連載2回目
「介助者とともに地域で暮らす―地域でどのように、介助者を集め、育て、マネジメントしている?」イベントレポート②:さりげない日常を実現するために――「弱さ」に開かれた障害者運動を目指して――
2022年01月28日公開
文/油田優衣 : 写真/
【イントロダクション】
重度身体障害者が介助を受けながら自立生活をするには、信頼できる介助者の存在が必要不可欠です。しかし、国内では、自立生活を支える重度訪問介護制度が社会的に十分に周知されていないこと、介助者不足という厳しい現状があり、当事者の自立生活の実現を阻害しています。
2021年3月13日のイベント「介助者とともに地域で暮らす―地域でどのように、介助者を集め、育て、マネジメントしている?」では、介助者不足の問題や介助者との関係に向き合い、活動されているお2人の当事者をゲストに招きお話を伺いました。
前半では、株式会社ALS Relation(エーエルエス リレイション)代表取締役の村下秀則さんと、自立生活センターてくてく代表の川崎良太さんの講演がありました。
川﨑さんからは、自立生活運動のなかで推奨されてきた、障害者が「主体」となり、介助との関係性をコントロールするという理想が行きすぎてしまうことで、障害当事者に「我慢」を強いている状況があるという状況が語られました。誰もが自立生活を送れるようになるために、これからの自立生活運動がどうあるべきかを考えるにあたって示唆に富むお話ばかりでした。
〈講演〉川﨑良太さん:苦楽の自立生活からみえてきたこと
自己紹介
みなさん、こんにちは。本日は「自立ってなんだろう?」ということで、「苦楽の自立生活からみえてきたこと」というタイトルでお話しさせていただきたいと思います。
僕は今、鹿児島にあります「自立生活センターてくてく」で代表をしております。巷では「自立生活運動界の貴公子」と呼ばれているそうで、この呼ばれ方は自分のなかではけっこう気に入っています(笑)。1987年に鹿児島で生まれて、間もなく脊髄性筋萎縮症という障害の診断を受けます。電動車いすに乗って生活をしています。夜間のみ、呼吸を助けるために人工呼吸器をつけて生活をしています。自力では食事・入浴・排泄・寝返り等、生活全般のことができません。
小学校は、「母親の付き添い」を条件に普通学校に入学します。この頃からすでに手動車いすを利用していました。地元の中学校に進学し、その後、高校を目指すのですが、バリアフリーの問題や学力不足で進学できず、あと、「親元を離れたいなあ」と思っていたこともあいまって特別支援学校に行き、旧国立療養所に入院することにしました。
ここで、「正真正銘、障害者としての自覚を得る」と書いたんですが、どういったことかと申しますと、私は中学時代までは、周りにいる友だちはみんな健常者で、また普通に実家で暮らしていたので、自分が障害者だと思ったことがなかったんですね。周りに障害を持った人も少なかったですし、自分はちょっと体は動かないけど、特に何も問題はなく生きていけるんだろうと思っていたんです。しかし、旧国立療養所に入院したことによって、いろいろな気づきというか、障害者としての自覚を得ました。それは、夜寝る時間や食事の時間が決められていること、外出が自由にできないこと等々ありますが、一番やっぱりショックだったのは、トイレの時間も制限されることですね。「トイレをしたいです」と言ったときに、「さっきもしたでしょ」って言われるなんて思ってもみなくて。そういう意味で、「あー、自分は障害者としてほんとに一生生きていくんだな」と、この高校生の頃に思いました。高校卒業後は、一般就職をするんですが、この頃はまだ「税金を自分で納めて働いて過ごすことが一番、人として理想だろう」という思いがあったので、高齢者施設で働いていました。ですが、体が持たなくなって、自立生活をスタートするというかたちになります。
この講演会のタイトルは「自立生活、介助者とともに生きる」ということなんですが、自立生活とは、「自己選択、自己決定、自己責任という理念を持って一人の人間として主体性を持って生活すること」を言っています。僕は重度訪問介護を利用しながら、鹿児島市内のマンションに住んでいます。支給量は620時間、1日にすると20時間で生活をしています。重度訪問介護は、障害支援区分4以上で重度と認められるものが使えるサービスで、日常生活の介助全般と外出外泊にも使えます。今日は詳しく触れませんが、障害者運動の力でできた制度です。この制度の何がいいかと言うと、寝たい時に寝れる、先ほどの村下さんの講演のたこ焼きの話もすごく感動しましたけど、食べたい時に食べれる、あったかいものを食べれる、起きたい時に起きる、そういったことができることです。
