あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

ロールモデルを見つけ希望の灯を得るものの、不安と葛藤の中にいた10代

Asagiri Yuh

文/油田優衣 : 写真/中井和味

ウェルドニッヒ・ホフマン症、シンガーソングライター・作家|朝霧裕(Asagiri Yuh)

1979年、埼玉県生まれ。愛称は「ダッコ」。筋肉の難病ウェルドニッヒ・ホフマン症(脊髄性筋萎縮症)のため、車いすの生活、24時間の介助サポートを得て、さいたま市で一人暮らしをしている。シンガーソングライターとして、コンサートやライブ活動、学校講演を行うかたわら、エッセイを執筆。「障害の有無、世代を問わず、誰もが輝ける社会」を夢として、書き、語り、歌う。
著書に『いつかの未来は夏の中』(七賢出版, 1995年, 本名・小沢由美の名で出版)、『命いっぱいに、恋 ―車いすのラブソング―』(水曜社, 2004)、『車いすの歌姫 ―一度の命を抱きしめて―』(NKKベストセラーズ, 2010)、『バリアフリーのその先へ! ―車いすの3.11―』(岩波書店, 2014)など。

【イントロダクション】

朝霧さんは、2001年から24時間の介助を使っての一人暮らしを始められ、現在はシンガーソングライターやエッセイストとして活躍されています。
今回のインタビューは、熱い想いをもった朝霧さんからの逆オファーによって実現しました。朝霧さんは、未だ世間に根深く存在する障害者差別に対し、それをなくすためには、障害当事者が公に姿を見せて生きることが不可欠であり、そして、どんな障害の人も、その人の意思を最大限に尊重され、ここちよく暮らす権利があることを伝えていく必要があるという思いから、本インタビュープロジェクトに連絡をくださったのです。
インタビューの中で、自分の中の揺れる想いや弱い部分も素直に曝け出して語られる朝霧さんの姿はとてもかっこ良く、決して明るい内容ばかりではないその語りは、しかしながら、誰かの背中をそっと支えてくれるような力強いものばかりでした。
今回は3回シリーズで、朝霧さんのライフストーリーについてお聞きしながら、障害者を取り巻く社会の問題について考えていきたいと思います。

(インタビュアー/油田優衣、天畠大輔、嶋田拓郎)

(文/油田優衣

目次

地元の幼稚園から養護学校へ
親離れの一歩を踏み出す

油田:今日は朝霧裕さん、愛称だっこさんにインタビューをします。まずは、自己紹介をお願いします。

朝霧:あだ名はだっこ、ペンネームは朝霧裕です。本名は小沢由美と言います。三つ名前があります。脊髄性筋萎縮症Ⅰ型の当事者です。お風呂やトイレ、着替え、ご飯をつくる、外出の付き添いなど、多岐にわたるいろいろなことに介助が必要で、重度訪問介護という24時間介助を得て、さいたま市で一人暮らしをしています。小さいときから詩を書いたり、絵本や、いろいろな本を読んだり、歌を歌ったりなど表現に関することに夢を持っていて、表現の道に進みたいという夢がずっとありました。紆余曲折がありつつも、現在は、エッセイを書いたり、バリアフリーな社会づくりなどをテーマに学校や企業などに講演をしたり、シンガーソングライターとして歌を歌ったりして日々生活しています。

油田:まず、だっこさんの子供時代のことをお聞きしていきたいのですが、だっこさんの時代はインクルーシブ教育とかも言われてない時代ですよね。幼稚園にも通われていたとのことですが、幼稚園やその後の小学校はどうされたんですか?

