あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

重度障害があっても、ロールモデルの存在や適切なサポートがあれば、大学生活や日常生活が送れる

Ryo KUNIMITSU

文/油田優衣・嶋田拓郎 : 写真/浦野愛

デュシェンヌ型筋ジストロフィー・奈良市在住|國光良(くにみつりょう)

1989年生まれ。広島県広島市出身。デュシェンヌ型筋ジストロフィー。日頃はNPPVを利用している。小学校は地元の公立小学校、中学高校は私立の中高一貫校に通う。大学進学を機に京都で一人暮らしを開始。障がいが重くなったことから、在学中に重度訪問介護を利用し始める。現在は奈良市内で24時間介助の一人暮らしの傍ら、東京大学先端科学技術研究センターで在宅勤務をしている。

【イントロダクション】

國光良さんはデュシェンヌ型筋ジストロフィーの当事者で、奈良県奈良市で24時間介助の自立生活をしています。
小学校は地元の普通学校。中学高校は地元の中高一貫校に通っていました。國光さんは自分の病気を治すために薬を開発したいと薬学部への進学を目指して勉強を重ねてきました。しかし、大学受験や就職活動では障害を理由に様々な壁にぶつかったといいます。
一方で、ロールモデルとの出会い、DO-IT Japanで得られた自立生活の自信が、國光さんの後の人生に大きな影響を与えたといいます。
重度障がい当事者が、将来に光を照らすロールモデルに出会うことはどのような意味を持つのでしょうか。
また、10代で「自立する」ことの自信を得ることは、その後の人生にどのような影響をもたらすのでしょうか。
國光さんのご経験を通して、皆さんと考えたいと思います。

(文/油田優衣・嶋田拓郎

目次

ロールモデルとの出会い 「両親についてきてもらうんじゃなくて、自分で来てみてよ」

――國光さんは、ご自分の病気を治す薬剤師になるために勉強をされてきたのですよね。そんな國光さんにもロールモデルとなるような先輩障がい者との出会いがあったそうですね。

國光:そうです。元々、小学6年の時に、自分の病名を知って、詳しく知りたいと病気に興味を持ったのが始まりです。薬剤師というよりは、薬学部に行って、将来は自分の病気の治療薬を研究したいと思っていました。中学3年のときに、貝谷嘉洋さん (※1)という方にお会いしたんです。アメリカの大学に留学されていた方です。その方にお会いしたことがきっかけで、東大のプログラムであるDO-IT Japan (※2)の存在を知って世界が広がりました。

――その方が國光さんのロールモデルなんですね。

國光:そうです。貝谷さんのことはNHKの番組で観たこともあって、すごい方だなという印象がありました。そもそも、どうして貝谷さんにお会いできたかというと、もともと僕が通っていた中高一貫校では人権教育や道徳教育が盛んで、別の筋ジストロフィーの方が講演に来られたことがありました。その時に貝谷さんを紹介していただいて、「彼と会えば、自分の世界が広がるよ」と言われたんです。実際に東京にある国立精神・神経医療研究センターに行っていたこともあったので、東京を訪れた際に貝谷さんにお会いしました。

――貝谷さんというロールモデルを見たときに國光さんの中で何か、将来につなげて考えたことはありますか?

國光:今までは両親に介助してもらっていましたが、貝谷さんから「両親についてきてもらうんじゃなくて、今度は1人で僕の家に来てよ」と言われたんです。実際に貝谷さんのお宅にお伺いして、(事業所から派遣される)ヘルパーさんや、自分の雇った介助者と共に生活しているような、実際の雰囲気みたいなのを見て、こんな感じでも一人暮らしのような形で生活できるんだっていうふうに思いました。

――その貝谷さんの繋がりでDO-IT Japanにも繋がっていくということですね。

DO-IT Japan で得られた「親なしで5日間過ごせた自信」

――DO-IT Japanでの経験をお伺いできたらと思います。

國光:DO-IT Japanとの関わりは高校3年からです。地元の大学で親しくしていた先生から、2007年からDO-ITという取り組みが東大の方で始まることを聞いて、せっかくなので応募してみたんです。

――記念すべき1期生ということですか?

國光:はい、1期生です。

――参加してみて、自分にどういう影響があったとお考えですか?

