連載1回目
特別支援学校で得られた自信、普通校で得られた青春
2021年10月01日公開
Dan ITo
文/嶋田拓郎・伊藤弾 : 写真/嶋田拓郎
SMA(脊髄性筋萎縮症)・東京都板橋区在住|伊藤弾(いとうだん)
1992年2月2日に東京都で生まれる。生後約8ヶ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断される。1歳まで生きることすら難しいと医者から宣告されるが、大きな病気を患うことなく現在まで過ごしている。高校卒業後はアメリカ合衆国・ユタ州で約9年間生活し、2018年にBrigham Young大学卒業。 地域の新聞に自身の背景について取材され、また英語習得のため通っていた英語学校にて、自身の名前を冠した特別奨学金「Ito Scholarship」(※)が始まるなど、地元ユタ州にて注目される存在となる。
現在は、日本に帰国し、東京都板橋区にて自立生活をする傍ら、CIL東大和とNPO法人境を越えてでボランティアをしながら、都内で英語塾を経営している。
【イントロダクション】
東京都板橋区在住の伊藤弾さんは現在、5つの事業所から派遣される介助者を利用して、一人暮らしをしています。また自営業として英語塾を経営しながら、精力的に働いています。
幼い頃から明るい性格で友人も多かった伊藤さん。小学校、中学校は特別支援学校に通い、高校は地元の普通高校に通いましたが、それぞれの良さを感じたそう。
高校卒業後はアメリカに留学し、その後約9年間、家族や友人、同僚の力を借りながら生活を送ってきました。
アメリカ合衆国では、ADA(Americans with Disability Acts)法が制定されており、公共施設や公的サービス、教育機関などでは障害を持った人々に、健常者と同じ経験を提供することが原則となっており、当事者が介助者を雇用しパーソナルケアを実現しています。それに加え、「多くの人々の心には、障害者を配慮しようといった気持ちが自然に身についている」と留学中に実感したと、伊藤さんは語ります。
伊藤さんは、アメリカ滞在中に公的な介助制度の利用はしませんでしたが、このADA法や文化的な背景もあり、学校生活や職場環境において友人や知人の力を借りながら、約10年間アメリカで生活を送ることができました。
一方で、アメリカから帰国し、日本で重度訪問介護制度を利用しながら自立生活をするなかで、アメリカではどこか友人に気兼ねした生活をしてきたことにも気づいたそうです。
インタビューの第1回では、小中高時代に感じた、特別支援学校と普通校の違い、第2回では、アメリカでの友人介助に根ざした生活の内実について、そして第3回では、日本で気づいたアメリカと日本での生活の違いや障害者運動に関わり始めたきっかけについて、じっくりお話を伺いました。
(文/嶋田拓郎・伊藤弾)特別支援学校だったからこそ形成された自信
——伊藤さんの自己紹介をお願いします。
伊藤:今年29歳で、出身は東京です。フリーランス の英語の教師をしていて、数人の生徒を教えています。あと、CIL東大和という障害者団体にも所属しています。NPO法人境を越えてでも、簡単な事務仕事をさせてもらっています。
——伊藤さんのご家族の話を聞かせてください。
伊藤:えっと、私は7人兄弟です。
——えー! すごい。大家族ですね。
伊藤:で、末っ子です。一番上とは12歳離れています。
——12歳離れているともう、可愛がられる感じですね。
伊藤:うーん、なんか他人みたいですよ。僕が物心ついたころには、一番上の兄は実家を出ていたので。あんまり知らない感じですね。
——地元の保育園や幼稚園に行って、その後は特別支援学校に行ったのですか?
伊藤:そうです。特別支援学校は小学校・中学校まで通いました。
——多くの方にインタビューでお話を伺うと、「普通の地元の小学校に通いたい」という人もいれば、「いや、特別支援学校でいい」という人もいます。そのあたりはいかがでしたか?