朝霧:まだ私のときは、インクルーシブという言葉がない。介助制度も介助者という言葉もない。本当に何にもない時代でした。当時、その幼稚園に入った車いすの子は私が初めてだったと思います。幼稚園では、友達もたくさんできて、すごく楽しい生活でした。でも、幼稚園の先生や介助専任の職員さんがトイレや着替えを手伝ってくれるような体制も、そのための制度もなかったので、幼稚園の間は母が365日、雨の日も風の日も付き添いで、ずっと教室の隅にいてくれる状態でした。その間、4つ下の弟はおばあちゃんに預けられていて、すごく寂しい思いもしたんじゃないかなと思います。
その後は、小学校の1年生から高校の3年生まで埼玉県立熊谷養護学校に行きました。両親は、地域の学校に行かせるかすごく悩みましたが、前例がなかったために、当時の教育委員会さんらの反対意見もあって、「設備的に学校も階段しかないので、通学の際には、お母さんが学校の間は付き添ってくださることが条件です」と言われてしまって、じゃあもう養護学校しかないね、と。それに、普通学校に行けば、また母が小学校6年間、さらに中学校も高校も、すべて私優先になる。弟は祖父母のところに預けるしかなくなってしまい、同じ兄弟でも、片方の子は大事にするけど、もう片方の子は目を掛けてあげることができないことになってしまう。親としては、障害のある子もない子も、どっちもおんなじだけ大事。障害がある子の方ばっかりを大事にすることはできないという判断で、親から少し離れることも学びなさいっていうことで、養護学校に入りました。

油田:だっこさんはご著書『車いすの歌姫』の中で、養護学校に入ったことで、親離れの第一歩を踏み出したと書かれてましたね。

朝霧:幼稚園では、泣けば母がそばに付き添ってくれました。例えば、力が弱くてパンの袋を開けられない時とか、ロッカーから何かを取ってきてほしいとか、絵の具や牛乳瓶の蓋が開かない時とかに、友達ももちろん助けてくれるんですが、「お母さん、できな〜い」って泣けば、母が飛んできて駆けつけてくれるんですね。そういうふうに幼稚園は育ってしまったので、本当にわがままで泣き虫でお姫さまでした(笑)。養護学校の小学部への入学のときも、母と離れるのが嫌だ〜!って言って何日も毎朝学校で泣いて、ほんとに親から離れることができない子でした。毎朝の号泣、自分でもよく覚えています。

多様な仲間と一緒に育った養護学校時代
「人と違ってていいんだと腹の底から思えた」

朝霧:養護学校にポーンって入れてもらって、最初こそ親離れできませんでしたが、いろんな車いすの友達とか、重い障害を持ついろんな仲間がいて。「あっ、車いすの子も、私だけじゃなかった!」みたいな衝撃がありました。幼稚園の時までは、私一人しか車いすの者を見たことがないので、養護学校に入学した一番最初の時は、自分も車いすのくせに、友達が乗ってる車いすが怖くて泣いちゃったんです。「なんか車いすがいっぱいいたー!」みたいな(笑)。あとは、いろんな杖が怖いと思ったりとか。自分と違う障害の仲間にびっくりしちゃったんでしょうね。
でも、その気持ちを超えたときに、いろんな障害のある友達、例えば、言語障害がある友達とか、寝たきりの障害でベッドに寝て教科書広げて授業を受けている友達とか、身体と知的どちらにも重複した障害を持つ仲間たちとか、本当に多種多様な障害と個性を持った仲間と一緒に育ったことは、人生の宝だと思ってます。なんかね、同情とかではなかった。自分より重い障害だから、この子はかわいそうとか、私の方がどうとか、そういう気持ちは本当に一切なくて。子どものうちに、お互いが生活の中で相手の姿を見慣れてしまえば、もう友達なんですよね。なんか、うん、本当に友達だった。重度心身の障害を持つ仲間とも、ただ友達だったんです。昔の教育現場には、障害が重い友達に対して、「この子は言っても分かんないから」と言ってちょっとからかうように接したり、「私たちの言葉がこの子は分かんないから、かわいそうよね」みたいにおっしゃる先生もたまにいらっしゃいました。でも、意思のない子っていないし、「分かんない子」なんて一人もいない。それは、私の価値観の基礎になりましたね。
幼稚園のときは、例えば運動会の時は私一人だけ見学とか、他のみんなが校庭をかけまわって遊んでいるのを見ていいなあと思う時など、ちょっと寂しい気持ちを感じる時もほんの少しはありました。でも、養護学校に入って、人と自分の体は違うけど、「違い」イコール「悲しみ」じゃないんだな。同じ人なんていない。違っていいんだっていうことを腹の底から分かったんです。それは、養護学校に12年間ずっといたおかげだったと思います。

