あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

家や学校のしんどさから、地元を離れ、特別支援学校の高等部へ。「誰も私のことを知らないところへ行きたかった」

Mako Nakano

文/油田優衣 : 写真/児玉京子

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー|中野まこ

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー当事者。1991年生まれ、山口県岩国市出身。中学校までは地域の学校、高校は特別支援学校に通う。日本福祉大学に進学すると同時に、介助制度を利用しながら自立生活を始める。大学卒業後、自立生活センター十彩(といろ)のスタッフとして勤務。2022年度から代表を務める。

【イントロダクション】

大学進学と同時に自立生活を始められ、現在は自立生活センター十彩の代表として働かれている中野まこさん。
SNSやテレビ、文章などのさまざまなメディアを通じて、自立生活(運動)のことやマイノリティの権利について積極的に発信されており、かつ、互いに近い世代(運動の中では、若い世代になるのでしょう)である中野さんに、ずっと話を聞いてみたいと思っていました。
今回のインタビューでは、中野さんの幼少期から現在に至るまでのライフストーリーをじっくりお聞きしました。

第1回は、幼稚園時代から、地域の小学校・中学校を経て、特別支援学校の高等部に至るまでのお話。
家や学校でのしんどさから、自らの希望で特別支援学校の高等部への進学をしたという中野さんからのお話からは、どうして障害のある子が通常のクラスでしんどくなってしまうのか、特別支援学校にあって地域の学校になかったものは何なのかを考えさせられます。

(文/油田優衣

目次

小3までは週に数回だけ通常の学級の授業に参加。私は「外から来たお客さん」だった

油田:まず自己紹介をいいですか?

中野:中野まこです。愛知県の名古屋市で生活をしています。出身は山口県で、高校まで地元にいて、大学進学がきっかけで愛知県に来ました。そこからずっと重度訪問介護を使って自立生活をしています。一人暮らしは今年で14年目ですね。大学卒業後は、新卒で「自立生活センター十彩」で活動を始めました。だから10年目ですね。去年の4月に代表になりました。

油田:小学校に入るまでの記憶とかってありますか?

中野:地域の幼稚園に行ってましたね。そのころはまだ歩けていました。人よりゆっくりで、疲れやすいから長い時間は歩けないけど、友達と歩き回って遊ぶことも多かったです。当時、『セーラームーン』や『おジャ魔女どれみ』が流行っていて、そのへんのごっこ遊びをしてたかな。私はいつも悪者に捕まる役で、元気で活発な子がセーラームーン役とかで、私を助けてくれるみたいな、パターンが決まってた(笑)。外で遊ぶことも多かったし、下の学年のクラスに遊びに行ってお世話したりとか。私、一個下に妹がいて、妹のクラスによく行ったりしてましたね。

油田:小学校は、そのまま地域の学校へ?

中野:そうですね。ただ、年長の時に引越しをしたので、幼稚園の子たちが行ってる学校とは別になっちゃったんですよね。だから、小学校には幼稚園の時の友達は誰もいない状態でした。小学校の3年生までは「なかよし学級」、今でいう特別支援学級にいました。で、私の場合は、図工と体育と音楽だけ、「親学級」とか「原学級」とかいうみんなと同じクラスで受けてたんですよ。

油田:ほう?

中野:今でいう合理的配慮が必要な授業を一緒にやってた。だから、体育に行くけど、結局見学で、うまく参加できなかったなって思うし。

油田:国語・算数とかは?

中野:特別支援学級で受けてました。しかも、同じ学年に障害のある子はいなかったから、先生と一対一だったかな。

油田:なんか逆じゃないですか?