國光:実際にDO-IT Japanでのプログラムは、PCをはじめとするアシスティブ・テクノロジーなどの活用を学んだり、自分の障害について自分自身で周囲に適確に説明して必要な配慮を求めていく方法などを身につけたりします。また、両親の介護は受けられない環境で、家族以外の人の介助を利用することになります。プログラムは5日間あったんですが、その5日間をDO-IT Japanに関わっている介助スタッフに全て依頼して、実際に大学体験もしてみるという趣旨でした。
今までは、学校内では主に担任の先生や頼みやすそうな先生に介助依頼し、ヘルパー利用は校外学習時や自宅での入浴のみなど限られた中での利用で、その他は家族介護が中心でしたので、一日の朝から夜寝るまでにおいて介助を他の人に依頼するという経験は初めてでした。
最初はそれができるか自分としても結構不安だったんですが、1期生で、どういうわけかテレビ局に同行取材される運びになっていまして、失敗するわけにはいかないと(笑)。でもやってみると普通にできたので、それで結構大きい自信に繋がりました。

大学受験で経験したいくつもの壁

――國光さんは、高校卒業後に同志社大学に進学されたとのことですが、その経緯について教えていただけますか。

國光:もともと地元の大学に薬学部ができるのを知って、そこを目指していました。受験の段階になって実際に薬学部はオープンキャンパスや説明会に足を運んびました。最初は薬学部の部長も出てきて、障害があっても受験できますよという感じで、門戸が広いようなアピールはされていました。
しかし、現役での大学受験が終わってから浪人が決まったくらいに後から高校の担任の先生から聞いた話ですが、障害が重度だし、薬学部は実験などを自分の手でしないと認められないということで、「一応受験はさせるけど、入学は……」という取り決めがその時にあったそうです。薬学部は現役でのAO入試を受験したので、小論文+面接でした。もし、事前にそのような取り決めがされているのだったら、それは入学させても実験は自分でできないからという理由で不合格になったのかもと思ってしまいました。
大学を選ぶときは、障害があっても、障害学生支援が整っているからという理由で選ぶのではなく、自分の学びたいことで選ぶべきと思っていましたが、実際にこのようなことが受験の段階でもあることを身を持って知り、当時は障害があっての大学進学に大きな壁を感じました。

――得点が取れていたかもしれないのに、障害を理由に落とされたかもしれないということなんですね。小さい頃からの夢だった薬学部が1回駄目になってしまったときに、國光さんはどういうご判断をされたんですか。

國光:体力的な制限もあって、滑り止めを受けてなかったこともありまして、1年間浪人生活を過ごしました。ちょうど浪人生活が始まる前頃に、病状の進行から当時は夜間のみ人工呼吸器が必要な状態となっていました。受験勉強をしていても、昼間の眠気が強くいつの間にか傾眠傾向になっていたり、物事を覚えられないという呼吸状態の悪化からの自覚症状がありました。
そのため、1年間の浪人生活中は、検査や呼吸器導入のため入院もあり、1ヶ月弱の入院中も受験勉強していました。2回目の受験では、薬学部以外にも自分で行けそうな学部をいろいろ探して、同志社大学は滑り止めみたいな軽い気持ちで受けたんです。障害学生支援室が充実しているとパンフレットに書いていたのをみて、ここの大学もいいんじゃないかなと。

――障害学生支援の手厚さを一つの判断として、決め手になったということなんですね。

國光:そうですね。それこそ歴史的にも障害者が入ってきていたっていうことで、体制が構築されていたと思います。二回目の受験では、実際に大学は何校か受けました。国立大学も受けたんですけど、壁はありました。試験のときは自力で回答はできていたのですが、配慮が認められないこともありました。僕の場合は障害のため筆記に時間がかかるので、1.5倍の時間延長などがその時は必要だったんです。でも1.3倍しか受け入れないという事情も国立の場合はありました。実際、国立はまた2年目も駄目で、同志社大学だけ受かったような形になったので、必然的にそこに行くことになりました。
何年も国立を目指して浪人するのは、体力的に自信もありませんでしたし、受験の1年目で受験を失敗したとき、同級生は皆大学に行ってるのに僕は行ってないというのは結構引け目も感じていたんです。2年目で受かったんだから、広島を離れることにはなるけど、進学校でやってきたっていうのもありまして、やっぱりみんなと同じように大学に行きたいなっていう思いも結構あったと思います。

4,5年かけて、一人暮らしが可能な重度訪問介護の時間数を得る

――國光さんは同志社大学に入学されたということですが、学内のサポート体制はどんな感じだったんですか?

