あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載3回目

自由を謳歌した大学生活。その後、直面した教員採用試験不合格と就労の壁

Mako Nakano

文/油田優衣 : 写真/児玉京子

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー|中野まこ

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー当事者。1991年生まれ、山口県岩国市出身。中学校までは地域の学校、高校は特別支援学校に通う。日本福祉大学に進学すると同時に、介助制度を利用しながら自立生活を始める。大学卒業後、自立生活センター十彩(といろ)のスタッフとして勤務。2022年度から代表を務める。

【イントロダクション】

大学進学と同時に自立生活を始められ、現在は自立生活センター十彩の代表として働かれている中野まこさん。
SNSやテレビ、文章などのさまざまなメディアを通じて、自立生活(運動)のことやマイノリティの権利について積極的に発信されており、かつ、互いに近い世代(運動の中では、若い世代になるのでしょう)である中野さんに、ずっと話を聞いてみたいと思っていました。
今回のインタビューでは、中野さんの幼少期から現在に至るまでのライフストーリーをじっくりお聞きしました。

第3回は、大学時代のエピソードと、その後の教員採用試験不合格と就労の壁についてのお話。
自分で全ての介助者のシフトを作って、生活をセルフコーディネートしていた中野さん。「自分の生活を自分で作っている」という実感があったといいます。友達とオールしてカラオケをしたという話も、聞いていてワクワクするものでした(が、その話には、恐ろしい続きもあって……)。
しかし、その後、教員採用試験は面接で不合格に。泣く泣く就活を始めるものの、「車椅子ユーザーであること」「介助が必要なこと」によって、幾重もの壁に直面したという中野さんの話からは、就労をめぐる障害者差別の大きさについて改めて考えさせられます。

(文/油田優衣

目次

名古屋での大学生活と一人暮らしがスタート

油田:大学に行くために、自分で情報を集めたり、関係各所との調整をしたりして、準備を進めていかれた、と。で、いよいよ大学生活が始まるわけですね。それに伴い、引越しも。

中野:はい。日本福祉大学は、知多半島っていう愛知県の端っこのほうにあるんですね。なので、私は大学の近くの美浜町っていうとこに引っ越しました。

油田:引っ越してその日から重訪使って、ヘルパーさんに来てもらって、みたいな。

中野:そうですね。私が使っていたヘルパー事業所が、日本福祉大学の障害学生の一人暮らしをサポートするためにつくられた事業所で、ヘルパーさんたちは、アルバイトの学生さんがほとんどでした。最初は、先輩が私の介助に入ってくれてました。歳が近い人。私は今まで、親や学校の先生、看護師さんとか、けっこう歳が離れている人に介助をお願いする経験しかなかったから、同世代の人たちにトイレ介助してもらうとか、大丈夫なのかなって不安なところがあったけど、やってくうちに、そういうものなんだなあって慣れました。で、私も一人暮らしが初めてだし、来てくれている学生のヘルパーさんたちも、そんなにね、一人暮らし――

油田:まぁ、歴は浅い。

中野:浅い人たちで。お互いに「ごはんの炊き方どうだっけ?」とか、「これで合ってるのかな?」とか試行錯誤しながらやってました。お互いに一緒に一人暮らしの経験を重ねていく感じがおもしろかったですね。「一緒に考える」っていう感じが多かったな。
あと、大学生4年間は、セルフコーディネートっていって、事業所にヘルパーさんを紹介してもらうんだけど、そこから先は、自分でヘルパーさんと連絡をとって、自分でシフトをつくってたんですよね。だから、同じ時間帯のところを複数の介助者に依頼しちゃってたり、逆に、誰にも頼んでないところがあったり、そういうこともありました。あと、長期休みの期間は帰省する学生が多いから、集まりにくかったり。そういうヘルパー調整の経験もすごい勉強になりました。すごく大変で、もう誰か勝手につくってくれって思ったこともあったけど、でも、ヘルパーさんに来てもらうことに対して自分も責任を持ちたかったし、「自分の生活を自分でつくっている」っていう感覚がありましたね。ヘルパーさんの得意なこととか苦手なことを見極めて、「この日はこういうことをしたいから、このヘルパーさんにお願いしたいな」みたいに、人を見抜いて、生活をコーディネートする力は身についたのかもしれない。

油田:大変だけど、すごい良い経験ですね。

中野:そう。4年間よくやったなって。一回も途切れたことはなかったです。まだその頃って、LINEとかはなかったので、メーリングリストをつくって、それで「今から来れる人ー」みたいに呼びかけてました(笑)。

油田:大学の間の介助はどうされてたんですか?

