あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載2回目

「外の世界で生きる人、塀の中で過ごす私」から抜け出して

MISAO UENO

文/篠田恵 : 写真/中井和味

「外の世界で生きる人、塀の中で過ごす私」から抜け出して|上野美佐穂2回目

SMA(脊髄性筋萎縮症)|埼玉県さいたま市在住|上野美佐穂(うえのみさお)

1974年、神奈川県横浜市生まれ、埼玉県朝霞市育ち。2歳頃から施設で育ち、高校入学から24歳までは国立療養所(当時)東埼玉病院で過ごした。日常生活のほとんどに介助が必要。現在、事業所から派遣される介助者(重度訪問介護)7,8人に介助を受け、埼玉県さいたま市で自立生活をしている。イルカ保険サービス合同会社で週2回、1日あたり5時間のテレワークをしている。

目次

「外の世界で生きる人、塀の中で過ごす私」から抜け出して|上野美佐穂2回目

大宮の街は「夢の国」

――そんな状況から、上野さんは退院し自立生活を始めますが、最初のきっかけは何でしたか。

上野:高校を卒業すると、あまりにも時間ができてしまったんです。病院内サークルで七宝焼とか英会話があったんですが、目的が見つからなかった。制作物は関係者が買ってくれたりしますが、お金が貯まっても使い道がない。どんなに裕福な家の子でも病院にいたら毎日着替えもできない、親の承諾書類がなければ自由に外出もできないんです。

そうこうしているうちに、患者の自治会で、活動企画を立てましょうという動きがあって。私は病院内だけの人間関係に嫌気がさしていたので、とにかく同じ年ごろの人たちとつながりたくて、大学生との交流会を企画したんです。病院の公衆電話から、県内の福祉学科がある大学に片っ端からかけて、福祉系のサークルを紹介してもらいました。

そこからが急展開でした。交流会で仲良くなった男子学生がガールフレンドを連れて病院に来てくれたところ、私が彼女と意気投合して、毎週のように文通するようになったんですね。彼と彼女が月2回くらいは一緒に外出してくれました。

大学生がよくするようないろいろな遊びや、お酒を飲むことを覚えたり。一般的にはたいしたことじゃないかもしれないけど、私にとっては病院から出ること自体がすごかった。バスに乗るのも、彼らがいなければできませんでした。バスに乗って最寄りの駅まで行けた、そうしたら次は電車に乗れる、電車に乗ったら初めて大宮に行ける、みたいな順番で。

私にとっては当時、大宮はなんでもあって、ディズニーランドみたいな、夢の国だったんですよね。そういう体験を重ねて自信がついて、新幹線に乗ったり旅行をしたり、本当に世界が広がっていきました。

「外の世界で生きる人、塀の中で過ごす私」から抜け出して|上野美佐穂2回目

自立生活を決意させたもの――
未来へ進める友人へのうらやましさと、同じ障がいのロールモデル

――友人たちと過ごした経験から、どのように自立生活につながっていったのですか?

上野:大きな転機になったのは、そのカップルの就職活動です。2人は未来に向かって進んでいるのに、私の生活はまったく変わらない、進む未来が見えない。そう気づいたときに、すごいギャップを感じちゃったんですよね。「外の世界で生きる人、塀の中で過ごす私」みたいな。2人の就職活動を応援する一方で、虚しさとかうらやましさがありました。

後輩たちはその後も付き合い続けてくれて、先輩たち以上に私のいろんな可能性を広げてくれました。でもきっとこの人たちも時期が来たら、だんだん会えなくなっちゃうのかなと思ったら、すごく悔しく、寂しくなって。私もとにかく未来を見るために、ここにいたらもうダメだって思ったんですよ。このままここに居ても、どんどん後輩は回ってくるかもしれないけど、でもそれで自分の生活が変わるかといったら、その場では楽しいことがあるけど、それ以上の未来は見えないって。