中野:そうなんですよね。図工とか体育って週に1回か2回ぐらいしかないから、ちょっとずつだったら(通常の学級に慣れるのに)いいみたいな感じだったのかな? ちょっとわかんないけど。でも今思うと、なぜ個別の配慮が必要な授業を一緒にやってるんだろうって思いますが。それに、回数が少ない授業だけしか(通常の学級に)行ってないと、やっぱり私自身「同級生」っていうふうには感じられなくて。たぶん、周りの同級生たちも「誰?」ってなっちゃうだろうし。

油田:「特別な時間に来る、特別な人」みたいな。

中野:そう。「お客さん」って感じだったと思うんですよね。たとえば、そのクラスの担任の先生が、「今日は、まこちゃんと一緒に図工をやるよ」とか言うわけですよ。

油田:あぁ……。

中野:なんか「お迎え」されるわけね。「まこちゃんが来ました!」みたいな。ってなると、やっぱり対等ではない、同級生ではないなって。「外から来た人」っていうのを、その時はあんまり感じなかったけど、大人になって振り返るとそうだったなって。
でも、4年生からは、支援学級じゃなくて通常の学級の在籍になったんですね。支援学級の担任の先生が4年生で変わって、その先生に私が「みんなと一緒に勉強したい」って言ったんです。そしたら「まあ、いいじゃん」ってなって。朝の会から終わりの会まで、同じクラスで過ごすことになりました。

油田:「まあ、いいじゃん」(笑)。最初からそれでよかったのではって思っちゃうけど……。ちなみに、通常の学級になって、変化はありました?

中野:やっぱり、友達ができたなって思う。

油田:1~3年の時は、友達関係は?

中野:そんなに。「なかよし学級」って、休み時間には開放してたんですよね。で、教室には、漫画とかオセロとか、インターネットがつながってるパソコンがあって。それを目当てに遊びに来る子はいるんですよね。たぶん先生が、私と友達が遊んでほしいから、いろいろ置いてたんだと思うけど。

油田:なんか、そのやり方は違いますよね……。

中野:そう。3年生までは仲良しの子はあんまりいなくて。でも、みんなと同じクラスになった4年生からは、ずっと一緒にいるから、たとえば私は、漫画や絵を描くのがすごい好きだったので、休み時間に漫画を描いたりとか、交換日記したりとか、そういう友達ができたなって思うし。あと家に遊びに来る友達もできた。私は友達の家に行けないから、友達に来てもらって。当時は、プレステとかゲームキューブとかが流行った時代で、友達にプレステを持って来てもらって遊んだり。やっぱり、一緒にいることでできる子ども同士の自然な関係性ってあるのかなって、大人になって思いますね。

「毎日学校に行きたくなかった」中学時代

油田:中学時代はどうでしたか?

中野:もう「嫌だったな」って思う3年間でしたね。二つの小学校が合体する中学校で、全体の3分の2が同じ小学校から一緒に上がってる子で、残りの3分の1が別の小学校からの人たちだったんですけど、中学1年の時のクラスで、小学校の時の仲良い子と別れちゃったんですね。あと、小学校の時にいちばん仲の良かった子が、私立の中学校に行っちゃって。それと、別の小学校から来た子たちの、私のことに慣れていない感じが……。なんかドギマギしてるっていうか。お互いに「どうすればいいのかな」みたいな。私も、友達の作り方がわかんなかったり。積極的ではなかったと思うんです。自分から「こうしたい」「ああしたい」とか言わなかったし。そこには、「私がいることでなんか迷惑かけるんじゃないかな」っていう思いもありました。

油田:「迷惑」っていうのは?

中野:たとえば、社会の授業で、机をくっつけて班になって話し合うみたいなのがあって、その机を動かすにしても、自分でできないから、頼まなきゃいけない。できないことを頼むのって「いいのかな?」って。そういう遠慮のようなものが自分の中にすごいあって、頼みにくかった。
いちおう、私のための支援員というか補助の教員がいたんだけど、授業中はいなくて、休み時間に来る感じでした。うーん、やっぱりところどころ(授業中も)補助の先生がいたほうがよかったのかなとかも思うけど、でも、ずっと大人がそばについているのは、それはそれで、余計に子どもたちは近づきづらいと思うし……。友達として自然に手伝うっていうのもあると思うから、それでよかったのか、ちょっとわかんないけど……。その時の私は、何かを頼むっていうことにすごく抵抗感があって、しんどかったなって。

油田:そっか……。その頃って、身体の状況はどんな感じだったんですか?

