連載1回目
地元の保育所、学校に通ってーー「他愛もないけんかができたことが、今思えば幸せ」
2023年03月07日公開
Rie Kubo
文/油田優衣 : 写真/其田有輝也
SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型|くぼりえ
1974年、大阪府枚方市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。地域の保育所、小中学校、高校に通う。成安造形短期大学卒業。フリーイラストレーター、絵本作家。著者に、『バースデーケーキができたよ!』(2001)、『およぎたい ゆきだるま』(2006)。2022年4月から、枚方市の「重度障害者等就労支援特別事業」を使って、在宅で公的な介助サービスを受けながら働いている。
くぼりえさんのホームページはこちら≫http://kuborie.com/index.html
【イントロダクション】
地域の保育所、小中学校、高校、短大に通い、その後長年、在宅でイラストレーター、絵本作家として働かれている、くぼりえさん。
40歳になる頃から重度訪問介護の利用を始めるも、「経済活動」中の利用制限により、サービス利用時には仕事ができないという障壁に直面します。
それまで、フリーのイラストレーターとして、さまざまな人とのつながりや信頼関係のなかで仕事をしてきたくぼさんにとって、「経済活動」中の利用制限は、これまで積み重ねてきたキャリアにも多大な影響を及ぼしかねないものでした。
仕事を続けるため、長年、その制限の中で、わざわざヘルパーのいない時間を作ったり、ヘルパーのいない早朝や深夜に仕事をしたりして、なんとか仕事をし続けていたくぼさん。何年間にもわたって、市にその問題を訴え続け、ようやく2022年4月から、枚方市の「重度障害者等就労支援特別事業」を利用して、在宅で公的な介助サービスを利用しながら働くことが可能になったそうです。
くぼさんのお話からは、障害のある人が仕事中に公的な介助サービスが使えないことによる理不尽さについて深く考えさせられます。
また、インタビューでは、くぼさんが書かれた『バースデーケーキができたよ!』の話題でも盛り上がりました。
その絵本に関して、くぼさんは「楽しいケーキ作りの本に出てきた主人公の少女が、べつに何の理由もなく、たまたま車いすだったってことにしたかった」と述べられます。くぼさんが、絵本に込めた想いとは……?
インタビューは全4回。
第1回は、くぼさんの中学校までのライフストーリーをお聞きしました。
両親と枚方市民の人たちの運動によって、地域の保育所に
油田:最初に自己紹介をお願いします。
くぼ:1974年生まれで、大阪府枚方市在住です。自宅のアトリエで、フリーのイラストレーターをしています。
生後6か月でSMAの診断をされました。全身の筋力がだんだん衰えていく進行性の難病で、生まれてから一度も、首がすわったことも、歩いたこともないです。
子どものころは、ピアノを弾いたり、本を持ってページをめくったり、鉛筆で字を書いたり、ご飯を自分で食べたりということも、できてたんですけど、全部できなくなりました。それを今は、テクノロジーの進歩で、自分ができなくなっていくことを補ったりしています。だから、自分の感覚としては「できなくなったことが増えた」というよりは、「道具や技術を駆使して今まで通りのことをまだだいぶできている」っていう、そんな感じ。両親とヘルパーさんと友人の手を借りて生活をしています。
油田:くぼさんは、地域の保育所や小学校に通われたんですよね。そこら辺の話を聞かせてください。
くぼ:寝たきりに近い重度障害児だったんですけど、両親は、支援学校より地域の学校のほうが私に向いていると思ったそうで、保育所から短大まで地域の普通校に通いました。
油田:小学校に入学されたのは1980年ですよね。当時にしたら結構ハードルがあったのかなぁと思うのですが、そこらへんはどうでしたか。
くぼ:そうなんです。小学校にいきなり入学っていうのは、私自身も受け入れるほうもお互い大変なので、みなさんが普通に保育所や幼稚園に行くのと同じように、小学校に通う前段階として、私も保育所に通おうとしました。でも、当時はまだそういう子どもたちが普通の保育所や学校に通うことはメジャーなことじゃなかったので、とにかく断られるんです。そこを、うちの両親や枚方市民のみなさんが運動をして、「こういう子でも地域に行けるように」といろいろ交渉を重ねてくれて、実現しました。車いすを持ち込んだ、重度障害児の保育所の受入れの(枚方市での)第一号として、保育所に通えることになったんです。
基本的に保育所は、両親が共働きじゃないと入れないんですよね。でも、私が障害児で、ほかの子どもたちと接する機会がすごく少なくて、ずっと家で過ごしていたので、「保育に欠ける」という理由で、保育所への入所を(専業主婦の母がいたけれど)認めてもらえました。
油田:へー! そんな経緯が。ご両親がいろいろ働きかけをされたんですね。
くぼ:そうですね。両親主導で。そのときの交渉の記憶は、たぶん(交渉の場などに)連れて行ってもらってないから、ないんです。あとから聞いたという感じで知りました。私は、当たり前に、普通に、保育所に入(はい)れたものだと思ってました。
地域の小学校へ 「他愛もないけんかができたことが、今思えば幸せかなって」
油田:保育所に行かれて、その後も地域の小学校に?
