あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

いきなり24時間介助保証を獲得できた理由
家族に頼れない事をハッキリと伝える

YUI YUDA

文/天畠大輔 : 写真/其田有輝也

SMAⅡ型当事者・京都大学大学生 | 油田 優衣(ゆだゆい)

1997年生まれ。1歳の時に、全身の筋力が次第に衰えていくSMA(脊髄性筋萎縮症)II型の診断を受ける。3歳の時から電動車椅子を用いて移動。ほぼ全ての日常生活動作に介助が必要で、夜間は呼吸補助装置を着ける。中学までは特別支援学校に通い、高校からは普通学校へ進学。2016年4月から実家(福岡)を離れ京都大学に通う。進学にあたり24時間の公的な介助サービスを使いながら一人暮らしを始めた。

【イントロダクション】

油田優衣さんは、24時間の介助を受けながら京都大学に通う大学生だ。私が油田さんと初めてお会いしたのは、2019年の夏に、北海道札幌市の医療法人に講師として招かれた時のこと。会場に参加者として来ていた油田さんの初印象は、その見た目より「フワフワした人」で、時折出る京都弁で癒やしを与える人であった。

しかし、一転として会場での発言や質問はとても鋭く、私の研究関心とも驚く程似ていた。同じ当事者研究を行う仲間を見つけられたという喜びを持ったことを記憶している。それ以来現在まで、連絡を頻繁に取り合い、彼女と交流を続けてきている。

今回、その油田さんにインタビューした理由は、彼女の持つ、自分の生活を切り拓いていくバイタリティーの源泉を知りたかったから。そして、24時間の介助を受ける彼女は、日々介助者とどのような関係を築き、どんなことに日々悩んでいるか、その等身大の姿を読者の皆さんにお伝えし、「介助を受けながら生きていくこと」のヒントを見つけたいと思い、その素顔に迫った。

(文/天畠大輔

目次

いきなり24時間介助保障を獲得できた理由
――家族に頼れないことをハッキリと伝える

――今、油田さんの時間数ってどれくらいですか?

油田:24時間です。それが、引っ越してから一発で24時間分の支給時間をとれたんです。

――最初から求めていた時間数が取れたということでしょうか。

油田:そうです。私が思うに、すぐに24時間介助を出してもらえた一因として、大学が4月の何日かにはもう始まるという、一人暮らしをスタートさせねばならない期限があったのが良かったんだろうなと思います。

そして、「家族にも一切頼れません」と宣言しました。これは事実でもありましたが、戦略的に強調して述べたことでもあります。家族がちょっとでも京都に滞在して介助できますというと、じゃあその家族がカバーできる部分は時間数いらないよねということになって、必要な時間を出してもらえなくなるだろうから、「一切家族は来れません」というのを、ケアマネさんを通して市役所に伝えました。

「24時間つけてもらえないと、私は家族に頼ることもできないので、生活できないし、そうなると数週間後に迫っている大学の授業にも出られなくなります」と。綱渡り状態ですね。それがうまく伝わって、24時間介助の必要性が認められたのではないかなと思います。

――切迫性があって、それがある意味よかったということですね。どういった形で介助者を集めたのですか?

油田:相談支援員の方にお願いして集めてもらいました。ケアマネさんがFAXを手あたり次第、ヘルパー事業所に送ってくれて、それで集まりました。これは、介護事業者が多い京都だからできたことでもあると思います。

母が私を手放しくれた理由

――油田さんの親御さんとの関係についても聞きたい。というのも、障がいのある方の中には、親との関係が密着的になっている場合もありますよね。例えば、お母さんが「(この子のために)自分がいなきゃ」と思って、親子がなかなか離れづらいとか。油田さんの親との関係性はどんな感じでしたか?

油田:それが、私の母親は「権利」という考え方になじむような思考をする人だったんです。「障がいがあるから、普通高校通えなくても仕方ないよね、家族が介助しないといけないよね」ではなくて、「なんで当たり前に他の子がやれていることが、この子にはできないんだろう、それはおかしいよね」みたいな感じ。そのための支援を受けることに、引け目を感じない。なんでそういう考え方を持てたのかはよく分からないのですが、今になって考えると、それは凄くありがたいことですね。