國光:大学の2年ぐらいまでは家の中はヘルパーさんに、大学のときは主に学生さんにトイレ介助とかも頼んでいたのですけれど、大学3年ぐらいから少し障害が進行し、学生では対応が難しくなってきて。大学の方と話して、有償ボランティアで学生を雇うのと同じような扱いで大学内でもヘルパーさんに介助費用を支払ってくれるという形になりまして、大学内でヘルパーさんが入れるようになりました。

――私生活ではヘルパーさんに来てもらったということですが、國光さんは大学1年から重度訪問介護を使い始めたのですか。

國光:いや、その時に僕が住んでいた同志社大学のあった市はなかなか厳しく、時間数が出ず……。大学1年のときは、身体介護が175時間しか出てなかったので、最初は僕の母が夜勤帯を担っていました。

――それはなかなか大変ですね。お母様も引っ越しされたんですか。

國光:いいえ。介護の環境が整うまで、付き添いという形を取っていました。完全に引っ越しではないのですけれど、それに近いような形かと思います。

――そういった面では國光さんが目指していた理想のあり方とは少し異なる形で大学生活がスタートしたのかもしれませんが、大学4年間はずっとそのような感じで続いたんですか。

國光:大学1年の時、僕は制度の事とか全然知らないし、詳しくなかったんですけれど、これでは困ると思って、介護の時間数を出してもらわないといけないということになりました。その時、両親の手助けもあり、市役所に時間数をもう少し出してもらえるように交渉に行ったりしました。

――時間数の交渉をすることになって、そこからどのような展開に至ったのですか。

國光:交渉しても時間数が出ず、大学2年の時点でも月240時間でした。そのときはまだ障害も進行しておらず、まだまだ動けていました。呼吸器も、大学時代は夜間のみで、日中は使っていませんでした。重度障害だと判断されず、時間数が出なかったのだと思います。重度訪問で一人暮らしができるのに足りる時間数が得られたのは、結局大学の4,5年目ぐらいのことでした。
また、重訪を請け負ってくれる事業所もなかなか見つからず、当初は事業所探しに苦労していました。そのため、大学1年時から1年半くらいは朝・昼・夜というように決まった数時間だけしかヘルパーに来てもらえず、夜間帯の介護は呼吸器を付けなければならないので、母がその介護を担っていました。このままでは、家族の負担が大きくなってしまい、自立生活とは言えないので、重訪に対応可能な新たな事業所を探し始めました。
その時に、同志社大学の障害学生支援室のコーディネーターの方を通じて、障害当事者がやっている事業所とつながりました。そのコーディネーターの方は、昔、筋ジスの方の介護に関わったことがある方で、制度が始まるよりもずっと前に、奈良で国立療養所の筋ジス病棟へボランティアとして行っていたそうです。国療を出て自立生活を始め、自立生活センターを立ち上げた筋ジスの人を知っておられたというのもありまして、その方に相談したりしました。それは時間数を市役所と交渉しながらの状況でした。
あと、入ってもらえる事業所が全然なかったので、最初は近隣の大阪の事業所に来てもらっていました。ただ、その事業所はどちらかというと介護保険の方が専門だったんです。障害者介助に対する理解がなくて、事業所側が主体となって介護をするという姿勢の事業所だったので、そういう趣旨に合わないと派遣を断念されてしまいました。それで奈良にあるフリーダム21 (※3)やサポート24というCILに相談し、他の事業所を紹介していただきました。自立生活の進める上での大きな助けになりました。

眼鏡をかけるように人工呼吸器を使う

國光:重度訪問介護の時間数が得られ、生活が軌道に乗ってきた一方で、障害の進行は進みました。

夜間に呼吸器を使い始めて6年くらい経った2014年の頃から、日中にも呼吸器が必要となってきました。それまでは夜間の呼吸器使用のみでしたが、日中や夕方にも息切れや息苦しさから、食事があまり取れないなどの症状が出てきたため、このままでは日中にしんどくて活動できなくなり、まずいと思いました。それでもやはり呼吸器を1日中付けていなければならなくなることには大きな抵抗がありました。呼吸器に一度全部頼りきりになってしまうと、逆に身体がそれに慣れて自発呼吸も完全にできなくなってしまうのではないかとか、呼吸器を付けながらの食事も難しいのではないかとかいろいろ不安や葛藤がありました。でも、実際に友達と食事に行った時などに、呼吸器なしではすごく息苦しくて、旅行先でも食事を食べるのがとてもしんどい時がありました。

そんな時に、これではせっかくの旅行が無駄になると思い、思い切って呼吸器を付けた状態で食事をしてみたのです。そうすると、意外に誤嚥することなく、むしろ呼吸が楽になりました。最初は嚥下のタイミングなど呼吸器に同調させるのに苦労しましたが、普通に食事できたのです。友達も「しんどかったら呼吸器付けてみたら、時間かかっても待つよ」みたいな乗りだったので、それも後押しになりました。