そして一昨年の12月に結婚をして、家族になりました。妻には子どもがいましたので、結婚して養子縁組を結んで、今3人で暮らしています。3人で暮らしながら、僕の介助はすべて介助者にお願いをする、そういった生活をしています。
自立生活を始めて12年経ちますが、色々なところに行きました。日本は23都道府県行って、海外は5か国まわっています。はじめは東京に行くのもビビって、怖がりながら行きましたけども、今では慣れてしまって、隣町に行くような感覚で行くことができます。それもこれも介助者がいてくれたからできたことですね。初めて東京に行く時は緊張しましたけど、「あ、自分も介助者がいれば東京に行くことができるんだな」と、すごく自信になったことを今も覚えています。
自立生活に必要な考え方とは?――障害者が「人生の主体者である」と認められる社会を実現するために
では、「自立の考え方」をあらためてみなさんと共有したいと思います。これは全国自立センター協議会のホームページ(http://www.j-il.jp/about-rinen)から引用しています。
自分で立つこと?
自分で洋服を着たりトイレができること?
それとも、自分で自分のご飯を食べるお金を稼ぐこと??
誰にも頼らず、1人で生きていくこと???
いいえ、車イスを利用して移動したって、介助者をつかって服を着替えてもいいんです。年金で生活するのも、必要なサービスを受給して地域で生活することも、ちゃんとした権利です。
1人で生きるなんて、そもそも無理な話です。朝食べたパンの原材料の小麦は誰かがつくったものですし、電気をつかってパソコンがつかえるのは電力会社があるからです。生まれたときから、誰でも自分以外の人とかかわりながら生きています。
(全国自立センター協議会HP「自立(生活)ってなに?」より)
これがまさしく、私たちがしている自立生活の考え方です。一般的な「自立」というと、「自分で身の回りのことがすべてできて、経済的に自立している」ことが「自立」ですよね。新しく入ってくれた介助者に「自立って何ですか?」と質問すると、概ねその返答が返ってきます。その考え方でいくと、重度障害者は自立ができないことになってしまうんですね。じゃあそういった人は自立ができないのかというと、違うんです。考えかたをちょっと変えるだけで、できないことを人にやってもらうこと、年金等、生活保護等を活用して、そういったものを使いながら生活することが権利なんですね。
社会インフラという観点からも説明してみます。私たちは、コンビニに寄って100円でおにぎりをパッと買える。おいしいのが食べられる。そこで私たちは、「ごはんを炊いて、握って、海苔を巻いて」という工程を100円でお願いしているんですね。ほかにも、道路や新幹線があるおかげで、速く移動できる。すべて社会インフラというのは、それがあることによって時間を節約したり、効率よく生活できる。私たち障害者はそれにプラスアルファ、介助を使って生活がより良くなるようにしている、という考え方で生活をしています。
引き続き、全国自立センター協議会のホームページの「私たちが考える自立(生活)とは…」を読みます。
1人の人間として、その存在を認められることです。
それは、ばかにされたり、いないものとして扱われるのでもなければ、守るべき者やヒーローとされることでもありません。自分の人生においてあらゆる事柄を選択し、自分の人生をじぶんなりにいきていくことです。
自立生活とは、どんなに重度の障害があっても、その人生において自ら決定することを最大限尊重されることです。選択をするためには選択肢の良い点・悪い点を知らされ、あるていど経験も必要です。一部を選択したり全てを選択しないという選択もあります。
自立生活とは、危険を冒す権利と決定したことに責任を負える人生の主体者であることを周りの人たちが認めること。
(全国自立センター協議会HP「私たちが考える自立(生活)とは…」より)