――それはすごいですね。

油田:この前、母親になんで一人暮らしをすっとOKしてくれたのか聞いてみたんです。曰く、1つは、私と一緒に行ったCILで、実際に一人暮らししているSMAの人や脊損の人を見たことが大きかったと。それで「もしかしたら優衣もやっちゃうかもしれないな…」という考えを持ったらしい。CILとの出会いは、私だけでなく、母親にとっても良い影響を与えてくれました。

もう一つは、私が実際に普通高校での生活を乗り切れたということがとても大きかったと。公的な支援がゼロの状態からスタートした高校生活を、友達や先生などのインフォーマルな支援も頼りながらなんとかサバイバルし、また、行政や教育委員会と交渉し続けた結果、学校でも介助が受けられるようになっていったのを一緒に経験したことで、母親も「やってみればできる/変わる」し、「優衣ならやれるかもしれない」って思ったそうです。それで、「一人暮らしなんてありえない」とは思わなくなったみたいで、家を出ることに関しても全く反対されませんでした。

普通高校でやっていけたことが、母が私を手放すのに勇気を与えてくれた、と。

――なるほど。それは重要ですね。ちなみに、障がい当事者が一人暮らしに移行するにあたって、家族の介護からどう離れていくか自体が大きな問題になることもあるかと思うのですが、油田さんは家族の介護から離れるときのハードルはなかったんですか?

油田:あまりなかったですね。特別支援学校の時にいろんな先生に介助してもらっていたり、高校の時も友達や先生や介助員に介助をお願いしたり、あとは家に入浴介助に来てくれた介助者さんに介助を頼む機会があったりして、そこで「介助される経験」を積んでいたので、家族以外の人に介助してもらうことには抵抗はなかったです。

――なんか多分、家族間で各々が「いけるんちゃう?」っていう自信を持てた契機があったから、スムーズに行けたっていう面もあるのかな。いきなり何もないところから一人暮らしするぞ!となると難しいけど、地ならし的なものが実はいろいろあったのかな、と聞いていて思いました。

油田:そうですね、そういう下地があったからこそ、母は私を送り出せたし、私もわりとスムーズに飛び出せたというところはあったのかなと思います。

理想と現実のギャップ
――手足論ではしんどくなってしまう介助関係

天畠:油田さんは論文(※1) の中で「強い主体としての障がい者」(※2) ということを書かれていますが、中学の時に出会ったと仰っていたCILが、「強い主体としての障がい者」という考えだったのですか?

油田:そうですね、少なくとも私にはそう感じられました。そのCILは手足論をかなり厳守しているところで、そこに私は最初に出会ったんですよね。介助者は何も提案しないし、一切先回りもしない。例えば、印象に残っているこんなエピソードがあります。数年前に実家に帰った時にそのCILに遊びに行ったんです。

その時、ある介助者さんは支援中だったみたいで、最初のうちは全く私に(というか誰にも)話しかけなかったんです。ところが、私が来てから一、二時間後くらいかな、その介助者さんの勤務(支援時間)が終了したその瞬間に、「油田さん、こんにちは!」って挨拶されたんです。「え、さっきまでいたでしょ…!?」って、驚きました。

それくらい徹底していて。今、そこのCILの考え方と私の考えとの間には距離はあるけど、その考え方も納得できることだったし、当時の私には良い影響や刺激を与えてくれました。

――今そのCILの介助者を契約して利用できるとは思わない?

油田:うん、やはりしんどいかなというのはあるんですよね。手足論を徹底させる必要性はわかるけれど、このやり方でやっていける人は限られちゃう。私自身も、一人暮らしを始めてすぐの頃は、手足論を徹底しようとしたけれど、そのことによって逆にしんどくなってしまいました。現実には、手足論を徹底するなんて無理だった。

天畠:理想と現実の乖離ですね。

――今、油田さんが「しんどくなっちゃう」って言ったのは、利用する側?介助者側?

油田:どちらもだと思います。手足論を徹底させねばというプレッシャーでしんどくなるのは、利用者はもちろんですが、介助者もだと思います。

CILは、手足論の考え方などを受けて、基本的に介助者同士が情報交換をすることはないですよね。でも、それが行きすぎて、必要と思われる時にも情報共有がなされなかったり、介助者同士の横のつながりが皆無になったりすると、介助者もしんどくなると思います。

もちろん、手足論は非常に重要な考え方ではあって、忘れてはならないと思うけれど、それが、本人を苦しめる抑圧的な理想になってしまったら元も子もない。何のために自立生活しているんだろう?ってなりますね。

