あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載3回目

公的介助制度の存在で、生活を我慢せずに自分らしい生活を築けた

Dan ITO

文/嶋田拓郎・伊藤弾 : 写真/嶋田拓郎

SMA(脊髄性筋萎縮症)・東京都板橋区在住|伊藤弾(いとうだん)

1992年2月2日に東京都で生まれる。生後約8ヶ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断される。1歳まで生きることすら難しいと医者から宣告されるが、大きな病気を患うことなく現在まで過ごしている。高校卒業後はアメリカ合衆国・ユタ州で約9年間生活し、2018年にBrigham Young大学卒業。 地域の新聞に自身の背景について取材され、また英語習得のため通っていた英語学校にて、自身の名前を冠した特別奨学金「Ito Scholarship」(※)が始まるなど、地元ユタ州にて注目される存在となる。
現在は、日本に帰国し、東京都板橋区にて自立生活をする傍ら、CIL東大和とNPO法人境を越えてでボランティアをしながら、都内で英語塾 を経営している。

目次

「何でも頼んでいいんだ」という安心感に気づく

――アメリカでの9年間は、友人関係に根差した介助だったなかで、日本では純粋に仕事として介助者がやってきています。ギャップは感じましたか?

伊藤:全然違うと思いましたね。もともと気を遣うことが苦ではない性格なので、友だちに頼んでいるときもストレスは感じなかったんです。それでもやっぱり、遠慮を無意識にしていた。

でも「お金をもらっている介助のプロフェッショナルが家に来ている」ってなると、「もう何でも頼んでいいんだ」と贅沢な気持ちになることができました。「食べたいものを食べたいときに食べる」とか、「トイレに行きたいときに行く」とか、「お風呂に入りたいときに入る」とか、「歯みがきをしたいときにする」とか、そういうのを全部自由に、全部自分の好きなペースでできるのは、最高の気分でしたね。

――そういう意味では、アメリカでは気兼ねなくできていなかったということですかね。

伊藤:気兼ねなくできてなかったんですけど、気兼ねなくできてなかったということに気づいてない、「自分のしたいことって、お金を払っている人だったらこんなにできるんだ」という感動がありました。だから今、アメリカでの生活には戻れないんですよ、絶対。すごく窮屈な生活だったんだなって。トイレを我慢するのが、普通だと思っていたんです。

――えー。

伊藤:12時間はなんとか我慢できるんですよ、トイレ。でも今はもうさすがにそれはしなくなったので、

――健康に悪いですよね。

伊藤:そうなんです。だから今はトイレも好きな時間にできるっていう生活なので、またアメリカの時のような生活に戻るのは難しいですね。

——自由な生活が手に入ったということですけど、介助について違うと思ったら介助者に注意もできるようになりましたか?

伊藤:そうですね。もちろん自分の生活だから、「その人に何でもやってもらう」というよりも、「自分の意思をもとに動いてもらえるんだな」ということに気づけてよかったです。

――介助者にとっても、明確に介助内容を指示してもらう方が、仕事がしやすいっていうのはあるのかもしれない。

伊藤:そうですね。自分も意思がちゃんとあって、介助者の意見に安易に流されるのはすごく嫌なので、そういう人とはぶつかりますけど。

――ちゃんとぶつかるんですね。たとえば事業所を通してクレームを言う人もいると思うんですけど。

伊藤:身の危険を感じたら本人に伝えるのはやめますが、直接指摘するのと、事業所に指摘するの、2通りありますね。

――ちょっと密室の場では言わないほうがいいなっていう。

伊藤:手を出されるとこっちも何もできないんで。

――なるほど。

伊藤:「言って、聞いてくれそうな人だな」っていうのを察知できたら伝えるのですけど、「言ったら気を悪くして、何か変なことしだす人だな」というのがわかれば、そこでは黙って我慢して、あとで事業所に言います。

――過去にそういう人もいたってことなんですね。

伊藤:いました、はい。

――働いてみてもらわないと、わからないとこもありますからね。

伊藤:そうですね。

”Be on the same page”

――伊藤さんと介助者との関係で、何か工夫しているところは何かありますか?