中野:大学では重訪は使えなくて。大学には、ボランティアの登録制度はあったんだけど、それは、聴覚障害の学生のノートテイクやパソコンテイクがメインの登録ボランティアって感じで、生活介助はあんまり想定されてない感じなんですよね。だから私は、それは使ってなくて、一緒に講義を受けている友だちに、手伝ってほしいことをやってもらったり、トイレ介助をお願いしたりしてました。

油田:へー! なんか私だったら、友だちに頼むのってちょっとハードルが高いなぁって思ったり……。

中野:私も今思うとすごいなと思う。でも、入学前から、友だちに声かけてやっていくのがしきたりなんだって聞いてたから、そういうものなんだなと思って、すごいがんばってました。
でも、学年が上がるにつれて、専門に分かれていくじゃないですか。それでやっぱり、1年生の時に仲良かった子とコースが変わるわけですよね。そうなると、頼みにくくなったりはしました。同じ授業をとってなかったら、すごい大変だったし。それに、お願いする人が固定化されるのはどうなのかなとも思っていて。友だちに、「どう思う?」って聞いたら、「それは普通の友だちとしてやってるだけだから、いいんだよ」みたいに言ってくれたんですけど。でも、今思うとやっぱり、身体的な介助はやっぱりちゃんとやってくれる人がいたほうがいいなとは思いますね。

友達とカラオケでオールをし、始発で帰宅。その後、部屋で寝ていたら……

油田:大学時代の思い出はありますか?

中野:なんだろう。いろいろ……。大学進学と同時に自立生活っていうのも始まって、もうすべてが私にとって新鮮だったんですよね。それまでは大人に守られていた環境で生活してきたんだけど、それがもう、自分の責任で、自分で決めていいんだって。そういうのが初めてで。だって、寝る時間とか起きる時間とかもぜんぶ自分で決められるし、食べるものとかも。
ただ、私は同世代と話すのがすごく苦手なんだっていうことに気がついたんですよね、その頃。高校生までは、周りに対等に話せる同級生がいなくて。目上の人と話すのはすごい得意なんですよ。あと逆に年下の子とか。でも、大学で、一気に同級生が300人ぐらいになって。それに、さっきも話したように、施設での3年間の生活で、流行りを全く知らなくて。どういう話題でみんな笑うのか、何が楽しいのかがわかんなくって、すごい苦手意識があるし、たぶん今でもあると思う。だから、高校3年間って短い時間だけど、すごい大事な時間なんだなって思いました。

油田:若者のノリみたいなのもね。

中野:そう、ノリに乗れないんですよ。だから大学時代も、たとえば「グループに分かれて課題をしましょう」みたいな時、ノリでさぼる人もいるじゃないですか? でも私は「なんで大学にせっかく来てるのにさぼるの?」って思ってた。若い人のノリに乗れなくって、真面目にやっちゃうキャラクターでした。今思うと、大学生だったらもっとはじけてもいいのかなとか思うけど、その時はもう「しっかり授業を受けるのが普通なんだ」って思ってて。

油田:なるほど。さぼるとか遊ぶ、みたいなことを身につけてこなかったんですね。

中野:そうそう。だからわかんなくって、そのノリに対して「変なの」とか思って冷めた目で見てたんでしょうね、私は。だから、大学の中でも、いわゆる「真面目グループ」に入ってたんじゃないかな。まあでも、志が同じ、特別支援学校の教員を目指している友だちとはつながれたなと思います。

油田:中野さんは大学時代、遊んだりはしましたか?

中野:いろいろ。毎年年末に、自分のところに来てくれてるヘルパーさんとかを招いて、忘年会みたいなクリスマス会をやってましたね。10人くらいで。ピザとか頼んだり、ケーキとか持ち寄ったりして。

油田:わぁ、楽しそう。

中野:あと、カラオケにめちゃくちゃ行ってましたね。

油田:へえー!