天畠:私が「Beすけっと」で聞いた井奥(※3)さん のインタビューが、まさに、理想と現実の乖離を言っていました。コーヒーの話。

――澤田隆司(※4) さんが「飲む」って言ったら、Bossの缶コーヒーのことだって介助者みんなが知ってるし、介助ノートみたいな引継ぎにもあるんだけど、井奥さんの考えとしては、本人に「Bossの缶コーヒー」って言わせないと、運動としては違うと思う、と。

澤田さんもなるべくそれを実践しようと。ただ、わかりきった言葉についても、いちいち指示しなければならないことは、天畠さんにしてみれば、「そこまでこだわる?」というか、あまりにも非効率じゃないかと思う、と。

特に澤田さんも発話に重い障がいを持っていたので、「Bossの缶コーヒー」と伝えるのにすごく労力がいったと思うんですが、一字一字ちゃんと聞き取るっていう運動的なエピソードとして書いていましたね。

油田:なんか今となって考えれば、介助者に逐一指示を出さなきゃいけないわけではない、「別にいいじゃん」と思えるんですよね。やっぱりそれは効率やコストの観点から考えてもそうで、介助を使わない人が普段何かをなす時に、意識的にしているか/言語化しているかと言えばそうじゃないし、立岩さん (※5)が「言わなくて済むなら言わないほうが楽だよね」みたいな話をよくされてるじゃないですか。

それは、その通りだなと。私たちは別に運動をするために生きているわけではないし、生活は、楽に、スムーズに回したい。その欲望を別に押さえつける必要はないなと思ってはいて。だから最近は、介助者からの提案があったり、私の指示出しの量が減ったりしたからといって、悪いこととは思わなくなりました。

 

連載2回目の記事はこちら

注釈

1. 油田優衣「強迫的・排他的な理想としての〈強い障害者像〉──介助者との関係における「私」の体験から」『当事者研究をはじめよう』金剛出版、2019

2. 「強い障害者像」(油田、2019)とは、従来の「自己決定論」や「介助者手足論」が求めるような、「介助者に影響されることなく、障害者の意志や判断だけに基づいて自分のやりたいこと・すべきことを決定し、それを介助者を『手足』のように扱いながら実現していく』ような障害者(像)のことを言う。油田(2019)は、「強い障害者像」がもつ抑圧性を指摘した。

3. 井奥裕之は、自立生活センター神戸Beすけっとのコーディネーターとして、長年澤田隆司の生活に関わり、親交を持っていた。天畠が澤田隆司に関する研究の一環で、澤田の生活ぶりやコミュニケーションの取り方について、井奥氏にインタビュー調査を実施した。

4. 澤田隆司は、1946年に兵庫県姫路市に生まれ、7歳の時に日本脳炎にかかり脳性マヒ者となる。姫路市の書写養護学校を卒業後、映画『さようならCP』の上映運動に関わるようになる。その後兵庫青い芝の会の設立に関わり、長く関西の障がい者運動を牽引した。澤田は発話困難であるが故に、介護者が50音で読み上げ、澤田が「ホー」と返答するコミュニケーション方法を取っていた。澤田の詳細については、天畠大輔 「発話困難な重度身体障がい者における介護思想の検討―兵庫青い芝の会会長澤田隆司に焦点をあてて―」社会福祉学、2020を要参照

5. 立岩真也は、立命館大学先端総合学術研究科教授であり、専攻は社会学。インタビューアーである天畠の大学院時代の指導教授でもある。

プロフィール

油田優衣(ゆだゆい) SMAⅡ型当事者・京都大学大学生

1997年生まれ。1歳の時に、全身の筋力が次第に衰えていくSMA(脊髄性筋萎縮症)II型の診断を受ける。3歳の時から動車椅子を用いて移動。ほぼ全ての日常生活動作に介助が必要で、夜間は呼吸補助装置を着ける。中学までは特別支援学校に通い、高校からは普通学校へ進学。

2016年4月から実家(福岡)を離れ京都大学に通う。進学にあたり24時間の公的な介助サービスを使いながら一人暮らしを始めた。著書に、「強迫的・排他的な理想としての〈強い障害者像〉――介助者との関係における「私」の体験から」 『臨床心理学――当事者研究をはじめよう』と、「「障害者」としての歩み」 『ノーマライゼーション――障害者の福祉』がある。好きなものは、スヌーピー(家にグッズが沢山ある)とミルク・砂糖たっぷりのチョコレート。

文/天畠大輔

この記事をシェアする