伊藤:仕事で来てもらったとしても人間であることは変わらないので、何でもやってもらうっていうよりも、介助者の得意・不得意を見極めて、コミュニケーションを取りながら、「それができないなら、じゃあこれをやってください」とか、細かいコミュニケーションを取りながらやっています。だからと言ってすべて介助者に合わせると、自分の生活らしくなくなってしまいます。自分のストレスにならない程度に介助者の気持ちも理解したり、確認したりしながら生活しています。

――なるほど。

伊藤:介助者が、得意なことを最大限に生かしてやってもらうっていうのと、苦手なことは、その人が自分のベストを尽くしていたらそれで大丈夫っていうふうにわりきりもしています。もしそれが不都合であれば、「また次の日に他の人にやってもらうからいいよ」と思う心の広さを保とうとしています。

それと、介助者に誕生日が来たりしたらお祝いするとか、好きなテレビがたまたま一緒だったら一緒に観るとか、一緒に話し合うとか。介助者を一人の人として見るっていうか、友だちとまではいかないかもしれないんですけど、「自分の生活に、プラス一人、人がいるな」という感覚で、パートナーとして接してますね。それだとお互いストレスにならないんですよね。

――単に介助者を「手足とみなす」わけではなく、場に影響を与える存在として一緒に何か楽しむということですかね。

伊藤:必ずしも一緒に楽しむ必要はないんですけど、そこで見守ってくれている家族みたいな。

――友だちとも違うし、家族、母親・父親とも違うし、かといって手足とも違う……

伊藤:友だちみたいなアドバイスもお互いするときはするみたいな感じです。いい感じの距離を保つのが自分の中では目標でして。深入りしすぎると逆に、友だちになってしまって、その人に介助を頼むのが難しくなってしまうので。

――基本は、どっちかというと介助者として介助を頼む相手というか。だからそこは大事にしつつ……

伊藤:介助をお願いするだけの関係ということを意識し過ぎると、ドライな関係になりすぎてしまう気がして。なので、うまくできなくても、「ベストを尽くしてくれてありがとう」ぐらいの気持ちでいる。で、また「次の日にほかの人にやってもらうからいいや」という心の広さを持っていたいです。そして世間話をする機会があるなら、それをするんです。

コロナの状況で友だちと会う機会が少なくなってきていて、介助者に悩みを聞いてもらったりするのが最近は多くなってきていますね。介助者側も別に、それが苦じゃないように思ってくれているみたいで。そういう、適度な距離をお互い保っています。

――なるほど、いいですね。お話を聞いていて、なかなかそういう人間関係、介助者との関係構築で日々ちょっと悩んでいる方も多いと思うので、なんか今の話はすごく、「なるほど」と思ってもらえるようなお話なんじゃないかなと思いました。

伊藤:コミュニケーションが苦手な当事者が多いという話は、いろいろな介助者から聞いています。たぶん、自分の意図がうまく介助者に伝わってないのが理由なんですよ。たとえば、「じゃあこれから何々をするので手伝ってください」というときにも、ちゃんと背景を説明して、「こういう理由があるから、じゃあ今からここに行きます」とか伝えています。「今日はなんかこれが食べたい気分だから、これを買いにここに行きます」というように、多めに情報を伝えることは心がけています。まあそれで何か会話が発展することがあったら、それはそれで楽しいですしね。 be on the same pageという表現があるんですよ。

――どういった意味なんですか?

伊藤:1冊の本の中の同じページを、皆で声に出して読むというのが語源のようなんですが、皆同じ考えを持っていること、大筋で同意しているという意味です。

——なぜそのような行動を自分が取るのか、共通理解をつくるということでしょうか。

伊藤:お互い気持ちのギャップがないようにするっていうことが、自分が心がけていることですね、僕と介助者で誤解とかがないように。好きな言葉なんです。

ロールモデルとの出会いで関わり始めた日本での障害者運動

――2019年に帰ってきて、当初は生活基盤をつくるのがけっこう忙しかったと思うんですけども、今の、英語教師の仕事をどのようにつくっていったのか、お話を伺ってもよろしいでしょうか?

