あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

高校時代、アメリカにホームステイへ。乗馬体験での出来事をきっかけに「もっと自分の気持ちを言っていいんだなって思えた」

Chieko Terashima

文/油田優衣 : 写真/深津京子

SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型・「自立生活センター・VISION」代表 寺嶋千恵子

1987年、愛知県名古屋市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。2008年に自立生活を始める。AJU車いすセンターで活動したのち、自身のCIL「自立生活センター・VISION」を設立。2018年に子どもを出産。

【イントロダクション】

寺嶋さんは、地域の保育園、小中学校、高校、短大に通い、卒業後は「AJU自立の家」の就労部門に就労されました。2008年から自立生活を始め、全国介護保障協議会の研修生としての活動やAJU車いすセンターでの活動を経て、2021年には自身で「自立生活センター・VISION」を設立。現在は自立生活センター・VISIONの代表を務められています。また、寺嶋さんは2018年に結婚・出産を経験されたことから、当時「難病がありながら出産をした障害者」として注目を浴び、さまざまなメディアでの取材を受けられました。
今回のインタビューでは、寺嶋さんのライフストーリーや、出産後のメディア取材でのあれこれ、介助サービスを使いながらの育児について、お話をお聞きしました。

(文/油田優衣

目次

両親の交渉で、地域の小学校へ。「友達に車いすを押されながら、いっぱい遊んだ」

油田:まず、自己紹介をお願いします。

寺嶋:愛知県名古屋市で「自立生活センター・VISION」の代表をしています、寺嶋千恵子です。愛知県名古屋市出身で、小学校、中学校、高校とすべて地域の学校に通いました。短大に通って、そのあと、「AJU自立の家」の就労部門に就労しました。その1年後ぐらいに、父が心筋梗塞で倒れたのを機に、実家を出て、一人暮らしを始めました。そのあと、もっといろいろ勉強したいと思って、全国介護保障協議会の研修生として、3年間、埼玉を拠点に、CIL小平やCIL所沢などを中心に、いろんなところで勉強させていただきました。その後、名古屋に戻ってきて、AJU車いすセンターで約8年活動しました。その間に子どもを妊娠したり、自分の体力的な面での変化があったりして、それをきっかけに、AJUを離れて、自分で自立生活センターを立ち上げました。

油田:寺嶋さんは地域の小学校に行かれていた、と。入学されたのって、1990年代くらいですか?

寺嶋:たしか1999年に小学校を卒業したから、90年代前半のことですね。

油田:地域の学校に入るうえで、ハードルはありましたか?当時は、養護学校を勧められるケースもさらに多かったと思うんですけど。

寺嶋:そうですね。私の場合は、両親の影響が大きかったと思います。私の障害名がわかったのが2歳のときだったんですが、そのときには私は地域の保育園に通っていました。両親が共働きで、母は3ヶ月で育休から復帰して、私を地域の保育園に預けていたんです。障害がわかったあとも、そのままずっと同じ保育園で過ごしていたので、親はやっぱり、自分の子だけ別の遠い小学校に行かせる意味がわからない、と。友だちや地域の人たちに支えられながら、みんなの輪のなかでやってきた。今まで一緒だったのに、急に分けるっていうはおかしい。障害があるという理由で別なところに行かなくてはいけないっていうのはどうなのか……。そう両親は考えていたのだと思います。それで、両親が教育委員会と交渉して、地域の学校に行けることになったそうです。

油田:小学校での思い出や記憶に残っていることってありますか?

