あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載2回目

絵本作家になる夢を目指し、地域の高校・短大へ。「地域にいてよかったのは、町に「私を知っている人がいっぱいいる」こと」

Rie Kubo

文/油田優衣 : 写真/其田有輝也

SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型|くぼりえ

1974年、大阪府枚方市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。地域の保育所、小中学校、高校に通う。成安造形短期大学卒業。フリーイラストレーター、絵本作家。著者に、『バースデーケーキができたよ!』(2001)、『およぎたい ゆきだるま』(2006)。2022年4月から、枚方市の「重度障害者等就労支援特別事業」を使って、在宅で公的な介助サービスを受けながら働いている。
くぼりえさんのホームページはこちら≫http://kuborie.com/index.html

【イントロダクション】

地域の保育所、小中学校、高校、短大に通い、その後長年、在宅でイラストレーター、絵本作家として働かれている、くぼりえさん。
40歳になる頃から重度訪問介護の利用を始めるも、「経済活動」中の利用制限により、サービス利用時には仕事ができないという障壁に直面します。
それまで、フリーのイラストレーターとして、さまざまな人とのつながりや信頼関係のなかで仕事をしてきたくぼさんにとって、「経済活動」中の利用制限は、これまで積み重ねてきたキャリアにも多大な影響を及ぼしかねないものでした。
仕事を続けるため、長年、その制限の中で、わざわざヘルパーのいない時間を作ったり、ヘルパーのいない早朝や深夜に仕事をしたりして、なんとか仕事をし続けていたくぼさん。何年間にもわたって、市にその問題を訴え続け、ようやく2022年4月から、枚方市の「重度障害者等就労支援特別事業」を利用して、在宅で公的な介助サービスを利用しながら働くことが可能になったそうです。
くぼさんのお話からは、障害のある人が仕事中に公的な介助サービスが使えないことによる理不尽さについて深く考えさせられます。

また、インタビューでは、くぼさんが書かれた『バースデーケーキができたよ!』の話題でも盛り上がりました。
その絵本に関して、くぼさんは「楽しいケーキ作りの本に出てきた主人公の少女が、べつに何の理由もなく、たまたま車いすだったってことにしたかった」と述べられます。くぼさんが、絵本に込めた想いとは……?

インタビューは全4回。
第2回は、くぼさんの短大卒業までのライフストーリーをお聞きしました。

(文/油田優衣

目次

戸惑いも多かった中学時代。中学校はサバイバル的な要素が多い?

油田:中学校生活はどんな感じでしたか?

くぼ:中学校はほんとに、精神的にも体力的にもすごくばらつきがある年代で。やっぱり戸惑いが多いですよね、中学校ってね。ちょっと大人の入り口にも立っているし、でも子どもだし、いろんな状況の人もいるし、ちょっとややこしい年代というか。
私は、校区の関係で、母校の小学校から1割くらいの生徒しか通わない中学校になってしまって、転校生みたいな感じで、友人がほぼゼロからのスタートになりました。保育所と小学校はずっと「誰かが私を知っている」っていう状態で、クラス替えをしても、何人かは「あ、りえちゃんと前に同じクラスだった」って人がいたから、そんなことの積み重ねでうまくいってた面もあったんだけど、中学校はゼロからのスタートで、もうコミュニティができあがってたところにぽんと入ってしまたっていうのもあったから、わりと仲間として認めてもらうまでに時間がかかったなあ。それに、精神的に幼い人もいれば大人の人もいて、すごい厳しいこと言われたり、ぜんぜんそうでもなかったり……。

油田:厳しいこと?

