あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載2回目

3年間、東京のCILで自立生活運動を学ぶ。これまで見聞きしてきたことが「点と点が全部線でつながった」

Chieko Terashima

文/油田優衣 : 写真/深津京子

SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型・「自立生活センター・VISION」代表 寺嶋千恵子

1987年、愛知県名古屋市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。2008年に自立生活を始める。AJU車いすセンターで活動したのち、自身のCIL「自立生活センター・VISION」を設立。2018年に子どもを出産。

【イントロダクション】

寺嶋さんは、地域の保育園、小中学校、高校、短大に通い、卒業後は「AJU自立の家」の就労部門に就労されました。2008年から自立生活を始め、全国介護保障協議会の研修生としての活動やAJU車いすセンターでの活動を経て、2021年には自身で「自立生活センター・VISION」を設立。現在は自立生活センター・VISIONの代表を務められています。また、寺嶋さんは2018年に結婚・出産を経験されたことから、当時「難病がありながら出産をした障害者」として注目を浴び、さまざまなメディアでの取材を受けられました。
今回のインタビューでは、寺嶋さんのライフストーリーや、出産後のメディア取材でのあれこれ、介助サービスを使いながらの育児について、お話をお聞きしました。

(文/油田優衣

目次

しぶしぶ短大へ進学。短大では「本当に、人の目が気にならなかった」

油田:高校卒業あたりのことをお聞きしてもいいですか?

寺嶋:高校のとき、あまり勉強したくなかったので、大学にも行きたくなかったんです。ただ、高校の成績は内申点がすごくよかったので、学校側としては、推薦でいいところに行けるから、大学に行ってほしいわけですね。親や先生たちに説得されて、私は「行きたくない!」「もうこれ以上、勉強はしたくない!」って言い張ったんですけど、まぁ行かなかったところでどうするんだっていう話になりまして。

油田:あぁ、そうかー。

寺嶋:じゃあ、まぁ行くしかないか……となりました。高校のとき、英語だけは少し得意だったので、「英語の専門の学校に短大でいいから行きなさい」と言われて、そこの推薦をもらいました。ただね、ほんとにやらなかったんです……推薦入試のための課題を(笑)。行きたいと思ってないから。課題では、自己推薦文と小論文を書かないといけなかったんですけど、ぎりぎりまでやらなくて。提出する課題はボールペンで書かないといけなくて、書き間違えるとすべて書き直しなんです。期日の夕方まで、同じ短大を受ける友だちと2人で、「え、また間違えちゃったー」「え、私も間違えちゃったー」とか言って、書き直しの連続でした。高校の先生に「今日が締め切りだ! なにのんびりしてるんだ!」「おい、もう郵便局が閉まっちゃうぞ!」と怒られながら急かされました。結果、先生のおかげで無事提出できて、受かることができました(笑)。

油田:ははは(笑)。

寺嶋:ほんとになんか、楽しかったですよ。先生は気が気じゃなかったと思うけど(笑)。

油田:そうですよね(笑)

寺嶋:「もう4時半だぞ、終わったのかー!」とか言われても、「まだー」って(笑)。その先生がいなければ、短大に行くことはできなかったと感謝しています。

油田:それで短大に入ることになった、と。英語を学ぶ学科だったんですね。

寺嶋:そうですね。先生の半分が外国人だったかな。

油田:短大は、おうちから通って?

寺嶋:そうです。電動車いすで地下鉄を使って通っていました。

油田:短大での生活はどうでした?

寺嶋:高校のときもそうですけど、短大も楽しかったです。あんなに勉強したくないとごねていたのに、サークルも5つくらい入っていて、家に帰るのはいつも遅かったです(笑)。興味のあることが似ている人たちが集まっているからかな。海外の文化を知っている帰国子女の子たちが多かったので、きっと人の目が気にならなかったんだと思います。
うちの母が言っていたのですが、短大の入学式で最初に私に話しかけてくれた子の雰囲気が、やっぱり違っていた、と。これまで小学校でも中学校でも高校でも、入学式は母が一緒に同席していたんですけど、短大で最初に私に話しかけた子、たぶんその子は帰国子女の子だったんですけど、「あなたへの声の掛け方が、なんかすごく自然だった」って言っていました。

油田:入学するにあたっては、短大側と何か交渉をしたんですか?