寺嶋:小学校の思い出か……。やっぱりいろんな人が助けてくれたなと思いますね。いじめられた事もあったけど、友達も多かったと思います。友達が迎えに来てくれて遊びに行くことも、しょっちゅうあったし。あと私は学童にも入っていたので、学童の友達もいて、公園で遊んだりもしました。

油田:へえ〜。

寺嶋:ほんとに、みんなでいろいろ遊びましたね。雨のなか、傘もささずに鬼ごっこしたり、けん玉したり。参加が難しい遊びは、審判やカウント係をしたり。サッカーも、足がちょこっと動いたときは、誰かが私の車いすを押して走って、私がちょこっと蹴るみたいなこともやってました。

油田:あ、手動の車いすだったんですね。

寺嶋:そうそう。車いすを押されながら。何回、車いすから落ちたかなっていうぐらい(笑)。

油田:えぇ! 車いすから落ちたんですか?

寺嶋:わーって走っていると、躓いて転ぶじゃないですか。それで、車いすを押されていた私も一緒に転んでいました。1、2段の階段から落ちる、みたいなこともありました(笑)。ベルトをすればいいんですけど、苦しかったりして嫌で、外しちゃっていたんですよね……。

油田:ひぇ!

寺嶋:でも、子どもたちは「ごめーん」とか言って、ちょっとすると、すっかりそのことは忘れて、また走って。

油田:すごい(笑)。

寺嶋:うちの親も、そのことに対して、怒ったり、危ないからってやめさせたりしなかったんですよね。それよりも、「そのことで、友達が(私の車いすを)押せなくなる状況をつくることのほうがいけないって思った」と。学校や外で、ちょっと私がこけちゃって、大変なことになったとしても、「車いすを押していた子が悪かったって思わなくていい」、「大丈夫です、この子が怪我するだけなんで」っていう感じの人でした。

「周りに迷惑かけてしまう」と思い、中学は養護学校を検討。でも、友達のひとことで……

油田:中学校もそのまま地域の学校に上がられて、っていう感じですか?

寺嶋:そうですね。でも、中学校に上がるときは選択肢がありました。

油田:選択肢?

寺嶋:はい。中学校の先生から「養護学校を見に行ってください」って言われたみたいで、私も見学に行った記憶があります。母がそのときに「どうする?」っていう選択肢を私にくれました。当時、私は「周りに迷惑をかけている」っていう気持ちもあって。

油田:周りに?

寺嶋:そうです。移動教室やトイレのたびに、両親、あるいは、両親の知り合いや保育園のときの友だちの親御さんとかがボランティアで来てくれていました。そういう状況に対して、迷惑をかけているなぁと思ったり。それに、友達のなかに急に大人が入ってくるっていうのも、すごく嫌でした。そのおかげで地域の学校で勉強できていたといえばそうなのですが、それがうっとうしいと思うときももちろんありました。
そういう生活のなかで、「養護学校に行けば、周りに迷惑かけなくていいのかな」と思ったんですよね。全部バリアフリーだから、移動教室のときに誰かに来てもらう必要もない。それに、クラスの人数が4人程度に対して、先生が2人いるので、いろいろ頼める。環境的にはありなのかなと思いました。
でも、(小学校で)30人以上の学級で過ごしていたところから、「え、友達4人だけになるの!?って思って、急に友だちがいなくなるっていう環境がさみしいなって思ったんです。でも、養護学校だったら、周りに迷惑かけないと思って、迷っていました。
で、あるとき、そのことを友だちにポロっと言ったんです。そしたら、友だちから「いや、今までとやること変わらないから一緒に通おうよ。一緒の中学校でいいじゃん」みたいなことを言われて。それで、「は!そうか……、そうだよね!」って。たぶん私は、誰かに手伝ってもらうことを迷惑なことって思っていたけれど、友だちはそうではないようでした。誰かが鉛筆を落としたとき、自然と拾うのと同じような感覚だったのかな? それも含めて私っていうふうに思っていたのかなって。

油田:そっか。その友達のひとことがけっこう大きかった。

寺嶋:そうですね。それで地域の中学校にしようと決めて、両親もその選択を尊重してくれました。

油田:もしその友だちとの会話がなければ、また違う道があったかもしれないっていうことですよね。

寺嶋:そうですね、きっと。

油田:二つの選択肢のなかから、地域の中学校に進学された、と。中学校でも、移動の介助やトイレ介助は、自分で用意して、という感じだったんですか?