くぼ:小学校で認められてた「特例」みたいなこともなかなか認めてもらえなかったり。中学校は、たとえば、運動会で、私がいるチームが不利にならないようにいろいろルールを変えるときも、すんなりいかなかったですね。いろんな考えがぶつかっちゃって。

小暮:めっちゃわかる。

くぼ:たとえば、「全員リレー」といって、全員で走らないといけないリレーがあるんです。小学校の場合は1人100m走る。私は車いすが少しこげたから、ふつうの足の速さの人が100m走るのに何秒かかるかタイムを計って、そのタイムで私が何m進めるかを測定して、私だけスタートラインを前のほうにしてもらうんです。私は7mで、その距離を自分でこいで第二走者にバトンを渡す。そういうやり方は小学校ではすんなり認められました。「それは平等だね」って。それが、中学校では「いや、そこまでする必要ある?」「出なくていいんじゃない?」みたいな人もいて、「えっ?」と驚きました。学校からも「危ないし、何かあったら困るから、体育祭は出ないようにお願いします」と言われたり。そのことに対して、クラスでもあまり異論がなかったので、「(小学校とは)違うんだなぁ〜」と思って。それでも、「出してください」と言って出たんですけどね。それで、チームのタイムがちょっと遅かったりすると、私が文句を言われるんですよ。それぞれの自己責任なんですけどね。

小暮:中学校って、そういうサバイバル的な要素がめちゃくちゃ多いと思います。私も、「これをやったら次の日無視されてもしょうがない」くらいの覚悟で毎日行ってた。今のくぼさんの話のように、「走りたいけど、走ったら次の日どうなるかわからない」みたいな。でも、それを自己責任って言われるみたいな。そういうことが私もめちゃくちゃありました。

くぼ:私は負けん気が強くて、売られたけんかは買ってしまってたし、理不尽な文句を言ってくるクラスメイトにも割と負けてなかった気がします。体育祭のことも、「私がいたから不利になったわけじゃない」って自分の意見を相手に伝えていたし。聞き入れてくれるくれないとか、解決するしないは別として、何でも根にもって後から言うのはフェアじゃないなと思ってたから、何でも、その場その場で思ったことは伝えて、なんとかしてました。

小暮:それがなんか強いなと思います。正面から自分一人でぶち当たっていって、ちゃんと対話とするっていうのが、かっこいいなと。私は、(なにかクラスメイトから嫌なことをされたら)そいつが所属している部活の顧問の先生にちくって、部活の顧問の先生から怒ってもらってました。そうするといちばんダメージでかいんですよ、ぜったい黙るから。そういう姑息なやり方をやってました(笑)。

くぼ:それもいいと思うよ。

油田:べつにそれもいいと思うけどね。

くぼ:うんうん。私はその場で「手に負えないな」と思ったら、先生にも来てもらって全部大っぴらにするんです、みんなの前で。運動会の日に、結果が決まったあと、グラウンドでクラスメイトに文句を言われたときには、グラウンドで大げんかをして。友人も「なんか誰かがけんかしてるなあ」と思ってのぞいたら、「りえちゃんだった」って(笑)。まぁ、そんな大げんかはそんなにしてないけど。言いたいことはその場で。

地域にいてよかったのは、町に「私を知ってる人がいっぱいいる」こと

くぼ:高校生になると、みんな精神年齢も上がって、ワンランク大人になるんです。それに、地域の高校に入ったから、保育所、小学校時代の仲間とまた合流できて、「あ、りえちゃんもこの学校に来たの!」みたいになって。それで高校はすごく快適でした。つかず離れずの距離感で、手伝えるところをさっと自然に手伝ってくれて。小学校よりももっと自然に過ごせた感じがしました。

油田:小暮さんも言ってたよね、高校からはけっこう楽だったって。

小暮:そうそう。高校はトゲトゲしてなかった。

くぼ:たぶん高校生のときは、みんな心にゆとりがあった気がする。自分で自分をコントロールできるし、いろんなことに目が向くし、いろんなことに興味が湧いたり。高校生ってすごく世界が広がる瞬間でしょ。私も学校生活を謳歌できたし、いまだにみんな仲が良くて、飲み友だちになったりして。すごいありがたいなって。やっぱり地域にいてよかったって思えるのはそういうところですよね。町の人が私のことを知っていて、友人もいて、友人のきょうだいも家族も、私のことを知っていて。私を知ってる人がいっぱいいるっていう。