中野:中学校の時は手動の車いすに乗ってたけど、もう自分ではこげないから、移動も先生に押してもらってた。小学校の時は、私の車いすを押したい子がたくさんいて、奪い合いみたいになってたけど、中学校になるとそういうのがなくなって。あと、学校はエレベーターがなかったから、階の移動は「階段昇降機」っていうめちゃくちゃ怖いやつに乗せられてて。中学校の卒業間際に簡易電動になったんだけど、段差ばっかりだから結局、自分で動けない。だから、自由に動くっていうことができなかったんですよね。
今だと「え、ほんとに?」って思われるかもしれないけど、私は子どもの時は、すごい引っ込み思案だったんですよね。だから、どうにか自分で頑張るとか、人の顔色を見て「今あの子が立ったからついでにお願いしよっかな」みたいな。そういうのが自然に染み付いちゃってたかなと思います。

油田:中学時代って、ほかの障害のある人に聞いても、やっぱりしんどかったって人が多いですね。

中野:うん、多い。思春期もあるんだと思う。自分のことだけじゃなくて、相手の視線も感じやすくなるだろうし。自分をどう見られてるのかなとか、嫌われたくないなとか。あと、私の場合、小学校の時にすごい仲良かった友達の一人が、中学校になって私のことをすごい嫌ってたっていうことがあって。なんでそうなっちゃったか、今でもわかんないですよね。私が知らず知らずのうちに何かやっちゃってたのかもしれないけど。ほんと友達関係がうまくいかなくて、毎朝、登校する時間になるとお腹が痛くなって、毎日学校に行きたくなかった。でも、親に連れて行かれるから。「行きましょう」「行かなきゃだめ」みたいな。「だめ」とは言わないけど、行くことが当たり前だから。「早くトイレ終わらせろ」みたいに言われて。私だけじゃなくて、ほかの障害のない人に対してのいじめも普通にあったし。でも、そういうのも特別支援学校じゃ経験しないかもしれないよね。

油田:そうですね。特別支援学校ってみんなが違いすぎるから、自分が「どう見られるかな?」みたいなのは私の学校はなかったなぁ。そこは楽だったかも。

中野:そうだよね。通常の学級は「みんなこうしなきゃいけない」っていう、そこからはみ出たらよくない、みたいな空気があるんじゃないかなって。だから、私も必死にしがみついてたというか。

「勉強ができるから私はみんなと同じクラスにいていい」と思っていた

中野:これは本(※1)にも書いたけど、やっぱり勉強しないと私には取り柄がないと思ってた。それができなかったら支援学級に逆戻りしてしまうと思ってたし。

油田:そう思うようになったのは、親から直接そう言われたから? それとも、なんとなく?

中野:うーん、順序はよくわかんないけど、でも、その言葉はつねづね言われてた。毎週、お母さんがリハビリに連れて行くんですよね。幼稚園の時から、小学校、中学校に上がってもずっと。だけど、リハビリをしても、何がよくなるわけじゃないじゃないですか、この病気って。それをたぶん感じるんですよね、親は。だから、「まこの取り柄は勉強しかない。だから勉強を」って、ずっと言われてた。

油田:小学校ぐらいから?

中野:そう。まぁ、小学校ぐらいはまだ楽だった。楽っていうか、楽しかった。友達もいっぱいできて。だけど、中学校ぐらいから、遊ぶ友達もいなくなっちゃって、だからもう家でやることが勉強しかない。勉強しかないんだったら、とりあえず頑張るかみたいな。そして、中学校になると、テストの順位が出るんですよね。で、誰が1位、2位って噂になる。私はけっこう上のほうで、なんて言ったらいいんですかね、「上位のほうなんだぜ」みたいに、威張ってるわけじゃないけど、そこに私の価値があるって思ってた。だからみんなと同じクラスにいていいと思ってた。