中野:大学1年生の夏に、初めてカラオケのオールをしたんですね。朝までやって、始発で家に帰るっていうことをやって。それも、友だち同士で。

油田:ヘルパーさんは抜いて。

中野:そう。オールして、帰宅した朝8時くらいにヘルパーさんに家に来てもらって。で、まぁ、朝帰ってきたら眠たいから、ちょっと寝ようと思って。寝てる間は、ヘルパーさんは「いなくていいよ」って言って、外してたんですね。「次、12時くらいに来てねー」って言って、その間、一人で寝ていて。当時、私は1階に住んでたんです。で、今思うと、それがもう、ほんとに大失敗だったんだけど、夏でめちゃくちゃ暑くて、網戸にして寝たんですよ。そしたら、次にヘルパーさんが来て起きた時に、空き巣に入られてたことに気付いて。

油田:え?

中野:ほんとにちょっと驚き……。お金を盗まれてた。寝てる間に網戸から入ってきたと思うんですよね。

油田:え、怖い……。

中野:そう。だからもし私が起きてたら、危害を加えられてたかもしれない……。

油田:寝ててよかったですね……。

中野:いやほんとに。警察を呼んだけど、指紋も何も出なくって。あと、「顔見てないから被害届を出せません」って言われて。

油田:えぇ……。でも、顔を見てたら見てたで、危なかったかもしれない。

中野:そう。だから、爆睡しててよかったなっていう話なんですけど(笑)。今思うと笑えるけど、ほんと笑えない話で。でも、私はその時、「1階で網戸にするのは危険だ」っていうのがわかんなかったんですよ。危ないことは経験しなくていいと思うけど、やっぱり経験がないとわからないことはあるんだなっていうのを、身をもって感じましたね……。

教員採用試験に落ち、あわてて就活を始めるも……

油田:大学卒業あたりのことも聞いていいですか?

中野:私は学校の先生になると思ってたんで、大学4年の夏に、障害者の特別枠で、教員採用試験を受けました。1次試験の筆記試験は受かって、2次試験は面接や実技だったんですけど、面接の時に、「あなたは車いすに乗っているのに、どうやって障害のある子の教育をするんですか?」って言われたんですよ。なんとなく、そういうこと聞かれるだろうなって思って、いろいろ自分なりに回答を準備して、話したんですけど。結局、障害が理由かはわからないけど、2次試験で不合格でした。

油田:「あるのに」って、どういう「のに」なのかなぁ?

中野:ね(笑)。だからやっぱり、車いすユーザーや障害者は、学校の先生には適切ではないっていうことでしょうね。成績開示をしても理由はわかんないんですよ。A、B、Cの判定しか出てこない。その判定の理由は教えてくれないわけで。あっちもわざわざ「障害が理由」とか言わないし。
でも、募集要項に、受験ができる条件として「自力で通勤できる人」「介助を使わずに業務が遂行できる人」みたいなことが書かれてるわけですよ。そこに引っ掛かるんだろうなと思います。だから、初めてそこで「障害が悪いのかな」って突き付けられた。私はずっと「支援学校の先生になるんだ」って思ってたし、まわりの先生も「ぜったいなれる。大丈夫」っていう感じだったから、まさか落ちると思ってなくって。

油田:その合否が出たのって、いつなんですか?

中野:9月か10月だったかな。

油田:じゃあ、それから急いで就活を?