「自立生活とは、危険を冒す権利と決定したことに責任を負える人生の主体者であることを周りの人たちが認めること」――ここ、大事ですね。この考え方がないと、障害者の自立は難しいと思います。先ほど権利の話をしましたが、僕がいくら「権利だから僕の介助をして、僕の言う通りにしてくれ」と言っても、周りの人が「この人の人生は、この人が考えて責任を負える主体者だから、この人の介助をする」ということを認めてくれないと、生きていけないんです。たとえば、僕は自立生活センターてくてくのなかにいて、事務所のなかにいたら代表として扱ってくれる人が沢山います。「扱う」というのは「仕事を対等にやれる」ということです。ですが、僕がいざ一人でショッピングセンターとかそういうところに行ったら、まだまだそういうふうに、自分で物事が考えられるような人ではないと見られてしまう側面が社会にはある。だから、しっかり自立生活を送っていく上では、それを支える事業所やセンター、介助する側が認めていくことが大事になってくるなと思っています。
補足ですが、たとえば金銭管理ができない人は、それをセンターとか周りの人が助けてあげれば自立できるということも書いてあります。知的障害がある人も、「いい/悪い」、「よい/よくない」というのを介助者が「どうですか?」と聞いて、右を選ぶとか、上を選ぶとか、何を食べるとか、そういったことを発言や身振りなどで示して決める、そういったことをすることで、知的障害のある人の「自立生活」も可能になります。なので、僕はこうやってペラペラしゃべっていますが、そういうことが難しい人も自立生活というのができるし、権利であるということをお伝えしておきたいと思います。
団体も自分自身も、障害者の「主体性」「自己責任」を過度に求めてきた
僕は、「自己選択、自己決定、自己責任」を、自分の心を支える理念として強く持っていました。これを忠実に守る。なおかつ、介助者には障害者を主体者として扱い、指示のもとでの介護を徹底する! 自立生活はこれができてこそ実現する。そう強く思っていました。もちろん障害特性上難しい場合は例外なんですが、それ以外の理由だったら、介助者とうまく接することができない人は、この生活(自立生活)はできないんじゃないかとも思っていました。
その理由は、トラブルが起きた際の団体の対応にもあったと思います。これは自分の団体のことなのですが、当事者の行ないを正す方向性が強かったんじゃないかと思うのです。たとえば介助者と障害者とトラブルが起きたとします。話がなかなかかみ合わなくて喧嘩みたいになりました、となった時に、それに対して会議をする。そうした時に、「いや、でも、やっぱりこの障害当事者の人が、介助者のことを考えられてなかったのが原因ですよね」という結論に至ることが多かったと思います。それは、自分自身も含めて、何か事が起きた時に、「いや、僕が悪かったんです」と言う。それは「障害者が自分で責任を持って解決しないといけない」と考えていたからなんですね。
「歪んだ自立観」で自縄自縛に。プライベートがなくなっていった
そしてだんだんと僕の自立観が歪んでいきます。さっき村下さんも「常に見ている」とおっしゃっていましたけど、失敗をしないように気をつけるんですね。仮に介助者が失敗してしまったとしても、自分の指示が悪かったからそういったことが起きてしまったんだ、だから自分が謝罪をするし、すべて責任をとる。そういったことを考えていくうちに、介助者に気を遣いすぎてしまって、プライベートがプライベートであってプライベートでなくなっていきました。私生活も縛られてしまうような感覚が僕のなかに育っていきます。
また、「どんな人とでもうまくやれる自分でなくてはならない」、そういう思いもありました。私たちのところは、村下さんのところや自薦ヘルパーとちょっと趣が違って、センターでやっております。なので、いろんな障害当事者を持った人のところに、ヘルパーを派遣するのですが、自分のところには新人の介助者さんが入って、僕にはその人を教育するという役割があります。なかなかうまくいかない介助者でも「自分が我慢をしてうまくやらなくてはいけない」と思っていました。
自立生活する仲間にも「自制」を求め、攻撃的になっていた20代中ごろ。
CIL代表として、言ってはいけなかった一言を放ってしまう。
そうしているうちに、「自分はこんなに我慢してるのに、他の人(他の障害当事者の利用者)は、なぜできないんだ、なぜいろんな人とうまくやれないんだ」と怒りが湧いてきました。20代中頃の僕ですね、怒ってましたね。
そして、当事者が当事者に自制を求めてしまうようになります。例えば、彼女と暮らすという人に対して、「なんで⁉︎ 自立生活で彼女と暮らすって本当かよ」「あぁ介助大変だー」みたいに思ったり、「あのヘルパーさんとうまくいかない」って相談された時に、「それは利用者(あなた)が悪いんじゃないの」とか思ったり……。こういったことを考えてしまっていたのは、実際その当時の僕が我慢をしすぎていたからではないかと、今回振り返ってあらためて思っています(※)。
