あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

サポートしてくれる人を見つけ、広がった視野。自分で切り拓く未来。

MAI KATO

文/山﨑彩恵 : 写真/嶋田拓郎

脳性麻痺・板橋区在住|加藤舞(かとうまい)

1996年生まれ。社会福祉士。板橋区在住。脳性麻痺による、四肢体幹機能障害、痙直型。日常生活のほぼ全てに介助を要する。小中高と特別支援学校に通い、ルーテル学院大学へ進学。2018年3月卒業。現在は、家族と同居中。将来は一人暮らしを考えている。2018年11月から、ヘルパー利用を開始。2019年4月に、現在の居宅介護と重度訪問介護の利用体制に落ち着く。 2019年1月から、「ユニラボねりま」で地域活動中。

【イントロダクション】

 今回の主人公は加藤舞さん。わをん代表の天畠とは、ルーテル学院大学の卒業生という共通点があります。天畠と事務局スタッフの山﨑が、加藤さんの「これまで」と「これから」の生活に迫りました。
 わをん事務局からの連絡に対し、いつも丁寧なお返事をくれた加藤さん。インタビューの際にも、こちらに気遣いながら、自分の気持ちをわかりやすくお話してくれました。相手の気持ちをよく考えてくれる人だと、しみじみ感じました。
 今回のインタビューを通して、その理由が少しだけわかった気がします。加藤さん自身が多くの困難の中で、悩み、自己の痛みと向き合いながら、それを一つ一つ乗り越えてきたこと。それが、加藤さんの他者に対する優しさの源となっているのだと思います。
 ご自宅近くの緑地を一緒に歩いたとき、その風景に馴染むような自然な笑顔と、時折見せる凛とした強さのある眼差しが印象的でした。まさに加藤さんらしさであるように感じ、シャッターを切りました。
 一人暮らしか、就職か。社会活動の基盤を作りたいと話す彼女を今後も支援していきたい。

(文/山﨑彩恵

目次

大学への強い思い。原動力は。

加藤:小さい頃は八王子市に住んでいて、小学校から高校まで筑波大附属桐が丘特別支援学校に通っていました。そこに通うために今の板橋のお家に引っ越してきた感じですね。

天畠:特別支援学校の東大ですね、そこは。

加藤:私は小学校に入る前に足の手術で入院していたので、そこから面接や試験を受けに行った記憶がありますね。病院から両親と一緒に。入学試験がどういった感じだったかは小さかったので全然覚えてないんですよ。小学校に入って、母に送ってもらって別れるときに、慣れるまですごく大泣きしていたことは、結構記憶に残ってるかな。別れるのが悲しくて。

――入学前まではお母さんと常に一緒だったんですか?

加藤:入院しているときは、八王子から、病院まで、両親が毎週金曜日の夕方に迎えに来て、土日を家で過ごして。それ以外は家族と離れて、一人で入院していました。

――加藤さんは、特別支援学校を卒業後、ルーテル学院大学に入られたと伺いましたが、どういう経緯で大学受験をされたんですか?

加藤:当時の桐が丘は、学習コースが3つに分かれていて、私は真ん中のコースだったんですね。それで、中学の先生との面談時に「高校卒業した後、どうするんですか?生活介護とか作業所にいかれる方もいますけど、どう考えてますか?」と聞かれて。私は、「通所施設などのほかにも、大学もあるんだよね、自分は大学に行ってみたいなぁ」と、そのときにぼやーんと思って。別にそのときは何を学びたいとか、そういうものはなくて、単に大学への憧れみたいなものが大きかったように思います。それを先生に言ったら「いや、舞さんのいるコースからではちょっと難しいと思います」みたいなことを言われて、「ああそうなんだぁ」と。じゃあ、私には先生が言っていた道しかないのか色々考えたけれど、やっぱり、私は通所施設などに行くより大学に行きたいという思いがずっとあって。

高校に入ったときに、また面談があって、「進路はどういうふうに考えてますか?」って。担任の先生ももちろん変わるじゃないですか、中学のときと。なので、もう一回「大学にいきたいんですけど、中学の先生は私のコースからだと難しいという感じで。高校も同じコースだし、やっぱり難しいですか?」と言ったら、「いや、舞さんの頑張り次第でいけるかもしれませんよ!これからの頑張り次第で。どこの大学とかは、まだなんとも言えないけど、大学自体には行けるかもしれませんよ」と言ってくださって。「よっしゃ、頑張ろう!頑張ったら行けるかもしれないぞ」と、そこで初めて気持ちに火が付きました。

――ルーテルを選んだのはどうしてですか?