中野:そう。基本的に教員採用試験を受ける人たちは、一般企業の就活はしないんですよね。私も全くやってなかったし。企業とか行く気なかったし。それに、教員採用試験に落ちたことで、私は「もう人生終わった」って思って、1か月ぐらいは何もできませんでした。でも、「これからの生活どうするんだ?」って思った時に、まず、実家には戻りたくないって思ったんですよね。やっぱり、愛知県でのこの一人暮らしの生活がすごい楽しくて、友だちもいっぱいできたし、大学の中だけではなくて、たとえば、サークルやいろんな学習会で、たくさんの人と出会えた。だから、このままずっと愛知県で生活したいっていう気持ちがあった。でも、愛知県で一人暮らしをするっていうことは、お金を自分で仕事をして稼がなきゃいけないと思ってたんです。
それで、パソコンを使った事務的な仕事ならできるかなとか思って、11月から就活をし始めました。でも、やっぱり履歴書に、「車いすを使っています」とか「トイレ介助が必要です」って書くと、面接もしてくれない。私はパソコンのスキルもあるし、事務の仕事もできると思うけど、車いすを使ってることや介助者が必要っていうことだけで、私の中身はもう見てくれないんですよね。書類で落とされるっていうのが何件も続いて。もうどうしようってなって。暮らしていたアパートも、大学卒業式から1週間ぐらいで出ていかなきゃいけない。だから、家も決めなきゃいけないし、一人暮らしをするんなら、家探しも時間がかかるし、リフォームもしなきゃいけないだろうし、新しいヘルパー事業所も早く見つけなきゃいけない。ほんとにもうね……、大変だったんですけど……。
年明けて1月ぐらいに、学生支援センターの人が、愛知県豊田市にある、ある自動車会社の特例子会社がやってるインターンシップの募集を見つけてくれたんですね。「そこに2週間ぐらいインターンして、もし良さそうだったら、採ってくれるかもしれないよ」って言われて。ほんとはぜんぜん行く気なかったし、ずっとパソコンばっかり見てるような仕事は嫌だったけど、でも、とにかく就職しなきゃいけないと思ったから、とりあえずインターンシップに行ったんですね。
で、私が住んでいた美浜町とインターン先の豊田市は、電車で2時間以上かかるんですよ。だから2週間、お母さんに愛知県に来てもらって、車で送迎してもらってました。また、「インターンシップ中は、トイレ介助とかはしません」って言われたので、インターンシップ中も、昼休憩にお母さんに介助のために来てもらってました。
その間に、「もし、その特例子会社に就職するってなると、豊田市で暮らすかもしれない」となって、大学生の時に使っていたヘルパー事業所の人から紹介されたのが、いま私が活動している「自立生活センター十彩」がやっているヘルパー派遣事業所でした。インターンシップの帰り道に寄って、「もしかしたら、これから豊田市で暮らすかもしれないのですが、重度訪問介護ってできますか?」みたいに聞いたら、「ごめんね、豊田市は重度訪問介護はあんまり発達していなくって」、「できる人がいないんだよね」、「だから、ヘルパー派遣はできません」って言われたんです。
と同時に、「実は自立生活センターっていうのがあって、障害者の職員を募集してるんだよね」って言われたんですよ。私はその時は、特例子会社で働くと思ってたから、「あ、そうなんですね。まだわかんないんですけど……」みたいに返して。それより、私のなかでは「ヘルパー派遣してもらえない」っていうことで頭がいっぱいになっちゃって……。そのあとの帰り道のお母さんがマジで怖くて。「あんた、ヘルパー派遣できないって、どうすんのこれ!」って怒られて。「このままなら実家に帰るのか?」「山口県に帰れ!」とか言われて。しかも、めちゃくちゃ高速道路でぶっ飛ばされて。めっちゃくちゃ怖かった。そんなん私に言われても「知らんし」とか思って(笑)。

油田:そうですよね(笑)。

中野:そんなこんなあって、2週間のインターンシップが終わり、結果が来るんですけど、やっぱり結果は「採用はできません」。結局、介助が必要な重度障害者はいらない存在で、身辺自立している軽度の障害のある人ばかりが求められるんだなって思ったんですよね(※5)

油田:特例子会社ですら、ね。

中野:で、私の働き口がなくなってしまったので、自立生活センター十彩に、もう一回連絡して「まだ職員を募集してますか?」って聞いたんです。そしたら、「あ、ごめん、実は一人雇っちゃったんだよね。でも、もう一回考えてみるね」って言ってくれて。なんとか新卒で働くことになったんです。ただ、豊田市では重度訪問介護はできないから、名古屋市で、豊田に電車でギリギリ通えるところに住んでます。

注釈

※5 なお、現在は、仕事中に使える介助サービスの制度が整いつつある。詳しくは、当法人が作成したハンドブック『なにそれ!?介助付き就労』を参照(https://wawon.org/ハンドブック「なにそれ!?介助付き就労」がで/)。

プロフィール

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー|中野まこ

ウルリッヒ型先天性筋ジストロフィー当事者。1991年生まれ、山口県岩国市出身。中学校までは地域の学校、高校は特別支援学校に通う。日本福祉大学に進学すると同時に、介助制度を利用しながら自立生活を始める。大学卒業後、自立生活センター十彩(といろ)のスタッフとして勤務。2022年度から代表を務める。趣味は、推し活・ライブに行くこと。

文/油田優衣

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