くぼ:小学校入学に関しても、当時は「就学免除」があって、「学校に来なくていいですよ」と言われた子どもでした。でも、「いやいや、それは困る」っていうことで親が立ち上がって、地域の小学校に入れてもらえるように交渉を重ねました。保育所に通えていたことが実績となって、すんなりではなかったと思うんですけど、地域の普通校の小学校への入学が認められました。
養護学級に籍を置いてましたが、養護学級の教室で一度も勉強したことがなく、当時の言い方で言う「原学級」、要するにふつうのクラスで、みんなと一緒に学ぶという感じでした。私が養護学級に籍を置いたことで、学校に先生がお一人増えるんですね。それで、私のクラスだけ二人担任でした。どちらが私の介助をするとは決まってなくて、お二人の先生が交互で授業をして、どちらかの先生が私とみんなを見守るみたいな感じの独自スタイルでした。
でも、介助といっても、トイレと着替えと移動は先生にお願いして、それ以外のこまごまとした、たとえばノートを出してもらうとか、給食を取ってきてもらうとか、車椅子を押してもらうとか、そういう身の回りのことは全部友人たちが自然にやってくれました。
油田:小学校で何か思い出に残ってることとか、どんな学校生活だったみたいなのはありますか?
くぼ:「ふつう」という言葉は、語弊があるかもしれないけれど、地域のみんなとふつうに勉強をしたり、ふつうにけんかしたり、ふつうに遊んだり、ふつうに悩んだり、切磋琢磨しながら、子供らしい学校生活をおくれたことは、私にとっては、ほんとによかったなと思っています。私がわりと、ノー天気というか楽天的で社交的なほうなので、友だちもすぐできて、学校は、大好きでとても楽しいところでした。委員会もやってみたいと思って、自分のできそうな図書委員会に入ってみたり、部活はバレーボール部に入りたかったけど、人気が高すぎて、ジャンケンで負けて手芸部になってしまって、なんだかがっかりしたり。体育も出席して、みんなと一緒に遊んで、ボールを顔面にくらったり。
私がやりたいってことを誰も「だめ」って言う人がいなかった。何でも「やってみたい」って言ったら、させてもらえたので、それはありがたかったかな。運動会も遠足もみんなと一緒。何かちょっと困ったことがあると、クラスのホームルームで「じゃあ一緒にやるにはどうしたらいいか」っていう話し合いをしてくれたり、ドッジボールのルールを変えてくれたり、いろいろあったなぁ。みんなでアイデアを出しながら、みんなと一緒にいろんなことができた、そんな学校生活でした。
小暮:先ほど「けんかもした」とおっしゃってましたよね。けんかできるっていうことは、それだけ仲が良かったり、(互いに)対等だったっていう証でもあるのかなって思うのですが、なんでけんかしたんですか?(笑)
くぼ:しょうもなすぎて覚えてないけど(笑)。障害児ならではのけんかもあったし、そうじゃないのもたくさんあったな。わりと私って「ちょっと優遇されてる」って思われがちなんですよ。雨や雪が降ってすごい寒い日は、感染症や冷えに弱いから「今日は体育の授業には出ません。見学。もしくは、一人で教室で自習します」って言うと、「りえちゃん、ずるい」ってなるんですよ。「私も休みたい」みたいな(笑)。そこでもめたりとか、「いや、だって私は」みたいに理由を自分で言ったりして。でも、そこで話ができるから、「あー、そうなんだ」って(相手も納得して)。その積み重ねで、そういう摩擦はだんだんなくなっていく。それから、(障害に)ぜんぜん関係なくいじってくる男子とけんかしたり。そういう他愛もないけんかができたことが、今思えば幸せだったのかなって。そんなやりとりから悪い言葉も覚えたしね。障害あるなしに関わらず、みんな一度は通る道を体験できたって感じですよ。
油田:すごく大事なことですね。