寺嶋:どういうふうに私が学校生活を送るかについての話はありました。1階と2階を移動するときのサポートは事務員さんでやりましょうか、みたいな話があったり。あと、ボランティア部があったので、ボランティア部の先輩たちが、「じゃあ、ここの移動時間は、私たちがしましょうか」というやりとりが最初はありました。でも、慣れてくると友だちが、「あ、いいよ、私やるよ」みたいになって、結局、ぜんぶ友だちが手伝ってくれるようになりました。

油田:トイレ介助とか、食事のときとかは?

寺嶋:トイレはそんなに行くことなかったんですけど、保健室の先生に介助してもらっていました。食事は友だちとか食堂の人に食器などを運んでさえもらえれば、箸やスプーンなどを持って自分で食べられていました。

AJUとの出会いや父が倒れたのをきっかけに、一人暮らしをはじめた

油田:短大で過ごされて、その後は就活をされた感じですか?

寺嶋:就活は、まぁ無理だと思っていたので、最初から諦めていました。これから先、どうしようかなとは思っていました。両親としては、大学院に行ってほしかったんじゃないかと思います。学校に行ってくれた方が家で私の面倒を見なくて済むから、学生生活を少しでも長く、って思ったんじゃないかなって。私は海外に憧れがあったから、このまま留学しようとも思いました。それこそ一度、ホームステイ先の家族を頼って、留学先の学校も見に行ったんですよ。ただ、やっぱり私の介助量を考えると、ボランティアだけではまかなえないから、留学費に加えて介助費用もいる。いろいろ考えて、これは断念しようって思いましたね。両親は「あなたが行きたいなら出すよ」と言ってくれたんです。だけど、じゃあ私はそこまでして留学して何かを学びたいかっていったら、それもなくて……。
周りの友達は、自分でお金を貯めて留学する子も多かったんです。1年生のときに授業をたくさんとって、2年生はたくさんアルバイトしてお金貯めて、海外に行くっていう友だち。私も、そういうことができたらよかったなってうらやましく思ったこともありました。「留学への憧れ」っていう思いだけでは、やっぱり行けないな、って。これだけ自分にお金をかける意味があるかなって思いました。「大した学びにならなくてもまあいっかー」では終わらせられないなって。

油田:うーん、そっか。

寺嶋:親が(お金)出すよって言ってくれたんだから、行けばよかったのかもしれないですけどね。あと、私には妹と弟がいたので、私にそこまですべきではないって、余計に思ってしまって、諦めました。まぁ、テストの結果もそんなに良くなかったっていうのもあるんですけどね(笑)。

油田:まぁ、いろんな要因が。

寺嶋:そうそう。

油田:で、留学はあきらめて、その後はどんな感じで?

寺嶋:留学を諦めたとはいえ、何もしないわけにはいかないので、なにか安い方法で留学する方法がないか、障害者でも受け入れている留学先がないか、ずっと調べつづけていました。いろいろ方法はあることもわかったんですけど、どっちにしても、お金がいることがわかって、少しでも働かないといけないと思いました。いろいろと働く先を探していたら、AJU自立の家がやっている就労部門を見つけて、就労支援B型でそこに通って、働くことになりました。そこで初めて、障害のある人たちと関わるようになりましたね。

油田:そこから、AJUとつながっていったっていう感じなんですか?

寺嶋:うん、そうです。

油田:冒頭でちらっと「そこから自立生活につながっていった」みたいな話があったんですけど、その経緯を具体的に聞かせてもらってもいいですか?