油田:そっか……。

中野:私は体育もできないし、掃除もできないし、委員会活動も迷惑をかけるだけだから、勉強のことを頑張るしかない。そこに私の存在の意味があると勝手に思ってた。
小さい頃からの学力主義とか能力主義は、すごい染みついてるなって思います。それに気づいたのはすごい最近なんだけど……。勉強ができる自分にしか価値がないし、他人に対しても、勉強ができるかできないかで、その人を判断をしてるというか。たとえば、「この人は私よりものごとを知っているな。だから仲良くなりたいな」みたいに見ちゃってた自分がいると思います。でも、このCIL(自立生活センター)での活動をして気づいたな。障害のある人、とくに知的障害がある人に対して、その人と自分を比べて、「私まだできるほうだ」みたいに思ってる自分が当時いたこととか、そういう優生思想的なものが自分の中にあることとか。それに気づいたら、ほんと自分が嫌になりましたね。

家や学校のしんどさから地元を離れ、高校は特別支援学校へ

油田:中野さんは、高校からは特別支援学校に行かれたんですよね。そのあたりのことを聞かせてください。

中野:まず、特別支援学校の存在は小学校の時に知ってたんだよね。小学校5年生の時に、脚の手術をしたんです。夏休み期間で退院できると思ってたら、長引いてしまって、一時的に支援学校に転校してたんですよ。入院しながら、その支援学校に2か月ぐらい通ったんですけど、それがもう「車いすでめっちゃ自由に動ける!」って感動で。それに「私と同じような車いすの人がいっぱいいる!」みたいな安心感もあって。あと、入院生活も意外と楽しかったんだよね。テレビが自由に観れないとかそういうのはあったけど、「似たような子たちが一緒にいる空間が、なんだか楽しくて安心」みたいなのを2~3か月ぐらい経験しました。だから、そういう学校や併設されている施設の存在を知っていたっていうのがまずあって。
中学3年間を過ごして、まず自分で自由に動けないことが、けっこうしんどかった。友達関係もうまくいかないし。何だろうな……、周りの子と自分の違いをすごい感じるようになってしまって。「自分にはできないことばっかりじゃん」「勉強しかできないな」みたいに思って、「もう誰も私のことを知らないとこに行きたいな」って。
あと、親だね。とくにお母さんだけど。私は主たる介助者が、お母さんとおばあちゃんとお父さんで、お母さんが学校やリハビリなどの送り迎えをしてくれてたんだけど、すごい厳しかったんだよね、今思うと。「(まこは)人よりも動作が何倍も遅いんだから、先のことを見越して早く行動しなさい」「先を先を予測して行動しなさい」ってずっと言われていて。あとは、家からはお母さんが抱っこして車に乗せるんだけど、たとえば「体重が30キロを超えたら施設に入れるからね」ってずっと言われてて。

油田:それは本気で? 冗談で?

中野:わかんない。まぁ、結局入れられなかったし、言葉だけだったと思うけど、私は子どもながらに本気に言われてると思ってた。「ほんとどうしよう。これ以上体重が増えたらほんとにだめなのかなあ」っておびえてた。叩かれたり、車いすから投げられたりとか床に叩きつけられたりとかもあったから。やっぱりそれは子どもながらに、すごいしんどかったんだよね。ほかにも、「これをやってほしい」「これを取ってほしい」とか「トイレに行きたい」とかなった時も、「さっきやったじゃん」「またやるの?」みたいなことを言われたりとかするし。お母さんもたぶん、ほんとは言いたくないんだろうけど言っちゃうんだろうね、きっと。でも、そういうのが続いていて、もう怖いと思ったり。

油田:安心できる関係ではなかった。

中野:そう、安心はできなかったね。隣の家に住んでいたおばあちゃんがすごいよくしてくれたんだけど、「おばあちゃんに毎日やってもらうのもどうなのかな……」とも思ったし、なんか「私はこの家にいないほうがいいかな」と思ったり。