油田:私も、小学校2年から中学を出るまでは特別支援学校だったんですが、感覚的に分かる部分があるなと思いました。その当時は、この子は何々障害でとか、どれだけ重度でとか、考えないじゃないですか。そこでは、違うことが当たり前。別に、私も浮いてないし、誰も浮いてない。

朝霧:そう! この子はこの子じゃんっていう。

油田:その中で一緒に過ごすことを通じて、薄っぺらい表面的な「多様性」じゃなくて、本当に多様な人がいるということ、そして、違っているのが当たり前ということを肌で知れる、そういう良さはありましたね。もちろん私自身は、できれば普通学校に通いたかったです。それはそれで変わらぬ事実としてあるとして、でも、普通学校だったら、自分だけ浮いてると感じて苦しんだのかなとか、体のあり方や考え方について、これが正しい、こうあるべきだみたいなーー健常者社会に即したーー価値観を内面化してしんどくなることもあったのかなと思うと、単純に障害のある人を地域の学校にポンと投げ入れればいいとは言えないですよね。そもそもインクルーシブという言葉は、そういう意味ではないですし。

特別支援学校と普通学校、どっちが良くてどっちがダメという議論ではなくて、選べることが大事

朝霧:よく、障害がある子が普通学校に行くことで周りの子が助け合いを学ぶことができます、みたいに言われますよね。でも、私が思うに、助け合いのためだけに重い障害の子たちが存在しているわけではない。だから、その子本人にとってどちらが心身ともにより心地よいかを選べるようになってほしいです。どっちが正解、どっちが駄目とかじゃなくて。長時間、同じ姿勢で車いすに座り、健常の仲間たちとずっと同じ授業を同じに受けることだけが、すべての障害の仲間にとっていいのかって言うと、それはたぶん違うと私は思ってるから。リハビリ的なことを、すべてなくしてしまっていいのかって言ったら分からない。学校がその子にとって、心も体も心地よくて、楽しくて、充実した生活を送れる居場所であることが素敵なことだから、特別支援学校と普通学校、どっちが良くてどっちがダメみたいに100か0かじゃなくて、選べることが一番大事。
実は私も、優衣ちゃんにすごいいろいろ聞いてみたくて。優衣ちゃんは特別支援学校と普通学校と、両方経験してるじゃないですか。私も体が二つあったら両方経験したかった。どっちがどのように違うのか、一般の学校のどういうところがいいのか私には分からなくて。でも、ずっと憧れはあったんです。制服を着てみたいとか、模擬試験って何だろうとか、リハビリの時間とかは一切なくて受験に向かって頑張る感じとか。でも、いじめとかないのかなとか。体験しないと分かんない。