ちょうどその頃、私が23歳くらいのときに、違う病棟にいた5つくらい上の、同じ障がいの女性患者さんが、自立生活をすることになったんですね。すでに自立していた男性患者が埼玉大学の学生と一緒に団体を立ち上げて、介助派遣サービスを始めていて、そこを使って自立すると。たしか私はそのとき、彼女に手紙を書いたんです。「私も〇〇さんみたいにいつかこの病院を出て、自由に暮らしたい。その時は相談に乗ってください」みたいな感じだったかな。

その人が病院に検査や定期健診に来て会うと、やっぱりいきいきして、楽しそうだったんです。そんな彼女を見ていたら、「私でも、できないってことはないんじゃないか」って意志が湧いてきて、自立について考え始めました。いろいろな自立生活している人の話を聞きに行くときは、大学生の友達が付き合ってくれました。都内のCILを訪れたりとかしているうちにイメージが湧いてきて、自立生活を決めたんです。

「外の世界で生きる人、塀の中で過ごす私」から抜け出して|上野美佐穂2回目

公的介助がない中、友人と一緒に進めた退院

――今のように公的介助がない中で、友達による介助など、本当に手作りで自立生活まで漕ぎつけたんですね。

上野:ピアカウンセリング(以下ピアカン)や自立生活プログラム(以下ILP)(※5)を受けていたんですが、定期的に通うだけじゃなくて合宿形式もありしました。なので友達に同行してもらったり、一緒に泊まってもらったりして、なんとか受講していました。ほんとうに、友達がいなかったら、今こうして自立生活できていないと思います。

――一方で、退院にあたって壁はありましたか。

上野:親ですね、私の場合は。反対されたし、自立生活の話をする雰囲気を作らないようにされていたというか。最初にこの話をしたときは、「外に出たら24時間だれかに介護してもらわなきゃいけない。今は病院だからお前が苦労しなくても制度に守られて、看護師さんたちが介護してくれてるのに、なんで人に迷惑をかけてまでそんなことをするのか」って言われました。それで、「私が外に出るってことは、人に迷惑をかけて暮らすことなんだ」と最初は思ったんです。

私はそれまで家族とほとんど一緒に暮らしてなかったので、父親との心の距離も結構あったんですよ。父親が言うことは守らないといけないんだって感じだったんですけど、そのときばかりは反抗したんですよね。結局最後は一応親の承諾がないと退院できないので、何もしてくれなくて良いから、とにかく退院だけさせてくれってお願いをして。だから家族の応援はなかったし、退院の日も来なかった。お金も一銭も出してもらわずに、自分で貯めた障害年金と、自分でつくってきたご縁に助けてもらって、退院したって感じですね。

それ以外はそんなに苦労はなかったかな。当時は自立生活する人なんて、ほとんどいなかったので、病院側は「すごいこと思いついたねえ、でもすぐ戻ってくるんでしょ」と余裕な感じでした。嫌味も言われましたけど、中には理解して背中を押してくれる看護師さん、あと指導員の方とか、保育士さんがすごく親身に相談にのってくれました。

私は退院してから10人くらいの自立支援をしたんですけど、むしろ今の病院の方が本当にすごい管理体制だと思います。特にここ数年は大変ですね。とにかく病院が外部から入る人をものすごく拒否するというか。まず親同伴じゃないと外出ができないところもあります。親子関係が良いか、親が本当にノータッチすぎて病院側も諦めてる場合は比較的自立しやすいですけれど。

→第3回では、自立生活後の困難について伺います。

注釈

※5 施設や実家を出て一人暮らしをしようとする人たちが、先輩の障がい者を手本としながら福祉制度を学んだり、金銭管理、家事、介助者への指示の出し方を身に着けたりするためのプログラム。全国のCILが実施している。

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プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)|埼玉県さいたま市在住|上野美佐穂(うえのみさお)

1974年、神奈川県横浜市生まれ、埼玉県朝霞市育ち。2歳頃から施設で育ち、高校入学から24歳までは国立療養所(当時)東埼玉病院で過ごした。日常生活のほとんどに介助が必要。現在、事業所から派遣される介助者(重度訪問介護)7,8人に介助を受け、埼玉県さいたま市で自立生活をしている。イルカ保険サービス合同会社で週2回、1日あたり5時間のテレワークをしている。浦和レッズの熱心なサポーター。

文/篠田恵

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