油田:それはしんどいですね。学校も家もしんどい。

中野:家もしんどいし、安心できる場があんまりなかったかな。お母さんに怒られないように先回りして「今のうちにこれを頼んでおこう」みたいな。

油田:ああ、計算してね。先を読む。

中野:そう、先を読んで。何か頼まなきゃいけないことがあるとして、それを達成するために必要なことを挙げていって、頭の中に「お母さんに頼まなきゃいけないことリスト」みたいなものをよく作ってた。「これがだんだん減っていくといいいなあ」って思いながら。たとえば、頼まなきゃいけないことが5つぐらいあったとして、それをクリアしていくみたいな。

油田:タイミングを見つつ、頼んで、「よし、今一個クリア」みたいな。

中野:そうそう。「あとまだ2つあるんだー」とか、「あと1個かー」みたいな。子供時代はそういうのをずっと頭の中でぐるぐる考えてた。

油田:疲れますね、それは。

中野:そう、疲れるなって思ってましたね。だから、まぁ、特別支援学校にしたのは、そういう理由かな。私を知ってる人がいない学校がいいなって思ったことと、家から離れたかったっていうことと、以前少しの期間通った支援学校の居心地が良くて、そこに行きたくなっちゃったみたいな。
いちおう、地元の高校の見学会も行ったんです。でも、まず、私立の高校は受験がだめ。車いすっていう理由で、願書が出せなかったんですよね。一番行きたかった高校、まぁそこは制服が可愛かったからっていう理由もあったんですけど、そこも階段しかなくて。見学の時は、高校生や学校の先生が車いすを抱えてくれて行けたけど、それがまた3年間、毎日続くのかなって思うと、また遠慮しちゃうし、迷惑かける存在だなって思っちゃうから。やっぱ自由に学校を動き回りたいって思ったのもある。そういうところで、地元を離れて特別支援学校に行きたいって思ったんだと思います。

特別支援学校では、求められることが増え、初めて「自分は認められている」と思えた

油田:それで高校は、実家から離れ、特別支援学校に高等部に。それと同時に、併設されてる施設へ入られたと。

中野:はい。「医療福祉施設」って言ってるけど、手術やリハビリを目的に障害のある子たちが過ごす場所ですね。基本的に18歳未満の子たちがいるところのはずなんだけど、成人してる人たちもいっぱいいました。家庭の事情とかで家に帰れない人とか。

油田:そこに入所して、高校生活が始まると。高校生活はガラッと変わった感じですか?

中野:そうですね。一番大きかったのは、やっぱり自分で自由に動けることの感動。もうその時は簡易電動を使いはじめていて、支援学校は段差もないし、上下移動も自分でエレベーターで行ける。休み時間にほかのクラスや小学部、中学部に行ったりしてました。あとは、委員会活動や生徒会活動とか、そういう授業以外のこともやれるようになった。

油田:それまでは迷惑かけるからって……。

中野:そう、「できない」「自分はやっちゃいけない」って思ってた。でも、それを「やっていいんだ」って思えたし、あと、求められることがいっぱい増えたっていうのかな。何ていったらいいかな……、支援学校特有だと思うんですけど、しゃべれる生徒って重宝されませんでした?

油田:たしかに。生徒会させられたり……。

中野:そうそう、それもまた障害の区別で差別してる気がするけど……。でも、それが私にとって嬉しかったんだよね、きっと……。先生からまた選ばれたとか。自己肯定感が上がる場所だった。ほんとはね、どんな場所にいたとしても、自分を認められることが大事なことだと思う。でも、通常の学級にいたら、私は「認められている」とは感じられなかったんだろうなって。

油田:勉強で頑張らないと、そこにいちゃダメみたいな。

中野:そう。「何もしなくてもただそこにいていいんだよ」とは思えなかったなって。でもね、支援学校に行って、人の前でしゃべる仕事とか役割をもらうようになって、「私だからできるんだ」みたいに、またそこで「私は偉い」「すごい」みたいに思っちゃう自分が生まれてしまった。

油田:あぁ、めっちゃ複雑……。

中野:複雑なんですよねー。

外とのつながりを断たれた施設での生活。異性介助の問題も

油田:施設での生活はどうでしたか?