そして、「歪んでしまったリーダー」と書きました。「リーダー」は障害者の世界で言うと、「自立生活のリーダー」ですけれども、事業所のトップと考えていただいても結構です。リーダーである僕自身が歪んでいきます。自制することで成り立っていく自立生活というものに不満は感じていたものの、そうしなければ生活できない、背に腹はかえられない、そういう感じでした。だけれども、うまく消化できない気持ちはずっとあって。「自立生活って何なんだろうな」と、つい最近まで考えていました。地域で生きることが権利だ、そのために介助者に入ってもらいながら生活を作ってきた。そして、僕は自立生活センターのGM(ジェネラルマネージャー:障害当事者の先輩のような存在)や代表であるというところで、お手本のような、「らしくなくてはいけない」と思っていた。だけれども、その関係性を壊さないように、自分が我慢を続ける生活っていうのは、いったい何なんだろうと。うまく消化できない気持ちがどんどん湧きでてきました。
そういったことを積み重ねていって、僕はある時、言ってはいけない発言をしてしまったんですね。それは、ある当事者が「ライブに行きたい」と言った時のことです。アーティストのコンサートは、チケットがだいたい4千円くらいするので、介助者の分も負担するとなると、8千円くらいになるんですよね。そういった仕組みのものは、障害当事者がお金を出すのが基本なので、負担しないといけないんですが、その時のシフトが「この人と行っても、あんまりおもしろくないなぁ」と思う人だったようです。
そして、その当事者から介助者を変えてほしいと依頼があった時に、僕は何の疑問も持たずに、「いや、誰と行っても楽しめなきゃダメでしょ」って思っていたんです。本気で。実際に「それは、誰とでも楽しめないあなたが悪いんじゃないかなぁ」と言った記憶があります。これは、運動の側面から考えれば、つまり、「地域でどんな状況になっても生きていく強い社会性を持たないといけない」という側面から考えれば、なしではないかなぁと思います。ですが、本当にこれで幸せになれるのか、行きたい人とライブに行けない、そんなことで幸せになれるのかと考えました。
弱さを認める
今、僕は、これまでの僕の行ないは過ちだったと思っています。片方の考え方を優先するあまりに、我慢を強いられていた人が少なからずいたのではないか。もちろんそれは自分自身もそうでした。どんな人でも誰とでも、自分の介助をやれて、行きたいところには行かないといけない、そう思っていた。だけど、もっと弱さを認めてもいいんじゃないかなと思っています。
そのきっかけとなったのは、妻の言葉です。「障害者って大変そうだね。健常者はそんな四六時中『責任』について考えていないよ?」と、夕食を一緒に食べていた時に言われました。こう言われて、頭をガツンとやられたような感覚がありました。「だよなぁ……」と。健常者って――めっちゃ言い方悪いんですけど――何も考えずに生きてるよなぁと思うと、障害者ってめちゃめちゃ大変じゃんと思ったんですね。これで本当にパラダイムシフトがおこりました。また、今日あとでお話しいただく大野さんが「出張とかは自分が楽できる人と行けばいいですよ」っておっしゃったんですね。これは東京で言われたことなんですが、これもガツンとやられました。「そんなこと聞いたことないぞ!」と。「誰とでも行けないとダメないんじゃないのか⁉」って思ってたので。これ以来、一番楽で、飛行機とか上手に乗せられる介助者と行っています。
さらに、わをんの代表の天畠さんも、「どこを手放せないかというと、『誰とするか、with who』というところ」だとおっしゃっていました。障害が重度になればなるほど、いろんな人に対応する力というのはやっぱり落ちていくっていくというところで、やっぱり自分のことをわかってくれて、「かゆいところに手が届く」ではないですけど、「あ、この人となら安心できるな」っていう人を作っていくことは悪いことではないんだ、そこは手放せなくていいんだということをお聞きして、すごく納得したし、自分自身が安心して生活できるようになってきました。
楽していいやん――さりげない日常を実現するために――
