカにいつまでいようと考えていたのですか?
伊藤:母は2年で帰ると思っていたようです。
――語学留学の期間の範囲でという考えですね。
伊藤:「どうせ勉強は難しいし。すぐ諦めて帰るだろう」と母は思っていました。僕も「日本が恋しくなって帰るんじゃないかな」と考えていました。ただ、わりとことがうまく進んで英語も習得でき、大学進学もできたんです。まあそうやって結果的に長くなっちゃいましたね。
留学生は卒業後に1年間だけ現地で就職して働くことが認められているのですが、卒業後はスムーズに就職先も見つかり、8ヶ月だけですがフルタイムで語学学校の教師として働く機会もありました。
「友人だから助けるのは当たり前でしょ?」と時間外にも介助にきてくれた
――大学卒業後、数ヶ月働かれていたかと思いますが、職場での介助はどのようにされていたのですか?
伊藤:大学を卒業したあとは、学校の制度を使えなかったのですが、職場環境自体はすごく良かったんです。たとえば私が授業を教えるとき、パソコンの操作を自分の手でおこなうのがなかなか難しかったんです。広い部屋を動き回ったりするので、誰かサポートが必要だったんですよね。それで上司が職場近くの大学生を何人か雇ってくれたんですよ。また、昼ごはんの食事介助は、同じ職場にいる同僚に頼んでいました。
――ボランティアの人には気兼ねがするけど、お金を払うことで頼みやすくなり、「その介助の仕方だとやりにくいんで、もっとこうしてください」というように伝える場合があるかと思います。アメリカでの介助をしてくれる人との関係はいかがでしたか?
伊藤:僕自身、今考えるとびっくりするぐらいお金のことは考えたことがなかったんです。お金で雇っている人たちも、仕事外で連絡しても、すぐに助けに来てくれました。僕のアシスタントになってくれた時点で、仲いい友だちみたいになってしまうので、何かあったときはその人たちに連絡するのを、たまにやりましたね。全然気兼ねなく助けてくれるので。
――お話を伺っていると、その友だちの方々は“自己犠牲”の精神で関わっている感じでもなさそうですよね。
伊藤:自然なかたちで、「できないのなら、できないとこを埋めるのは当たり前じゃない?」っていう考えの人たちでしたね。
――なるほど。
伊藤:逆に僕が申し訳なく思っていると、「なんで申し訳なく思っているの?」と言われるくらいです。「ごめんはもう言わないでいいから」とか、よく言われましたね。「できないことをやってあげるのは当たり前だよ」とよく言われました。
「介助のない1人の時間が当たり前」だったから「我慢」できた/できてしまっていた
――日本に戻られたのはコロナの影響ですか?
伊藤:いえ、アメリカでの生活に飽きてきたんです。食事が合わなかったということもありますが、日本に帰りたいっていう気持ちが強くなりました。最後の1、2年はずっと日本に帰ることばっかり考えていました。
――「もう帰国しよう」と決めたのはいつ頃ですか?
伊藤:2019年の4月に帰国する予定でした、本当は。ただ色々ありまして、帰国が早まったのですよ。
――そのときはそのままお母さんは残って、伊藤さんだけ帰られたっていう。
伊藤:そうですね、まあ母親も一応帰るときは一緒についてはきてくれたんですけど、自分が一人暮らしを始めるのを見届けて、アメリカに帰ったという感じですね。
――それで実際日本に帰ってから重度訪問介護の申請をされたんですよね。時間数は充分にもらえましたか?
伊藤:最初は全く足りなかったです。僕の場合、夜が心配だったので、夜の介助を多めにして、昼はほぼ一人でいるというシフト体制で最初の1ヶ月間は過ごしました。
――そうなると、最初の1ヶ月は何も生活ができないですよね。
伊藤:そうです。でも友だちに泊まってもらったりしたことも何回かありましたし、一緒にごはん作ったりとか頼んでいました。でも、1日誰もいないときは一人で家にいました。ごはん食べないで一人で家にいるのも全然苦じゃなかったですね。「今日ぐらいはいいや」って感じで。
――良い言い方でいうと、サバイバル能力があるということでしょうか……。
伊藤:僕は障害が重いし、アメリカでも一人で何もできないんですけど、何とかしてやっていました。できなかったら誰かに頼んでやってもらっていましたし。介助無しで一人の時間が今までもあって、本当に必要なときだけ友だちを呼ぶことが多かったです。ですので、日本に帰って来てからも、介助者なしで家に一人でいるのとか、一人で電車に乗ってどこかに出かけることも苦じゃなかったです。
――なるほど。ただ、「苦」ではないといえ、自分のしたい生活を我慢しているということでもありますよね。
伊藤:そうですね。アメリカでは、介助がいない時間があるというのが当たり前だったので、そこまで苦ではなかったし、そのおかげで日本に帰国してからの、介助者がいなかった1ヶ月も余裕で乗り切れたのかもしれません。
CILとの出会いで、日本での自立生活の準備ができた
――そこからまた行政と交渉を重ねて、月700時間までいったのが、だいたいどのくらい期間ですか?
伊藤:1ヶ月くらい経ったころですね。福祉事務所で一度、北区にあるCILの関係者に同席してもらって役所と交渉をし、次の月には24時間分の時間数を獲得しました。
――なるほど。CILとのつながりはもともとあったのですか?
伊藤:日本に帰るまでは、CILの存在を知らなくて……何にも知らないまま日本に帰ってきて、たまたま特別支援学校時代の友だちに連絡をしてみたら、その友だちがCILとの関わりがあったんですよ。その友だちがいろんな人を紹介してくれて、ヘルパー事業所も紹介してくれました。CILという概念や、介助の制度に触れる機会は、その友だちから始まりました。
――なるほど。そういったことで日本の福祉制度や生活の仕方もキャッチアップできたんですね。
伊藤:そうですね。 CILの人たちと繋がらなかったら、一人暮らしに必要なサービス提供時間数も、ここまで出なかったのではと思います。
プロフィール
SMA(脊髄性筋萎縮症)・東京都板橋区在住|伊藤弾(いとうだん)
1992年2月2日に東京都で生まれる。生後約8ヶ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断される。1歳まで生きることすら難しいと医者から宣告されるが、大きな病気を患うことなく現在まで過ごしている。高校卒業後はアメリカ合衆国・ユタ州で約9年間生活し、2018年にBrigham Young大学卒業。 地域の新聞に自身の背景について取材され、また英語習得のため通っていた英語学校にて、自身の名前を冠した特別奨学金「Ito Scholarship」(※)が始まるなど、地元ユタ州にて注目される存在となる。
現在は、日本に帰国し、東京都板橋区にて自立生活をする傍ら、CIL東大和とNPO法人境を越えてでボランティアをしながら、都内で英語塾 を経営している。
文/嶋田拓郎・伊藤弾
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