油田:私は中学までは特別支援学校にいて、しかも、中学校で自立生活運動に出会ってるんです。そのような環境の中で育ってきて、からの普通高校だったこともあって、障害があることや、人に何かを頼まないといけないということで、悩んだり、それで自己肯定感が下がるとかはなかったんです。そういう意味で、私はそれほどしんどい思いはしてなかったかもしれない。ただ、高校の時の時間割が体力のない私にはハード過ぎて……。もう絶対に戻りたくないですね。高校の3年間は、今では考えられないくらい朝早く起きて登校して、夕方まで授業を受けてという生活で、本当に毎日しんどかったです。高校でも、大学でいう長期履修制度のようなものが使えたのであれば、それを利用して、もうちょっと体に優しい生活がしたかったです。一方で、普通高校に行って良かったなと思ったのは、近所に友達ができたことです。それが本当に嬉しかった。特別支援学校って、いろんな遠方の地域から生徒が通ってくるから、休日や放課後に友達と遊ぶことってなかなかできないんですよね。それが、高校に入ってから家に友達を連れてきて一緒に勉強したり、休日には遊びに出かけたりしました。また、トイレ介助ができる友達ができれば、その子と一緒にちょっと遠方にも遊びに行けるんです。家から1、2時間くらいかかる博多っていう都会の街や門司港という港町にみんなで遊びに行ったことはいい思い出です。そういうことは、特支だったら絶対できなかったと思います。

朝霧:それは、めっちゃ憧れてた。

油田:やっぱり特支って、ずっと先生の目もあるし。先生たちや親の目が届かないところで、人間関係を育むっていうことが結構難しいじゃないですか。

朝霧:うん、すごい難しい。もう無理。

油田:普通学校では特支と違って、先生の目がないところでの人間関係のほうが圧倒的に多くなる。それが新鮮で、とても楽しかったです。

天畠:今の普通学校か特別支援学校かという話は、他の当事者の語りプロジェクトのインタビューでも語られているテーマです。保育園や幼稚園で地元の友達ができて、小学校にそのまま上がりたかったのに、教育委員会の反対によって上がれなくて、悔しい思いをされた方もいる。一方で、特別支援学校に入って、そこで様々な役割や出番を持てたことで自信をつけることができて、それがその後の生きる糧になったっていう方もいる。本当に三者三様なんだと感じています。

油田:ここまで、特別支援学校の良かったところを話してきたんですが、私はやっぱり分離教育ではなくインクルーシブ教育を進めてほしいし、進めるべきだと思っています。普通学校でも、違いや多様性が当たり前となって、もっと認められる空間が実現してほしいなと。

養護学校にはびこっていた優生思想や能力主義

油田:養護学校に関することで、もう一つだっこさんに聞きたいことがあって。養護学校では、多様性ということを肌で感じ、そこでの生活はその後のプラスになった一方で、養護学校の中で、障害がある人の生を否定するような能力主義的、優生思想的なメッセージを先生たちから浴びたと書かれていました(『車いすの歌姫』より)。私は、そこに問題意識をもって、そこら辺のことも詳しく聞いてみたいです。

朝霧:もう30年ぐらい前の話なので、今とは違う時代の話だと思うんですけど……。私の時代は、先生が生徒を傷付けることを言っても、それを非難するための「モラハラだ」みたいな言葉もなかったんです。養護学校だと、ともすれば生徒より先生の人数が多くて、逆らえない雰囲気があった。

もちろん、大人の女性像としてとっても憧れた先生、大好きだった先生、今も交流のある恩師もいます。だけど、他の友達と私を比べて、「この子たちは分からないし、あなたたちみたいにしゃべれないから、かわいそう。あなたたちは、教科書の勉強はできるからいいね」と生徒たちを障害種別で比べるような発言をする先生もいました。それはたぶん、先生たちとしては褒め言葉として言っている。だけど、言われる側は、やっぱり、喜べるはずない。比べられて、しかも、友達をばかにされてるんだから。泣きたいほど悔しかったし悲しかったけど、でも、その先生にトイレ介助を頼まなきゃいけないから、言えなかった。
でも、先生たちだってどうしていいか分からなかったんだと思うんです。重い障害の子どもたちがどうしたら幸せに暮らせるのか、卒業後にこの子たちはどうなるんだろう、社会に出たら生きる場所があるんだろうか……って、先生方も先がまったく見えなくて、葛藤の中で強い言葉が出てしまったりしたんだろうなと思う。よく、「おまえたちは障害が重いんだから、親にいつまでも甘えてないで、親が死んだ後のことを考えなさい」って言われてました。当時はリハビリ至上主義の時代で、身体的自立がよしとされ、介助に頼ることは甘えや怠けという価値観がまだ残る時代でした。できることを増やして、経済的にも身体的にも自立ができることだけが素晴らしい、それがすべて、みたいな時代。困った時、人や制度に頼れる力だって素晴らしいのにね。