最後なんですが、スライドに「楽していいやん」、「責任とらんくていいやん」と書きました。これはちょっと、言葉としては書いたんですが、やっぱり自立生活する上では責任は必要だと思います。でも、もっと楽していいんじゃないかなと僕は思っています。
その理由としては、支援者や団体の意向次第で左右されてしまう当事者の生活や人生、これはとっても危険だと思っています。今回のコロナ禍で、障害当事者の生活というのは瞬く間に制限されました。鹿児島、僕が住んでいるところよりかなり田舎なところでも、ちょっと隣の県の病院に行っただけで、「生活介護2週間来ないでください」とか言われる。鹿児島市内でもありました。移動介護でバスに乗りたいと障害者が言った時に「いやー、バスは感染のリスクが……」みたいな、まったく根拠不明なことを事業所が言ってくるんですね。僕、それを聞いた時に、もうほんとに怒りに打ち震えそうになりました。「じゃあ、あんたたちはずっと家に閉じこもっているんか」と。なので、自分たちのヘルパーさんにも、これは伝え方は相当難しかったですけど、自分たちがそうであるように、やっぱりバランスを取っていくことがすごく大事だと思っています。障害者の代表が「いやぁ、それは介助者と一緒に行くべきじゃないでしょう」と言ってしまったその瞬間、そのセンターや事業所を利用している人は生活が左右されてしまう。そういう危険性がある。これは常に考えて、より良く生活ができるようにしないといけないと思っています。
で、守るべきことを最低限のラインに持ってくる、ですね。これは自分が言ったことに対しての責任を持つとか、そういったことは当たり前のラインに持って行かないといけないんですけど、生活っていうのはやっぱり遊び、余白があるものですよね。毎日の生活のルーティンが決まってない人もいますし、急に出かけたい時がある。そういったことに対応していけるように、自立生活の幅を広く考えて、団体とかヘルパーさん教育をしていかないと、結果的に障害者の生活が縛られていくのではないかなと思っています。お互いの生活をゆるく尊重できないと、介護保障の実現は難しいと思っています。
「普通の人が当たり前に過ごしている日常を求めて」。「さりげない日常」という言い方が僕はすごく好きです。健常者がしている「さりげない日常」をできるようにしていきたいなあと思っています。僕がこの頃最近目標にしているのは、「頼むから家のなかだけはリラックスさせてくれよ」ということです。障害者は本当に体がしんどいんですね。夜よく寝れない人も多いですし、常に体が痛いですし、本当にしんどい思いをしている人が多いんですね。
なので、「介護保障だ」とかいろんな運営だとか経営だとかっていうと、マッチョなイメージがどうしてもできてしまっているけど、天畠さんも「そういう人を沢山増やしたいわけではなくて、そういう理解ある人を増やしていきたい」とおっしゃっていたように、ほんとにそういったところにやさしさが届く社会というか、家のなか、介助現場にしていきたいと思っています。私の話は以上となります。ご静聴ありがとうございました。
注釈
※川﨑さんより、この点について補足。「自立生活で恋人と暮らすことに否定的だったのは、おそらく、同棲している当事者の家庭で介助者とのトラブルがあり、そのことが会議で話に出て「介助しにくいですよね」「気まずいですよ」等の意見が大きかったこと、また、先輩当事者も「そうよね」と同調していたことに起因すると思います。当時は、一人暮らしというより、「介助者と二人で楽しく暮らしてこそ自立生活である」という雰囲気がセンターに大きかったです。私は、センターの中枢を担う当事者として、規範から外れ、批判の対象となるのではないかと自分の行動を常に監視していました。また、「デート介助大変だぁ」と思ったり、恋人と過ごすことに否定的だったのは、障害者当事者(利用者)が恋人と過ごしているときに、介助者をどこに待機させていいかわからなかったということもあります(たとえば、車に長時間介助者を待たせてしまったことを指摘され「良くないこと」としかとらえ切れてなかった)。ロールモデルもいなくて、良いアイデアをもらえませんでした。加えて、自分の支給時間数は介助者の給料と直結していると教えられていたため、ヘルパー利用をキャンセルすることは「悪」であるという考えや、もらった時間数は必ず使い切らないと、次に行政と支給時間を交渉する時に弱みを握られるとの考えもあって、難しく感じていました」
文/油田優衣
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