あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載2回目

自分の人生を諦めないために事業所をつくる

Hiroki Okabe

文/嶋田拓郎 : 写真/嶋田拓郎

ALS当事者・NPO法人境を越えて 理事長|岡部宏生(おかべひろき)

1958年東京都に生まれる。学生時代は乗馬に明け暮れる。中央大学を卒業後は建設会社に新卒で就職し、42歳で建築不動産事業コンサルタント会社を設立。会社が順調に成長していた矢先にALSを発症。49歳の時、在宅療養を開始し、気管切開・人工呼吸器装着する。その後訪問介護事業所ALサポート生成を設立。日本ALS協会理事、副会長、会長を歴任。2018年には「NPO法人境を越えて」を設立。理事長として日々介助者育成支援にあたっている。

目次

自分と仲間の生活の質を高めるため、自分で事業所を設立

――前回までは、岡部さんが気管切開するまでのお話しを伺いました。その後のお話しをお伺いしたいと思います。

岡部:はい。私は気管切開によって生き延びたわけですが、自治体の担当者は本当に驚いていました。重度訪問介護の時間数が給付されなければ、呼吸器をつけないと言い続けてきたことが、本気だったとやっと分かったのです。このような命がけの交渉は壮絶に聞こえるかもしれません。しかし本人は、そうでもなかったのです。何しろ本気で、「死んだら死んだで良い」と思っていたからです。

――強い覚悟ですね。

岡部:ただ、呼吸器を着けたものの、在宅療養のメドはまだ立っていませんでした。ヘルパーさんも2人の主力がいるとは言え、まだまだ足りません。そのため私は、3つの事業所のヘルパーと訪問看護師、保健所の看護師、そして有償ボランティアを組み合わせて24時間の介護体制を作りました。しかし、それは毎日シフトの調整に追われる日々の始まりでした。生きるために介護を受けているのではなくて、介護を受けるために生きているような気がしたものです。

――目的と手段が逆転してしまったと。

岡部:そうです。本当に大変な生活でした。その経験から2011年になって、自分で当事者事業所(注1)をつくりました。自分の介護体制を築くだけでなく、同じ病気仲間に少しでも介助者を派遣したい、ALSなどの介助者を少しでも増やしたい、質を高めたいと思ってのことです。

「もっと時間数の支給を」と区長へ手紙を書く

――当事者事業所を設立したことで、スムーズな自立生活に移行できましたか?

岡部:引き続き介助者不足で、重度訪問介護の支給時間も550時間では毎月58万円くらいの自己負担が発生していました。自治体の担当責任者からは「これ以上は、爪で岩を削るように少しずつ増やす方向で頑張っていくしかない」と言われました。そんな時ある人から、区長に手紙を書きなさいとアドバイスをもらいました。以下がその内容です。

 

〇〇区長殿

謹啓 早春の候、時下ますますご清祥の段お慶び申し上げます。

日頃より高齢者や我々障害者等の福祉に深いご理解を賜り、厚くお礼申し上げます。

 

私は2006年にALS(筋萎縮性側索硬化症)という進行性の神経難病に罹患、現在人工呼吸器を装着し在宅で療養生活を送っています。

この病気の過酷なところは病状だけではなく、生死を自分で選ばなければならないことです。

気管切開をして、人工呼吸器をつけて全身不随となって生きるか、それとも着けずに死んでいくか。

 

患者の7割が呼吸器を着けずに死んでいきます。

 

病状の恐怖以外にも、24時間の介護を必要とするため、

家族の負担、経済的事情から生きることを諦める患者も多く、我々患者はこれを「自死」と呼びます。

 

私も長く悩んでおりましたが、もっと生きたい、生きてこの過酷な病気の患者・家族の少しでも役立ちたい、との思いに到りました。

しかし介護の人手がないことと経済的理由から行政のご支援なくしては生きていくことは叶わず、障害福祉課にお願いし、特段のご配慮を頂いた結果、

私は今こうして生きております。

全身不随で気管切開しているため意思の疎通も特殊な方法に限られますが、日本ALS協会東京都支部の運営委員として同病の患者・家族の療養支援活動にも微力ながら携わっております。

衷心より深謝申し上げる次第です。

 

しかしながら現在頂いている重度訪問介護559時間ではどうしても生活が成り立たず、329日障害福祉課に660時間の給付を申請致しました。

ご担当からは、配偶者がいる場合現在の給付以上無理であると説明を受けておりますが、別居中の妻は私の気管切開の手術後鬱病で通院加療中であり、

私の介護など到底不可能な状態で、無理をすれば二人の命が危険に晒されます。

どうか障害者自立支援法の趣旨に則り、給付の必要性をご検討賜り申請をお認め頂けますよう切にお願い申し上げます。

 

また、ご多忙を極める激務であると承知しておりますが、一度拝謁の機会を頂き、直接私の状態をご覧になり声なき声をお聞き届け頂けますよう何卒お願い申し上げます。

謹白

 

この手紙の結果、支給時間を大幅に増やしてもらえたのです。私の療養環境はようやく整ってきたと言えるようになりました。

モザイク模様の1週間

――こちらは岡部さんの1週間の予定表ですね。まさにモザイク模様!