寺嶋:そうですね。今みたいに制度が整っていたわけではないので、小学校と同様に、両親やボランティアの人が来てくれました。学校側も階段昇降機を導入して、それで移動していました。
中学校は家から歩いて20分ぐらいかかったんですけど、登校は、家から数分のところに待ち合わせをして、そこまで親に連れてってもらって、そこからは友だちが私を押して中学校まで行っていました。

油田:中学校時代の思い出って、ありますか?

寺嶋:修学旅行のときに、選択式のアクティビティがありました。パラグライダーと釣りともう一つから選ぶのですが、どれもいまいちやりたくなかったんですね。それで、パラグライダーを選べば、仲の良い友達と一緒だし、(私はどうせできないだろうから)やらなくていいと思っていたんですが……。後日、私がパラグライダーを選択したことを先生が母に相談したらしく、そのときの母の返事が「パラグライダーに丸を付けているので、やらせてください」だったそうです。そのやり取りがあったので、当日、実際に飛ぶことになってしまい、とても怖かったのを覚えています。今となっては良い思い出ですが(笑)。「どうせ見学になるだろう」と適当な選択をしましたが、やりたいと言ったことに向き合ってくれる大人がいるということがわかった良い経験でした。
あとは、私たちの時代は交換日記が流行っていて、けっこう交換日記をやっていた記憶があります。でも、私がさぼりがちだから、よく止めていました(笑)。

私学の高校へ進学。「バリアフルな環境だったけど、まわりの友達がぜんぶ手伝ってくれた」

油田:中学を卒業するあたりのことを聞いていいですか?

寺嶋:勉強が嫌で、あんまり勉強したくなかったんですけど、高校は行かないといけないなと思って、とりあえず家から近いところの高校に行きました。エレベーターのある学校も受けたんですが、そこは落ちました……。結果、私学の高校に受かりました。バリアフルな学校だったので、受験のときは1階の部屋でテストを受けた記憶があります。
で、これは不思議なつながりなんですけど、その高校の校長先生が、のちのち私が行くことになる「AJU自立の家」の代表と知り合いで、「今度、車いすの子が受験してきたんだけど、どうしたらいいんだ?」みたいなことをAJUの代表に相談していたらしいです。

油田:へぇ〜!

寺嶋:私は知らなかったのですが、結局、その校長の「もう受け入れる!」というひとことで、私の受け入れが決まったみたいです。

油田:すごいつながりですね。

寺嶋:そうなんです。で、私が通った高校は体育会系の女子校でした。スポーツ全般すごく強いんですけど、レスリングが特に強かった学校でした。その学校は、エレベーターもなくて、すごくバリアフルなんですけど、周りにいる友達が全部手伝っていました。高校生にもなると、体育会系の部活の人じゃなくても、女子が3人いれば車いすを持ち上げられるんですよね。階段の昇り降りも、昇降機は使わずに、「せーのー」でババババって上がっちゃうほうが早かったです。そういう人海戦術で、移動教室も簡単にできるようになりました。それに、学校側もそれをダメと言わなかったんです。なかには、危ないからダメって言う学校もあると思うんですけど。そういうのも自己責任の範囲でやらせてくれていたのかなと思います。学校側が階段昇降機を買ってくれていて、先生たちもその使い方を一生懸命練習していたみたいなんですけど、結局みんなが階段を車いすごと抱えて行っちゃうから、あとで先生が「せっかく買ったのに、使わなかったなあ〜」と愚痴っていました(笑)。

油田:いらんかったと(笑)。

寺嶋:うん。でも、そういう先生たち学校側の思いもあって、充実した高校生活を送れたと思います。

油田:トイレ介助は、ボランティアさんの力を借りて?

寺嶋:そうです。トイレも一か所、私の使いやすいように改修してくれました。

油田:高校時代はなにか思い出はありますか?