伊藤:アメリカにいたころに、「日本で英語を教える学校を作りたい」という希望があったんです。それでまずは、少人数から始めようっていう計画で、「近所で英語を学びたい」という人が3〜4人すぐに集まりました。それで、まずそういう身近なきっかけで英語を教えることになりました。ただ、英語を4人に毎日教えるだけじゃ、やっぱり物足りないと感じていて、どうしようかと思っていた時に、CILと出会ったんです。障害者が日本で運動をしている場があるということに少し興味を持ちました。それでCILを見学させてもらいました。あと映画、なんだっけ、「風は生きよと…」

――あ、海老原宏美さんを主人公のドキュメンタリー映画『風は生きよという』 ですね。

伊藤:はい。「今度近くで上映するから見に行かない?」と誘われて行ってみて、すごく感動したのを覚えています。その映画がきっかけで海老原さんを知って、彼女が同じ障害であるっていうことにすごく惹きつけられたんです。「この人と会えたらいいな」と思っていたら、映画に誘ってくれた方が「海老原さんと友だちだから、今度会う?」とつないでくれました。それで海老原さんが「東大和に来て」と言ってくれて(笑)

――いいですね(笑)

伊藤:東大和で初めて海老原さんと会ったのが、2019年の7月か8月でした。それで「あ、この人に一生付いて行きたい」と思いました。それで「何でもするので、どうか師匠になってください」と頼み込みました(笑)

――積極的ですね!

伊藤:そしたところ海老原さんは、「私一人で大丈夫だし」と。「何でもやるなんて言ったら、障害が悪化するからやめな」と言われたので、「障害が悪化してもやります」って自分が食い下がったら、海老原さんが逆に困っちゃいました。

「じゃ、とりあえず私がこれからいろいろな講演とかに行くから、それについて来てよ」って言われたんです。「なんか興味のあるイベントがあったら、いつでも来ていいよ」と。それでいつしか、「CIL東大和のボランティアとして働いていこうよ」という形になっていきました。コロナが流行る前の2019年後半にいろいろな計画を二人で立てて、「2020年はこれもやろう。あれもやろう」って言ってすごい二人で盛り上がったのですが、コロナで全部キャンセルになってしまって…。コロナが落ち着いたら、どんどん活動に関わっていきたいと思っています。

――伊藤さんのお話をここまで伺うなかで、アメリカでの9年間の生活は、友人やボランティアが介助の協力をしてくれたことで、困らずにのびのびと暮らせたこと、一方で、帰国後に公的介助制度を利用したことで、友人にはどこかで遠慮していたことに気づいていたことを知ることができました。今の伊藤さんは、公的介助制度があることで、介助者との適度な距離感を意識しながら、そして英語教師をしながら障害者運動にもかかわる、自分らしい生活を模索しているように思いました。今後の伊藤さんの活躍を期待しております。本日はありがとうございました!

注釈

※スカラシップの内容についてはこちら
https://philanthropies.churchofjesuschrist.org/byu/news-features/two-brothers-from-japan-live-lifelong-dream?cid=facebookShare

プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)・東京都板橋区在住|伊藤弾(いとうだん)

1992年2月2日に東京都で生まれる。生後約8ヶ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断される。1歳まで生きることすら難しいと医者から宣告されるが、大きな病気を患うことなく現在まで過ごしている。高校卒業後はアメリカ合衆国・ユタ州で約9年間生活し、2018年にBrigham Young大学卒業。 地域の新聞に自身の背景について取材され、また英語習得のため通っていた英語学校にて、自身の名前を冠した特別奨学金「Ito Scholarship」(※)が始まるなど、地元ユタ州にて注目される存在となる。
現在は、日本に帰国し、東京都板橋区にて自立生活をする傍ら、CIL東大和とNPO法人境を越えてでボランティアをしながら、都内で英語塾 を経営している。

文/嶋田拓郎・伊藤弾

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