加藤:ルーテルを選んだきっかけは、私が大学に行きたいと思ってるのを知った母が、「どういうことが学びたいの?」って。私は「やっぱり自分が障害を持っているから、同じような障害を持っている方の役に立てたらいいなぁ。そのための勉強をしたいから、福祉系が良いのかなと思う」と言いました。

それである日、母がルーテル学院大学のパンフレットを持ってきて、「ここすごい少人数だし、障害のある学生さんも結構受け入れてるみたいだよ?どう?興味ある?」という話になりました。「あなたがそういうことを学びたいんだったら、ちょっとオープンキャンパス今度行ってみる?」って。自分でもネットで調べて「うわ、オープンキャンパス行ってみようかなぁ、なんか雰囲気も素敵なところだぞ」と興味を持ちだしました。それで、高校2年生?1年生くらいかな、初めてオープンキャンパスに行って、それ以降も足しげく通うようになって「あ、この大学は先生たちもあったかいし、学生さんもみんなとってもフレンドリーで距離も近いし、仲いいなぁ。この大学だったら楽しい大学生活を送れそうだなぁ」と。それで、願書を出そうと決めました。

――高校の先生が転機となるような言葉をかけてくれたんですね。

加藤:「舞さんの頑張り次第でいけますよ」というのがなかったらきっと、私は大学には、行けないというか難しいのかなぁと思って、今のような道は歩めてなかったかもしれないです。ほんとに高校の先生の一言が大きかった感じですね。

天畠:学校のクラスは持ち上がりだったんですか?

加藤:中高は、クラスはクラスであるんですよね。それで、学習のコースがまた別にあって。私は中学に上がるときの試験の結果が、真ん中の学習コースで、高校のときも試験をやって、また同じコースだったんですね。

――学習のコース分けがはっきりしている中、友人関係はいかがでしたか?

加藤:上のコースの子たちに対しては、自分の中で正直、対抗心もあったと思います。はっきりと学習コースは分けられているけど、「そんなにできないわけじゃない」みたいなのもあったり(笑)。その子たちに、負けないように頑張りたいなという気持ちもあったので、その対抗心をバネにやっていた記憶もありますね。特に中学の時は周囲への対抗心がすごく強かったです。高校になったら、焦点が大学に定まってきて「絶対に大学に行くぞ」という思いがモチベーションになっていきましたね。自分自身との闘いというか。

――周りの人に見下されないようにという思いも、あったんですね。

加藤:当時はそんな風に感じていたんでしょうね。今思うと、誰も私を見下していたわけじゃなかったと思うし、大学は難しいと言った中学の先生も、別に悪気はなかったと思います。ただ、先生なりに私に合った進路をアドバイスしただけだったのだと思います。

――上のコースの子たちには、先生も進学が可能だよと言っていたんですか?

加藤:わかりませんが、中学の時も、例えば私が上のコースの子だったとして、「大学に行きたいんです」と言っても「ああ、じゃあ頑張りましょうね」みたいな感じにはなったかもしれません。あくまでも私の予測ですが。別に「真ん中のコースからだと難しい」という絶対的な根拠はなかったと思います。真ん中のコースだと、一つ一つの単元をじっくりやるので、そういったことから受験は難しいと思ったのかもしれないし、当時、学校として、真ん中のコースからの大学進学の前例があるかないかもあったのかもしれませんね。

大学合格。友人関係が広がったきっかけ。

――ルーテルの受験はどういう方式で受けられたんですか?

加藤:私はAO入試ですね。

――AO入試ではどういったことを審査されたんですか?

加藤:ルーテルに入ったのは2014年度かな。AO入試は、2個レポートを書いて期日までに提出をして、あとは面接もありました。書いたレポートと、面接の総合評価。たぶん内申も評価に入るのかな。それで、合格通知の来た後に本を読んで考察などを書いて、期日までに出してくださいという入学前の課題がありました。本のリストと本の概要が書かれた紙の中から自分の興味のあるものを選んで書きました。確か、私はハンセン病はどういう経緯でどういう扱いをされてきたかという本を選んだのを記憶しています。高校まであんまり読んでなかったような、やっぱり一歩踏み込んだ、これから大学に入るにあたって、知っておいたほうがいいことという感じで。大学の勉強はこういうことを学んでいって深めていくんだ、ということを知るための入学前の課題だったんだと思います。
そのとき以来その本は読み返してないのですが、今読み返したら、いろんなことを学んだ後だから、また違った理解が得られるかもしれませんね。

――ルーテル学院大学で福祉を学ぶ入り口として、ハンセン病の本と出会えたのですね。大学ではサークルも入られてたんですか?