寺嶋:高校はほんとに楽しくやっていました。部活にも入って、バレーボール部のマネージャーをしていました。そんなに強いチームじゃなかったけど、みんなで毎日練習していました。勉強するより、友だちと遊んだりするのが楽しかったですね。

油田:なんでバレーボール部だったんですか?

寺嶋:友だちが誘ってくれました。今思うと、私を運動部に誘うなんて不思議な子たちだなと思いますけど。「マネージャーだったらできるんじゃない?」「もう先生に聞いといたから。先生いいって言ってたよ」って言われて。「えぇー!?」と思ったけど、「じゃあやります」ってなりました。記憶が曖昧ですが、私もやりたいって言っていたのかも……。
たぶん私が過ごした学生時代は、今で言う「インクルーシブ」という言葉が当てはまるんでしょうね。学生時代の私は、自分が重度障害だって気づいてなかったですから(笑)。

油田:それを意識する機会もないくらいだったと。

寺嶋:そうなんですよ。学校内はもちろんですが、私を抱えて車いすを持って階段を昇り降りするとか、段差を超えるとかができたので、行けないところがなかったんです。学校終わりにプリクラ撮りに行ったり、休日にプリクラ撮りに行ったり……、プリクラばかり撮っていました(笑)。

油田:あはは(笑)、いいですね。

寺嶋:私の時代は、学校の支援員とかもいなかったから、友達の部分的なサポートに助けられました。年齢を重ねていくにつれて、友達がどんどん自主的に動けるようになっていって、子どもだけでも解決できることが増えて楽しかったです。

アメリカにホームステイへ。乗馬体験でのある出来事をきっかけに「もっと自分の気持ちを言っていいんだなって思えた」

寺嶋:高校1年生の夏休みにアメリカにホームステイに3週間行きました。このあいだ母から聞いたのですが、どうやら私、高校の入学説明会の日、ホームステイ紹介のときに、「私はこれに行かなかったら一生後悔する」って言ったらしいです。ぜんぜん覚えてないんですけどね(笑)。ホームステイは、母と一緒に行くのがむこうの条件だったので、母と行きました。

油田:ちなみにアメリカのどこですか?

寺嶋:ネブラスカ州っていうところです。

油田:ホームステイはどうでした?

寺嶋:もうすごく楽しかったですね。日本に帰ってきたときに、すごい日本が窮屈だなって感じました。

油田:それは具体的にどういう?

寺嶋:たった3週間のホームステイだし、ほんと遊びに行ったようなものなので、そういう解放感もあったのかなとは思いますけど、ホームステイの間、人の目線がぜんぜん気にならなかったんです。

油田:ほう?

寺嶋:日本にいるときって、「じろじろ見られて嫌だな」っていう気持ちにしかならなかったんです。でも、アメリカではそういう感じがしなくて。

油田:そうなんですね。

寺嶋:当時、ADA法(障害のあるアメリカ人法)が始まって10年以上は経っていたと思うんですよね。ADA法のような考え方が広まっていたからなのか、わからないですけど……。ホームステイ中に、一緒に行った30人くらいのメンバーみんなで乗馬を体験するという機会があったのですが、自分にはやれないだろうと思って、遠目に見ていたんです。迷惑がかかるからとかいろいろ考えて。そしたら、係の人が私のところに来て、「やるか、やらないか」みたいなことを聞かれたんですね。私は一生懸命、「やりたいけど、みんな大変になると思うから……」と伝えて、「うーん……」みたいな、すごく曖昧な返事をしたんですよ。すると、その人は、「やりたいか、やりたくないか、どっち?」「それをどうするか考えるのが、ぼくたちの仕事だから」みたいなことを言われたんですよね。ちょっと怒った感じで(笑)。で、私は、そのときにすごい腑に落ちたっていうか。「あ、もっと自分の気持ちを言っていいんだな」って思えたんですよね。

油田:それまでは、やりたくても、周りの人の負担とかを考えて、我慢していた面があったということですか?