油田:今はだっこさんの時代よりはましかもしれないけど、でも、その問題って現在の特別支援学校でも続いていると思います。特別支援学校の先生も、経済的にも身体的にも自立ができないと社会参加できないというふうに思って、様々な生き方の選択肢があること、可能なことを知らない。だから、時に、生徒に健常者中心主義的な言葉を投げてしまう。

朝霧:そうですね。でも、「経済的にも身体的にも自立ができていなければ参加できない社会」って、障害の有無に関係なく、ハードル高いですよね。社会には、生まれ落ちた瞬間から、障害のある人もない人も、赤ちゃんも高齢者も、全員もれなく、参加をしているんだよ。

ロールモデルを見つけ希望の灯を得るものの、不安と葛藤の中で揺れまくっていた10代

朝霧:傑出した才能もない。パラリンピックとか国体に行くようなアスリートになる身体能力もない。勉強もできない。普通の健常者にもスーパー障害者にもなれなかった、市井の障害者である私が、どこに生きる場所があるんだろうか。さりとて、ちょっと今からでは大学も受かりそうにないし、介助もない。こんなに全部がなくて、どうしていけばいいんだろう。世に言う「普通の人生」から完全に落っこちてしまった状態で、養護学校から社会にいきなり放り出されても、どうやって生きていけるのかなとすごく不安でした。本当に不安だった。
ボランティアさんたちの手を借りて生きていくみたいな自立の方法は、高校ぐらいとかでおぼろげながら見え隠れはしました。『あなたは私の手になれますか』って本を書かれた小山内美智子さんの生き方とか。障害当事者女性で、エッセイを書く方……中高生ぐらいのときに小山内さんや安積遊歩さんの本を読んで、こういうふうに自分も、母の介助じゃなくて1人で暮らすことができたらいいなって思った。けど、当時、先達の本を読むと、その方たちがとてつもない、別世界の、雲の上の人というか、大天才に見えるわけです。なんと言っても文章がもう神だし、とてつもないバイタリティーをお持ちの方ばかり。私はこんなに強くたくましく生きていけるかなって思うと、絶対やってやる!って思う日もあれば、さりとてどうしたらいいのかすごく不安な日もあり。ずっと揺れてましたね。先生は「親はいつまでも生きてないぞ。自立しろ、親がいつ死んでもいいようにしておきなさい。」って言うけど、14歳とか15歳とかでそんなこと言われたってさ。心の深いところでは、絶対にやるぞと思ってはいたけれども、その年齢なりの、自分たちの日常なりの「10代の青春」も欲しかったわけ。その頃は、「今日のドラマ何見た?」とか、「好きな男の子にバレンタインにチョコあげる?!」とか、そんなことばっかりを考えたいわけで。すごい深い葛藤の中にいたような気がします。当時、「普通の子」と「養護の子」と、世界が二つあって、交わっていなくて……という隔絶感みたいなものがあって、どうしよう、こんな何もわかんないまま社会に出たら……ってずっと思ってた。

油田:ちなみにそれらの本は、なんで知ったんですか?