 岡部:このケア予定表は、基本的には数年間変わっていません。患者によって差はありますが、呼吸器をつけた患者のだいたい平均的なものだと思います。気管切開をして間もなくは、この予定表のモザイク模様がもっと入り組んでいて、いったいどれだけの事業所と人がかかわれば足りるのか、と気が遠くなるものでした。

――ケアに入る事業所が多ければ多いほど、当事者の生活は落ち着かないものになりそうですね。

岡部:そう思います。ただ、制度を使いこなすことができれば、生活は安定します。例えば、月曜から見てほしいです。まず訪問看護は医療保険で来てもらっています。訪問入浴は、介護保険を使っています。ヘルパーさんは毎日24時間入っていますが、これは介護保険と障害者総合支援法に基づく重度訪問介護を使っています。訪問マッサージは東京都の重度の障害者に対する医療費の補助で来てもらっています。木曜の訪問看護は保健所からの派遣です。それは東京都独自の在宅難病患者に対する医療などの補助事業になります。訪問リハビリは、医療保険でも介護保険でも来てもらうことができます。こうして見ると、障がいを伴う難病患者が使える公的支援は医療保険、介護保険、障害者総合支援法、さらに自治体独自の制度であることがわかります。

辞めてほしくないから私は介助者を怒れなかった

――制度や介助者面などをお伺いすると、現在の岡部さんは充実しているように聞こえます。

岡部:苦労していますよ。私がとくに苦労しているのは介助者との関係です。私はよく人から「岡部さんは介助者に恵まれていますね」とか、「とても仲が良くてうらやましい」と言われます。たしかにそうですが、私なりに相当な努力と気遣いをしています。それは介助者も同じだと思います。

――具体的にいうとどのような点ですか。

岡部:ALSの介助は、身体的介護に加えて医療的ケアと特殊なコミュニケーション支援などが必要なので難しいんです。私のケアに入っている介助者はそれに加えて、事業所社員として他の患者のケアにも入っており、私と上司・部下の関係もあるので本当に大変です。

――岡部さんは、利用者でもあり、雇用主でもあるんですね。

岡部:その板挟みのようなことは感じます。ただ介助者への注意の仕方については気を付けています。私は、発病前はとても仕事に厳しかったのです。かつての仕事仲間が訪ねてきた時に、「岡部さんは本当に自分にも周りにも厳しかったですね。よくあれだけ部下に厳しくできましたね」と言われました。私の介助に入っている人がそれを聞いて、驚いていました。現在の私は随分怒ることができるようになりましたが、それでも発症前に比べれば、怒らなくなりましたから。

――なぜ変わったのでしょうか?

岡部:それはどうしてなのかを考えた時に、次のことに思い当たりました。健康だった時は仕事をしっかり伝えることと、相手のためにと思って厳しくしていました。自分が思っていることを伝えることが大事だと思っていました。相手が自分をどう思うかより、まず伝えることを優先するというスタンスでした。では、どうして今は怒れないかと言うと、まず自分の介助を辞めてほしくないと考えるからです。介助者の確保が難しくて、呼吸器をつけて生きるのを諦めようかと思ったくらいに苦労したので、もし怒って辞められたらどうしようかといつも心配しているのです。

――辞められて欲しくないからと。

岡部:もう1つの理由は、怒ってその場の雰囲気が悪くなることを恐れているのです。気まずくなった相手に自分のケアを頼むのは気が引けてしまうのですが、そういうことは私だけではないと思います。こうして考えると以前の自分とは随分違ってしまいました。

――お互いの感情が、良くも悪くもケアの質に影響してしまうということなんですね。

 

連載3回目の記事はコチラ。

注釈

注1)当事者事業所とは、重度訪問介護を利用する障がい当事者が運営する介助者派遣事業所を指す。

注2)本記事は、岡部宏生「生きることの困難さ、生きることの難しさから逃げない」生活書院『支援』vol.10, 2020年、東大リアルゼミ発表資料「介護者とともに生きる」20205月、インタビューデータをもとに構成しています。

プロフィール

ALS患者当事者・NPO法人境を越えて 理事長|岡部宏生(おかべひろき)

1958年東京都に生まれる。学生時代は乗馬に明け暮れる。中央大学を卒業後は建設会社に新卒で就職し、42歳で建築不動産事業コンサルタント会社を設立。会社が順調に成長していた矢先にALSを発症。49歳の時、在宅療養を開始し、気管切開・人工呼吸器装着する。その後訪問介護事業所ALサポート生成を設立。日本ALS協会理事、副会長、会長を歴任。2018年には「NPO法人境を越えて」を設立。理事長として日々介助者育成支援にあたっている。好きなことは、音楽を聴くこと。

文/嶋田拓郎

この記事をシェアする