油田:「私を知ってる人がいっぱいいる」、すごい大事なことですね。私、中学を出るまで8年ぐらい特別支援学校に通ってたんですど、やっぱりそのときって近所に友達も知り合いもいないんですよ。近所は私のことを知らない。だから、急に高校から地域の学校に通い出したときは、誰も私のことを知らなくて、「油田さんって何者?」「どっから来たんだろう」とか、あとは年齢がわからない疑惑とかも出ててましたね。「油田さんってほんとは何歳なんだ?」みたいな。あと、私は一つ下に健常の弟がいるんだけど、高校に入って初めて、弟を知っている人たちが「え! 油田にお姉ちゃんいたんだ!」となって。そこで初めて地域で存在を知られる。それまで私は地域には存在してなかったんですよね。だから、近所の人たちが私を知ってくれているって、ほんとに大事なことだなって思います。

くぼ:私は運動会等でビジュアル的に目立ってしまうし全校生徒の親御さんに目撃されてるし、私の名前も1年生から6年生までみんな知ってる。下級生から呼び捨てにされて「あ、くぼりえだ」って言われる生活(笑)。なんか固有名詞みたいになってて。市場やスーパーに行っても「あら、りえちゃん!」って知らないおばさんから声かけられて。母も誰かわからなくて、「たぶん誰かのお母さんなんだろうね」って。誰かわからない人にも見守られてるんだなって。毎日そう思ってました。

地域の学校に通っていた積み重ねがあったからこそスムーズだった高校進学と短大進学

油田:ちなみに少し話がさかのぼるんですけど、高校に入るときはすんなりいけた感じだったんですか?

くぼ:中学校の校長先生が、私が入学してすぐに、地元の府立高校に進学の打診をしてくださってたみたいで。

油田:くぼさんが中学1年のときから?

くぼ:うん。それで、その高校の先生が、私の知らない間に中学校に見学に来てくださっていたりして。それまでずっと地域の保育所や小中学校に通っていた積み重ねがあったからこそうまくいったのかなあって。当時、他府県では、入試をクリアしたのに入学を断られて裁判になっていた時代だったんだけど、私はそういうこといっさいなく、すんなり受験ができて合格して入(はい)れて、すごいラッキーだったんです。本当は、すんなりじゃなかったかもしれないけど。保育所から小学校、小学校から中学校へ進学したときも、そういう一連の事前の準備や交渉の流れがあったので、私が進学の意向を学校に伝える度に動いてくださっていました。

油田:へぇー! 最初から地域にいたからこそ、次のつながりが生まれやすかった面もあったんですね。

くぼ:希望したら協力してくれる人がいたっていうのはすごい大きかったです。美術の短大に行きたいっていうのも1年生のときから希望してました。

油田:高校1年のときから?

くぼ:そう。そもそも高校も、芸大に行くには高校卒業のライセンスがないといけないから行ったんです。あんまり勉強は好きじゃなかったけど、芸大に行くために高校は行かなきゃいけないんだなあと思って。

油田:もう中学高校あたりから、美術系の学校を目指していたんですね。

くぼ:中1のときにもう絵の道に進むって決めてたから。

油田:へえー、そうなんや!

くぼ:本当は、中学を出たら専門学校に行きたかったんです。絵本作家になりたくて。それで、絵本科がある専門学校が大阪の梅田に1件あったので、「そこにぜったい入るんだ!」と思ってパンフレットを中1で取り寄せたら、「高卒」っていう条件が書いてあって。「あ、高校行かないとだめなんだ」と思って、高校受験を目指しました。そして、高校に入ってから、視野も広がって、美術の先生に専門学校より大学で勉強することを勧められて、それで大学進学に切り替えた。そしたら、担任の先生も美術の先生も協力してくださって、一緒に事前の交渉に行ってくれました。「絶対にやりきる生徒だから受け入れてやってください」みたいなことを言ってくださって、思っていたよりすんなり受け入れが決まったんですよ。