中野:私は6人ぐらいの大部屋で生活をしてたんですけど、まあプライベートはないよね。カーテンの仕切りもなかったし。あとは、小学部、中学部の子や、知的障害があってコミュニケーションが難しい人がたくさんいて、部屋に1つだけあるテレビを譲ってたので、ずっと『おかあさんといっしょ』とか『アンパンマン』が流れてた。『おかあさんといっしょ』の歌、めっちゃ歌えてたね、当時は。

油田:世代が違うとこに詳しくなっちゃいますね。

中野:そう。テレビって21時以降がおもしろいじゃないですか、ドラマとかバラエティーとかあって。でも、消灯時間は21時だったから、まったく観れなかった。だから、この高校3年間の流行が抜け落ちてるんだよね、私の中で。

油田:そこの年代だけわかんないみたいな。

中野:そう。大学生の時に、「このドラマ観た?」とか言われても「私観てないんだよね」って言うしかなくて。あとは、携帯電話の持ち込みができなかったんですよね。施設には共用のパソコンが一台あったけど、それも「一人一日20分」っていう制限があって。だから、外とのつながりは、完全にシャットダウンだね。だって、外出とかもできない。

油田:そうだったんだ。

中野:土日に実家に帰る子もいたんだけど、私は家に帰りたくないから。3連休や、夏休みとかの長期休みは帰ってたけど、普通の土日は帰省せずに残ってたグループなんですよね。残ってる子たちは、家庭の事情でなかなか帰れない子たちだったり、重度の障害の子だったりするんだけど、その子たちと土日一緒に過ごして、絵本読むとかなんかやってて。「こんな私でも何かできることあるんだな」って思ってたかな。

油田:大事な時間ではあったんですね。

中野:そうですね。まあでも、施設では異性介助があったので、それはびっくりしたっていうか。最初はしょうがないのかなって思ってた。やっぱり障害者だし、人手不足なのかなとか、女性だと力が弱いから男性がいたほうが安心なのかなって思って。「おかしい」って頭で思いつつも、それに対して「おかしくないですか?」って言うのは我慢してたっていうか、言っちゃいけないことだと思って蓋をしてた。でも、途中で入院してきた女の子が、「なんで男の人がお風呂に入ってくるの?」みたいなことを私に言ってきて。年下にそれを指摘されて、すごい「わっ!」ってなって。「そうだよね」って思って。痛いとこを突かれたっていうか。それを私は言わないようにしてたのに、この子は言ってきて、「すげえ」って。そんなふうにちゃんと言えることがすごい羨ましかった。
それで、その子の言葉がきっかけで、職員さんの中で異性介助が問題になり、ちょっと体制を変えていかないといけないよねってなったんです。でも結局、私やその子のように「知的障害がない身体障害だけの子たちの介助は、女性がやります。異性介助はしません」ってなったんだけど、知的障害を重複している人たちに対しては、変わらず男性が行くこともあって。その時はよくわかんなかったけど、今思うと差別だなって。

油田:知的障害のある人への差別ですよね。

中野:うん。その時に何もできなくてほんと申し訳ないなって思う。見て見ぬふりっていうか……。その時はまだ、障害の種類による差別とか、そういうことがわかってなかった。

注釈

※1 中野まこ(2022)「自立って何?」 野口晃菜・喜多一馬編『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育』pp.45-54

プロフィール

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー|中野まこ

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー当事者。1991年生まれ、山口県岩国市出身。中学校までは地域の学校、高校は特別支援学校に通う。日本福祉大学に進学すると同時に、介助制度を利用しながら自立生活を始める。大学卒業後、自立生活センター十彩(といろ)のスタッフとして勤務。2022年度から代表を務める。趣味は、推し活・ライブに行くこと。

文/油田優衣

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