加藤:サークルは1~2年目は余裕がなくて入ってなかったんですよね。それで3年生くらいのときに点訳サークルに入りました。そのサークルは、目の不自由な方のために文章を点字にするサークルで、「面白そうだから私もいーれて」という感じで入りました。点字に興味があったのもあって。でも、途中から実習が始まり、4年生のときは社会福祉士の国家試験の勉強が入ってきたので、なかなかサークルには顔を出せなかったですね。一応メンバーにはおいてもらって、ときどき息抜きに顔を出すっていう感じでしたね。

天畠:通学はどうしていたんですか?

加藤:通学については、実は友人関係とも繋がってくるんです。入学するときに懸念したことが一つありまして。私の介助の面でいう、友達にストレートにお願いできないこと、それはね、お手洗いなんですよね、やっぱり。私はお手洗いが一人だと難しいので、その介助をどうしようか入学前にずっと考えていて。結局、母に1年の前期の途中までトイレのためだけに1日中、大学のホールの机と椅子のあるところで待機をしてもらっていました。だから、通学も母としていました。
友人関係ができるまでは、ちょっとした休み時間の細かいことも、母がいないと少し不安かなぁと思って。授業の前に母のところへ行って、「次はこの授業だからこれとこれを出して」と言って準備をしておいてもらうという対処法をしていて。授業中ちょっと困ったことは隣に座った友達に頼むようにはしてたんですけど。
入学して間もないころは、特別支援学校の、多くても9人しかいない世界でずっとやってきたので、交友関係をうまく築けるかどうかがすごく心配だったんですね。でも、入学して少し経つと、お昼ご飯の時や休み時間にいつも母と一緒にいると、他の友達が関わりにくいかなと思うようになったんです。それと同時に、母がいない授業中でも、みんないろいろ助けてくれるぞということにも段々と気づいたんですね。友達も、初めて会った子でも、困ったことを伝えれば、ちゃんと手を貸してくれるし、みんなフレンドリーだから、この学校に入ったんだよなと思い返して。

それで、1年前期のある日、母が体調を崩して、「ごめん、今日ちょっと私は大学ついていけないわ、一人で行ってくれる?」と言われて。だから「あ、大丈夫だよ、みんなきっと助けてくれるよ」と、私は一人だけで大学に行ったんですね。一人で行ってみると、やっぱり思った通りで、みんなフレンドリーにちゃんと助けてくれて。助けるというか手伝ってくれて、母がいないほうが休み時間に教室を移動している間やお昼も友達と話せるぞと実感しました。このほうが楽しいじゃん!!と(笑)
その日がきっかけで、その日以降は、家から大学まで電動車いすで片道2時間、電車とバスを乗り継いで、授業を受けて家に帰るまで、一人で通うようになりましたね。懸念していたトイレについては、やむを得ず、オムツをすることで対応していました。

――親がいると築けない関係性はありますよね。

 

次回(第2回)は、社会福祉士の資格取得、そしてその後のある先輩との出会いについてお伺いします!

プロフィール

脳性麻痺・板橋区在住|加藤舞(かとうまい)

1996年生まれ。社会福祉士。板橋区在住。脳性麻痺による、四肢体幹機能障害、痙直型。日常生活のほぼ全てに介助を要する。小中高と特別支援学校に通い、ルーテル学院大学へ進学。2018年3月卒業。現在は、家族と同居中。将来は一人暮らしを考えている。2018年11月から、ヘルパー利用を開始。2019年4月に、現在の居宅介護と重度訪問介護の利用体制に落ち着く。 2019年1月から、「ユニラボねりま」で地域活動中。趣味は、ご当地ベアのコレクション、J-Pop音楽を聴くこと。ジャニーズ(特に嵐、King & Prince)、Official髭男dism、SEKAI NO OWARI、三浦大知、星野源、米津玄師、あいみょん等々を聴く。コロナが落ち着いたら、一緒にライブに行ってくれる人を探し中。今までライブに行ったのは、高校生の時で、EXILEのライブに1度だけ。ディズニーも大好き。

文/山﨑彩恵

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