油田:すごい。

くぼ:でも、今みたいに合理的配慮はない時代で。入試は、絵を描いて、その出来栄えで合否が決まるんですけど、私は手が不自由だから、やっぱり不利なのね、ふつうの元気な人よりは描くのが遅いし。でも、そういうことへの配慮はなかった。「みんなと同じテストを同じ条件で受けて、合格できれば受け入れます」というスタンス。時間の延長を申し出たんだけども、それは却下されて、それでもいいです!っていうことで。みんなと同じ時間で試験を受けました。

油田:けっこうしんどい条件のなか、そこをクリアされたんですね。

くぼ:そうですね。上を目指すためにも、受験のためにも、高校生活は絵の勉強ばっかりしてました。それで入試に合格して、京都の成安造形短期大学に。

短大では、大好きな絵の勉強に没頭

油田:短大に合格されて、どういうふうに大学生活を組み立てて過ごされてたんですか?

くぼ:介助のボランティアの組織があるわけでもなかったし、地域にそういうコミュニティがあるわけでもありませんでした。私は大阪府枚方市に住んでいるんですけど、短大は京都にあったので、その学校のすぐ近くに部屋を借りてそこから電動車いすで通いました。介助者もいなくて、エレベーターもない校舎でしたが、出来ないこと、してほしいことをその都度頼んでしてもらう経験があったから、階段の登り降りも誰かに頼もうと思ったし、授業も困ったことがあれば友人や周りの人に助けてもらおうと思っていました。今までの延長線上で、何とかなるかなって。でも、(短大の先生と)小中高のときの先生とは勤務体系も違いますし、お手洗いや着替えなどを協力していただくのはなかなか難しくて、お手洗いは家に帰って、母にしてもらいました。

油田:それぐらい近かったんですね。

くぼ:近かったです。美術って、絵を描く実習が多いんですよ。その時間の介助を全部友人に頼むと、友人の集中して絵を描きたい時間を削ってしまうので、それはあまりに申し訳ない。時間も長いので、そこは学校に許可を得て、母に実習の間の介助に来てもらって、絵具を溶いたり水くんだりしてもらいました。

油田:じゃあお母さんに付き添ってもらう時間を作りながらなんとか。

くぼ:午前中は実習がないので、なんとか一人で乗りきって。お昼ごはんの時間ぐらいから母が実習室に来るっていう。そういう毎日でした。

油田:短大での生活ってどうでしたか? 思い出とかありますか?

くぼ:いやもう、めっちゃくちゃ楽しかったです。

油田:というのは?

くぼ:絵が好きだし、絵の勉強ばっかりできるし。私は日本画クラスだったんですけど、日本人として生まれてなんで一度も義務教育で日本画を学ぶ機会がないんだろうって思っていました。日本画の魅力は常日頃すごく感じていたので。どうやったらあんな素敵な絵が描けるんだろうって。それを知りたかった。油絵とか版画やデザインは、高校までの間に経験できていたので、短大では違うことをやろうと思って日本画を選びました。他にも選択科目っていうのもあって、それは、コンピューターグラフィックを選びました。
好きなことしかしないからいいよね。お寺に襖の絵を見にいったり、二条城の障壁画の修復をされている先生のところに見学に行かせてもらったり。学生の間にしかできない美術の勉強もいっぱいできたし。イタリアとフランスに1か月ほど海外研修にも行けました。語学が心配だったから1年前からイタリア語の勉強も始めて。フランス語は、挫折したけど。そんな勉強も自分がやりたいことだから、すごく楽しかったです。

プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型|くぼりえ

1974年、大阪府枚方市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。地域の保育所、小中学校、高校に通う。成安造形短期大学卒業。フリーイラストレーター、絵本作家。著者に、『バースデーケーキができたよ!』(2001)、『およぎたい ゆきだるま』(2006)。2022年4月から、枚方市の「重度障害者等就労支援特別事業」を使って、在宅で公的な介助サービスを受けながら働いている。
くぼりえさんのホームページはこちら≫http://kuborie.com/index.html

文/油田優衣

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