寺嶋:働いてくなかで、AJUには、就労支援もあるけれども、それ以外にも、(自立生活の)体験室や福祉ホームっていうのがあったんです。福祉ホームは、ぜんぶで16部屋あって、障害のある人が最長4年間生活できるんです。
就労支援の部署にいた仲間が私に「体験室でやってみるのはどう?」「一人暮らししないの?」「自立生活しないの?」って言ってくれて。「あ、そうだ、私、一人暮らししたいんだった」と思い出しました。

油田:忘れてた(笑)?

寺嶋:そう、思い出して(笑)。家は早く出たいなと思っていたので。

油田:それは前から思ってたんですか?

寺嶋:そうですね。母の介護の負担が大きかったので、ずっと家を出たい思いはあったんです。なので良いタイミングだと思って始めました。

油田:その体験室に、引越しをして?

寺嶋:体験室で過ごしたのは1か月ぐらいだったかな。そこで1人暮らしの練習をしました。その後、「(福祉ホームでの一人暮らしを)どうしようかな、始めようかな、もうちょっとあとでもいいのかな」とか考えていたんですが、そのタイミングで父が心筋梗塞で倒れて、母が病院に通わなきゃいけなくなったりと、いろいろ状況が変わりました。「あ、このままではいけない。すぐに出よう」と思って、すぐ一人暮らしを始めました。その後、福祉ホームに1年10か月ぐらい住みました。

油田:そのときの介助体制はどんな感じなんですか?

寺嶋:福祉ホームは一人暮らしと同じなので、その頃から重度訪問介護を使っていました。

油田:介助の時間数を獲得するための交渉とか、大変じゃなかったんですか?

寺嶋:そうなんです! それが私、それまでずっと、いろんなことを「自分で」やっている感覚でいたんですよ。でも、実際には、「一人で」やっているんじゃなくて、いろんな人が関わってくれて、いろんな人のサポートがあったから、「自分で」できていたんですよ。たとえば、「切符を買えますか?」って聞かれたとして、駅員さんに頼めば買えるじゃないですか。だから、認定調査 で「切符を買えますか?」みたいな質問に、「できます」って答えちゃって(笑)。最初の障害支援区分が5になって。

油田:あ〜、認定調査※1)のときに、いろいろ「できます」って言ってしまったんですね。

寺嶋:そうなんです。自分で寝返りもうてないのに……。

油田:こっちの「できる」とあっちの「できる」って違いますよね。

寺嶋:そうなんです。

油田:そこからまた交渉して?

寺嶋:そうですね、福祉ホームのセンター長が一緒に交渉に行って、「絶対おかしいです。そもそも区分5じゃないですよね」って一生懸命伝えてくれて、一番重度である区分6で支給決定されました。それで、就労している間の時間以外は、時間数を出してもらえました。

油田:それって何年くらいのことですか?

寺嶋:2008年ぐらいですかね。

自立生活運動を学ぶために、3年間、東京へ。「点と点がぜんぶ線でつながった」

寺嶋:一人暮らしを始めた頃に、障害の進行があったり、仕事の疲れが出始めたりと、いろんなことがあいまって、体がしんどくなってきました。主には障害の進行が大きかったと思います。で、夜間、人工呼吸器をつけないといけなくなって、その検査や調整のため2週間くらい入院しました。そのタイミングで就労支援B型も辞めて、一回ゼロにしてみたんですね。一人暮らしは続けましたが。
体調を整えながら過ごしていたら、あるとき、「自立生活センター(CIL)を見に行ってみるとおもしろいよ」って言ってくれた人がいて、ちょっとのぞきに行ったんです。そしたら、「あ、面白いかも」「ここでもっといろいろ学びたい」と思ったんです。それまで自分はずっと「働いて、お金を稼いで、一人暮らしをして」みたいな考えしかもっていませんでした。でも、私みたいに重度だと言われる人たちにとって、働くって簡単なことじゃない。私はそれまで少しは働けていたけど、もっと重度になったら、どうなるんだろう……って先が見えなくなりました。経済的自立ができないと、その人たちは地域で一人暮らし生活できないの?そんなの悲しすぎる……と思っても、そのときの自分は、そのモヤモヤに対して答えを持ってなかったんです。だから、すごく知りたいって思いました。自分みたいな重度の人たちはどうやって生活していったらいいんだろうとか、重度の障害のある人たちの自立生活について考えはじめるようになりました。
CILでやっていることがすごく楽しくて、もっと学びたいなと思っていたときに、私に「一人暮らししないの?」って言ってくれた人が、全国障害者介護保障協議会※2)が研修生を募集していることを教えてくれて。それは、24時間介助を使っている人が、数年間、東京で勉強して、地元に戻ってCILをやるっていう条件の募集だったんです。そのタイミングでCILの代表が「千恵子も東京へ行ったらおもしろいと思うよ」って言ってくれて、それで東京に行こうと思いました。住んだとこは埼玉なんですけどね。