朝霧:養護学校の先輩が薦めてくれたんです。中高って、恋愛や性のお話みたいなのに興味がある年齢があるじゃないですか。先輩が高校生、私が中学生ぐらいのときに、「私好きな人がいて」みたいな話を一緒にしてたときがあって、その時に先輩が、「だっこ、この本知ってる? だっこにはまだ早いかもしれないけど、私、買ったから貸してあげるよ。先生たちには絶対内緒だよ」「お母さんとかにも絶対見せちゃ駄目な本だよ。大人の本だから」って言って、カバーを掛けて貸してくれたんです(笑)。『車椅子で夜明けのコーヒー』っていう本。私の世代では、障害当事者や、障害福祉を学ぶ人は「この本はもう、道として絶対に通る」と言われた、『あなたは私の手になれますか』よりも、もっと恋愛と性の本。過激なほうの本を貸してくださって。それが小山内さんの本を知ったきっかけです。

油田:本を薦めてくれた先輩、ナイスですね。

朝霧:読んで、目が飛び出た。あと鼻血も出た(笑)。こんな大人の世界があるんだ!と(笑)。恋や性愛のことを本に書いてくださる方がいるんだっていう衝撃もあったし、それに、一生をお母さんの手で生きていく生活を打破できる可能性が、私にもあるかもしれないって、小山内さんの本を読んだ時に人生で初めて思った。
そして、それは「ありのまま舎」の皆さんとの出会いによっても思いました。仙台に「ありのまま舎」っていう社会福祉法人があるんですが、私、高校1年のときに、ありのまま舎が主催した「ありのまま記録大賞」っていう10代までの文学賞の詩部門で大賞をいただいたんです。そのご縁で、高校生の時にありのまま舎に行きました。ありのまま舎は、その時から、当時は画期的だったバリアフリーアパート形式の入所施設を運営なさっていました。入所者には一人ひとりの居室があって、必要なときは介助さんやボランティアさんをおのおの見つけて、居室での一人暮らしを推奨しますっていう。それを見せていただきました。当時常務理事長を務めていらっしゃった山田富也さんは、私よりも障害の重い方で電動車いすに乗ってらして。筋ジストロフィーの進行のために、晩年は人工呼吸器を付けて寝たきりの状態でいらっしゃいました。でも、ずっとご自身がシフト管理をなさったりとか。今で言えば、サービス提供責任者みたいなところなのかな? ずっとリーダー的な立場で現場の采配を取られていて、すごいと思って。山田さんに会えたのもすごく大きかったです。
「こういうふうに生きていければ、私にも何かができるのかな」っていうのを示してくれるようなロールモデルたる方はいました。それが一縷の希望ではあった。私にもなんとかして生きることができるかもしれないって。小さい希望の灯みたいなのは、消えずに、ずっとあった。でも一方で、どの人を見ても、もうすごい天才だと思って、「私なんかとてもとても……」って思ったり。腹の底の、生きるための本能や直感のような部分では、「よーし、私もやるぞ」って本当は思ってるけど、頭だけで理屈で考えはじめると、「でも、私、トイレも全介助だし、自信がないな……」みたいな。ずっと揺れてる感じでしたね、10代のときは。

 

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プロフィール

ウェルドニッヒ・ホフマン症、シンガーソングライター・作家|朝霧裕(Asagiri Yuh)

1979年、埼玉県生まれ。愛称は「ダッコ」。筋肉の難病ウェルドニッヒ・ホフマン症(脊髄性筋萎縮症)のため、車いすの生活、24時間の介助サポートを得て、さいたま市で一人暮らしをしている。シンガーソングライターとして、コンサートやライブ活動、学校講演を行うかたわら、エッセイを執筆。「障害の有無、世代を問わず、誰もが輝ける社会」を夢として、書き、語り、歌う。
著書に『いつかの未来は夏の中』(七賢出版, 1995年, 本名・小沢由美の名で出版)、『命いっぱいに、恋 ―車いすのラブソング―』(水曜社, 2004)、『車いすの歌姫 ―一度の命を抱きしめて―』(NKKベストセラーズ, 2010)、『バリアフリーのその先へ! ―車いすの3.11―』(岩波書店, 2014)など。

文/油田優衣

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