寺嶋:うんうん。そうです。その通りですね。先回りして考えて、「私がこれをやりたいと言うと、こういうことをやらなきゃいけなくなって、親が大変になるからやめよう。みんなが大変になるからやめよう」と、諦めていたこともあったんですよね。やらなくていいかと思って黙っていたことも、「あ、なんか、もっと言ってよかったのかな」って思えました。

油田:そっか……。「やりたいのか、やりたくないのか、どっち?」って聞かれる場面、聞いてくれる場面って、なかなかないですよね。

寺嶋:ないです。最初から「やれない」って周りが捉えていることのほうが多かったから。そのような状況に対して、両親が一生懸命「こうしたらできるんじゃないですか?」って交渉してきたことのほうがテーマパークとかでも多かったです。……私、すごいそれが、なんか、しんどかったんですよね。

油田:しんどかった?

寺嶋:(両親が交渉して)結局やれるようにしてくれたからいいんですけど、交渉に30分も1時間もかかるんですよ。それがね、すごく……。楽しかった思い出にはなるけど、交渉している間の時間は、「私がこうじゃなければな」って思う気持ちもあって。なんか、それがね、すごくきつかったなって。でも、アメリカではそうじゃなくていいんだと思えた。それがすごく大きかったですかね。「あ、もっと言っていいんだ」って。

油田:ちなみに、その乗馬体験は、結局どうなったんですか?

寺嶋:乗りました。歩くまではしなかったけど。母が先に馬に乗って、そこに私が抱きかかえられて。乗ること自体はできたんですよね。

油田:アメリカでの乗馬体験での出来事は、寺嶋さんにとって、自分の気持ちをもっとオープンにしていいんだって思えるひとつのきっかけだったんですね。

寺嶋:そう思いますね。「あ、こんなに我慢していたんだな」って。

油田:そっかー。それまではあんまり、そういう我慢しているみたいなことも――

寺嶋:今思えばいっぱいあったと思うのですが、当時は無自覚だったと思います。

油田:そうですよねぇ。やっぱり、私たちって、自分の「やりたいか、やりたくないか」っていう気持ちだけでは動けないことが多いじゃないですか。

寺嶋:うんうん。

油田:だから、自分のなかの「やりたいかどうか」の声を聞くって、難しいなあと思って。

寺嶋:そうなんです。「大変」とか「迷惑がかかる」が勝っちゃうんですよね。

油田:うんうん。「自分も大変だし、周りも大変だし」みたいにいろいろ考えちゃって、足が動かないっていうか、進まない。

寺嶋:そうなんです。一人で完結できることだったら、やりたいと思っていると思うんですけど、一人で完結できないから、余計に「大変」が勝っちゃうんですよね。周りはそこまで思っていなかったかもしれないんですけどね。

油田:うんうん。自分がこんなに我慢してたんだって気づける機会って、すごい大事ですよね。寺嶋さんは、それがアメリカでのホームステイでだった。

寺嶋:ほんとにそうだったと思います。とはいえ、今思えば、うちの両親のその行動力って、アメリカで出会った乗馬体験の人たちみたいな動きだったような気がするんですよね。「何でもやらせよう」っていう考え方の人たちだったんだなって。だから、テーマパークに行って、何分かかっても交渉して、乗れるようにしたりとか。「こうやればできます」「ああやればできます」みたいなことをずっとしていたんでしょうね。結果、大変ではあるけどすごく楽しめました。アメリカに行ったときに、その言葉がスッと入ったのは、そういうこともあったかなと思います。

プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型・「自立生活センター・VISION」代表 寺嶋千恵子

1987年、愛知県名古屋市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。2008年に自立生活を始める。AJU車いすセンターで活動したのち、自身のCIL「自立生活センター・VISION」を設立。2018年に子どもを出産。

文/油田優衣

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