伊藤:地元の保育園に通っていたので、本当はそのまま皆と同じ小学校に行きたかったです。親も試みたようですが、結果的に学校側から入学を断られてしまいました。他の障害者から「地元の小学校や中学校に通った」という話を聞くと、「自分ももしかしたら、もっと頑張れば行けたのかな」と思うこともあります。
——普通校に行けなかったことを後悔されていると。
伊藤:いえ、そうではありません。特別支援学校のおかげで自分に自信が持てたからです。特別支援学校は、様々な障害を持つ生徒がまわりにたくさんいて、障害者について学ぶいい機会でもあったんですよ。重度知的障害の生徒が多かったので、知的障害が無い自分はよく頼られていました。たとえば生徒会役員になったりとか、文化祭の実行委員会だったりとか。自分を発揮できる場を提供してもらっていました。
いじめなどネガティブな経験が学生時代になかったのも大きかったです。自分の持ち前のポジティブさや明るさは、特別支援学校の環境にいたからこそできたものかなとも思っています。だから特別支援学校に行って、よかったなと今は思いますね。
——特別支援学校に通ったことで、出番や役割を通して成長できるというのは、新たな視点でした。
「普通の生徒」として過ごせた高校時代
——そこから高校は?
伊藤:高校は、普通校です。
——高校は普通校に進学された経緯を教えてください。
伊藤:中学校2、3年の思春期を迎えて、だんだん当時の環境にもの足りなさを感じてきていました。先生と一対一の授業という環境が嫌だったし、自分と同じように話せる同い年の友だちがいなかった。それで、「中学を卒業するし、これもいい節目だな」と思い、「普通の高校に行きたい」と周りに伝えました。自分が通いたかった高校は、ちょうど障害者の先輩がいて、話が聞けたんです。おまけに家から歩いて行ける距離にあったので、「もうここしかないな」と受験して、合格しました。
——当事者の先輩がいたことはけっこう大きいですね。
伊藤:そうですね、それがなかったら、たぶん考えていませんでした。
——そのときの受験の配慮の申請は、特に伊藤さんは必要なかったですか? それとも何かされましたか?
伊藤:試験は作文だったんですけど、当時は自分で書くことがそこそこできていました。それでも自分で紙をずらすのができないので、試験中に先生が付き添ってくれるといった配慮や、試験時間を1時間長くするなどの配慮はしてくれました。
——なるほど。先生も協力的だったんですね。
伊藤:そうですね、ほんとに恵まれた環境ではありましたね。いい先生たちでしたし、校長先生や副校長先生も、僕が十分学べるように協力的でした。
——そこからの高校生活について教えてください。
伊藤:コミュニケーションは下手ではないし、人見知りを見せないほうなので、わりと友だちもすぐできました。特にいじめられもせず、放課後も学校に残ってしゃべっていました。勉強はあまり好きではありませんでしたが、僕の夢だった、一般的な高校生が送る“普通”の学校生活でしたね。ただ、特別支援学校から入ったのもありますが、「健常者の同い年くらいの子ってこういう感じか」という衝撃はありました。
——「健常者ってこんな感じなんだ」っていうのは、具体的にどういったことだったんですか?
伊藤:たとえば、「学園もののドラマのような世界って実際にあるんだな」という感じです。女子の友だちがいて、仲良くなった男友だちがその女子と連絡を取りたいから、「俺とメールしたいか聞いてよ」と頼まれることも多かったです。それで「メールしたくないってよ」と伝えたら、その友だちが怒ったりとか。そういう面倒くさい人間関係、ドラマ的なものってほんとにあるんだな、と思いました。
プロフィール
SMA(脊髄性筋萎縮症)・東京都板橋区在住|伊藤弾(いとうだん)
1992年2月2日に東京都で生まれる。生後約8ヶ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断される。1歳まで生きることすら難しいと医者から宣告されるが、大きな病気を患うことなく現在まで過ごしている。高校卒業後はアメリカ合衆国・ユタ州で約9年間生活し、2018年にBrigham Young大学卒業。 地域の新聞に自身の背景について取材され、また英語習得のため通っていた英語学校にて、自身の名前を冠した特別奨学金「Ito Scholarship」(※)が始まるなど、地元ユタ州にて注目される存在となる。
現在は、日本に帰国し、東京都板橋区にて自立生活をする傍ら、CIL東大和とNPO法人境を越えてでボランティアをしながら、都内で英語塾を経営している。
文/嶋田拓郎・伊藤弾
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