そんな中、2015年くらいに、呼吸器を使用して、実際に在宅で生活している方々の様子や思いを撮ったドキュメンタリー映画の上映会に参加する機会がありました。「人工呼吸器」と聞くと、本当に重度の人が使うもので、病院のICUにいるようなことをイメージされがちですが、実際はそうではなく、医療技術が発達している現在では、呼吸器もインターフェースも使いやすいように改良されており、在宅で使用して元気に暮らしている人も多くいます。障害のために自発呼吸が難しいから、その呼吸補助のため呼吸器を使っているというのは、眼鏡をかけているのと同じように、日常生活の一部になっているんだという考えにとても共感できたのです。それからは、呼吸器は眼鏡のように日常生活の一部なのだから、1日中呼吸器付けていたってどんどん活動していこう、街に出てジロジロ見られたとしても、呼吸器を付けても元気に生活している人がいることを逆に世間の人に知ってもらおうと思うようになったのです。このようにして、自分の中で24時間呼吸器生活になることを受容していきました。

さらに呼吸器のことに加え、今度は車椅子上での姿勢の問題にも直面することになりました。2017年に体調が悪化して、それは風邪の体調不良からの呼吸状態の悪化だったのですが、いつも風邪の時は鼻が詰まるなどがしんどくて、実際にはずっと呼吸器を付けれずにいました。たまたま呼吸器を付けていない時に、すごく眠いなと思っていたら、いつの間にか寝ていたことがあって、自分の中では30分くらいのことだと思っていたのに、後から聞くと実は34時間寝ていたらしく、起こそうとしても反応が鈍かったそうです。これが呼吸不全から来るCO2ナルコーシスという状態なのだと後から気づき、怖くなりました。

医師からは、車椅子上での前傾姿勢は、肺とお腹を圧迫する姿勢であるため、今すぐに緊急性があるわけではないが、将来的には良くないものであると言われました。それまでは、自分で体や首を支えられないために、胸部をベルトで固定した前傾姿勢で電動車椅子を操作していました。また、自分の残存機能を使って、食事をしたり、歯を磨いたり、身体に負担をかけた生活をしていました。それは、これ以上の機能低下が怖かったからです。でも、これからは先を見据えて、身体に無理をかけずに頑張っていきたいと思うようになりました。

呼吸も食事もしやすいように、前傾姿勢を取る電動車椅子ではなく、シーティングバギーのような拘縮や変形が強い身体でも、胸郭や背中を保持する3Dネットやネックサポートなどによる支えで座位保持が取れているのは、すごいことだと思いました。入院中、「呼吸、心臓、排泄、姿勢など全ての調整のバランスが重要だ」とOTの方が何気なく言われたことが印象に残っています。この微調整のバランス(按配)が上手くいくと、体調も良くなることを実感しました。

今の身体状況では、移動時にも、常に介助者に車椅子を押してもらう状況になり、当初は自分で動ける自由を奪われたようで、それをすぐに受け入れることは大変でした。でも、少し発想を変えて、外出時に友達にも車椅子を押してもらうことにしてみると、それによって逆に友達と親しくなれたりしたこともありました。たとえ全く自分では動かせない身体であっても、このような発想の転換により、マイナスのこともプラスに変わっていくのだと思いました。

 

→連載2回目の記事はコチラ。

注釈

※1 NPO法人日本バリアフリー協会代表。筋ジストロフィーのため24時間介護が必要。関西学院大学商学部を卒後、カリフォルニア大学バークレイ校で修士取得。現地で介護者を雇い自立生活を送る。その後、一本のレバーで運転できる車で北米大陸一周。国士舘大学講師。各種委員、著書、講演多数。
※2 Do it Japanは、障害のある若者の高等教育への進学やその後の就労への移行支援を通じた、リーダー育成プロジェクト。テクノロジーの活用方法や、自立生活、セルフアドボカシーなどについて学ぶ。東大先端研の共同主催、共催・協力企業との産学連携により、2007 年から活動を続けている。https://doit-japan.org/
※3 自立生活支援センターフリーダム21は、奈良市と「地域活動支援センター事業III型」の委託を契約し、地域で生活している身体障害者、知的障害者、精神障害者などが活動できる事業所。資格を持ったピアカウンセラーによって障害者が抱えている困りごとや自立生活の相談支援業務、そしてその手助けとなる情報収集と提供によって支援の機会を創出している。

プロフィール

デュシェンヌ型筋ジストロフィー・奈良市在住|國光良(くにみつりょう)

1989年生まれ。広島県広島市出身。デュシェンヌ型筋ジストロフィー。日頃はNPPVを利用している。小学校は地元の公立小学校、中学高校は私立の中高一貫校に通う。大学進学を機に京都で一人暮らしを開始。障がいが重くなったことから、在学中に重度訪問介護を利用し始める。現在は奈良市内で24時間介助の一人暮らしの傍ら、東京大学先端科学技術研究センターで在宅勤務をしている。コロナ禍での最近の趣味は、Googleマップでのオンライン旅行。

文/油田優衣・嶋田拓郎

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