油田:へー! 埼玉に引っ越し。介助もむこうで用意されたんですか?

寺嶋:そうです。引っ越すと決めてから2~3か月、東京と名古屋を行き来しながら準備しましたね。3年間、埼玉を拠点に、CIL小平CIL所沢など、いろいろなところで勉強させてもらいました。AJUにいたときに、いろんなイベントや勉強会に誘ってもらっていたんですけど、制度のこととか難しい内容だし、参加しなくちゃいけない理由がよくわからなくて、なんで誘われるのか疑問だったんですよね。でも、CIL小平やCIL所沢に行ったときに、障害者運動の歴史を最初にワーっと教えてもらったんです。今ある制度は、行政側が率先して作ってくれたものではなく、当時の障害者たちが声を上げ続けてきてくれたおかげでできたもので、使わなければなくなってしまうし、今ある制度も使いづらい部分があると分かったときに、「あぁ!そういうことか」って、点と点が全部線でつながったんです。だから、あんなに頑張ってイベントや勉強会しなきゃいけないんだとか、行政に訴えなきゃいけないんだとか、わかったんですよ。どうやって私たち重度の障害のある人たちが地域で生きていくかってことについて、「これが私の求めていた答えかもしれない」って思えたんですよね。だから、その3年間がすごくいい経験でした。その後、名古屋に戻ってきて、AJU車いすセンターで働き始めました。

油田:その頃っておいくつぐらいなんですか?

寺嶋:25とかだったと思います。

油田:じゃあ、名古屋に帰って、AJUで何年間か。

寺嶋:約8年かな。その間に子供を妊娠、出産して、出産後2年ぐらいまで勤めました。

油田:AJUでしばらく活動されて、その後、2021年に自身で自立生活センター・VISIONを立ち上げられたんですよね。それはどういう動機や経緯があったんですか?

寺嶋:大きい団体でやれることと、小さい団体でやれることって違うじゃないですか。大きい団体って、いろんな役割がすでに細かく決まっていたり、1人ではできないことも、人がたくさんいるからできる面もあったり。いろいろあると思うんですけど、私は、もうちょっと小さい単位でやりたいなと思ったんです。CILとして、やっていることは一緒なんですけど、もっと少人数で距離が近い形でやりたいなって思って立ち上げました。まだまだできたばっかりで、何もやれてないですけどね。

注釈

※1) 障害支援区分を決めるために行われる調査。認定調査員が、本人及び保護者等に面談を行い(これが認定調査)、障害支援区分を判定する。
※2)全国介護保障協議会(http://www.kaigoseido.net):長時間の介助を必要とする障害者を中心とした団体。「介護保障についての政策を立案し、厚生労働省等と交渉を行なっている最強の運動体」(http://www.arsvi.com/0j/0.htm)。

プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型・「自立生活センター・VISION」代表 寺嶋千恵子

1987年、愛知県名古屋市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。2008年に自立生活を始める。AJU車いすセンターで活動したのち、自身のCIL「自立生活センター・VISION」を設立。2018年に子どもを出産。

文/油田優衣

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