くぼ:そうですね。両親がなぜ地域の保育所や小学校に入れたかったかというと、たとえば、養護学校に入ったとしても一生そこで面倒みてもらえるわけではないし、卒業したら社会に放り込まれる。そこで初めてギャップが生まれて苦労するよりは、どっちみち社会に放り込まれるなら最初からっていう思いもあったって聞いてます。
学校に行く前の段階からインクルーシブな環境で共に過ごすことの大切さ
小暮:話を聞きながら想像していたんですが、くぼさんが小学校で周りの子たちとやりあえていた、その強さみたいものが身についたのは、保育所で育ったことが大きかったのかなぁとか……。
くぼ:それはあると思う。最初は「どうしたの? 何で歩けないの? 病気なの? 痛いの? これ何?」って質問攻めなんですよ。で、いちおう説明して。「なんかよくわかんないんだけど、病気で歩けないんだよね」「べつに痛くはないけど、優しく触ってね」みたいなことを言うと、「ふーん」って。で、もう(質問タイムが)終わったら、何の隔たりもなくふつうの子として扱われました。だから、大人になって同窓会で当時の保育所時代の友人に会うと、「障害児っていう概念が植えつけられる前に、もうりえちゃんがいたから、障害児と思ってなかった」って。それで、「今思えば、すごい難病で大変だったのね」って、「なんか扱いが雑だったかも。ごめん(笑)」って言われて(笑)。
油田:早い段階で、お互いが出会うのが大事ですよね。
くぼ:そうですね。「バリアフリー」っていう言葉は大人が考えた言葉で、そもそも子どもたちにはバリアがないから。なんだろう……、「ウルトラマンいるよ」って言ったら「あ、いるんだ」って、「サンタクロースいるよ」って言ったら「いるんだ」って、ありえないことでも「あ、そうなんだ」って受け入れる純粋な心がある。私みたいなちょっと変わった子がいても、実際に普段の生活の中に存在しちゃってると、それがふつうになっていくというか、だんだん慣れていって、どうすればいいかわからないってこともなくなるし、社会の輪の中で認められていくというか。
油田:あたりまえの光景になるというか。
くぼ:そう、お互い何の違和感もなかった感じ。
小暮:そう考えると、幼稚園・保育園っていう、学校に行く前の段階からインクルーシブな環境で共に過ごしていると、障害のある子自身も人との関わり方が身に着くし、周りの子も「そういう子たちがいる」ってことがあたりまえになって、そのまま小学校・中学校に行くから、お互いにとっていいですよね。
くぼ:そう。それに、必ず大人が私に専属みたいにべったり付き添ってたってこともなかったから、友人になんでもいろんなことを頼まないと毎日が過ごせなかったから、「ちょっとあのクレヨン取ってきて」とか「はさみでこれ切れないから切って」とか、常に誰かに何かを頼んでました。それが、状況に合わせて考えて生活していく訓練になってたのかな。
油田:ものを頼む訓練ってなんかいい言葉ですね。大事。
小暮:なんか、クラスに一人か二人、世話好きの子っていませんでした(笑)? やってあげたいって気持ちがめっちゃ強くて、常に来てくれる、みたいな友だち。
くぼ:いるいる! 2、3人はいる。
小暮:ですよね! これって女子ならではなのかな……? くぼさんのクラスにもそういう子いました?
くぼ:保育所のころからそういう友人が周りにいたと思う。頼みやすいし、ほんとに快くやってくれるので、よく頼んでました。その延長線上で、ちょっと興味があっても手が出せなかったような人も協力してくれるようになったり。小学校でも、自ら「あ、大丈夫?」って言って、私が何も言わなくても鉛筆拾ってくれたりとか、車いすを押してくれたりっていうのが自然にできる、そういう友人のおかげで、ひとりぼっちになったことは一度もなかったです。その友人と自分が、またさらにその周りの友人を巻き込んでいく感じで。あまり関わりたくない人は、自然にちょっと離れて見てる。みんな、なんとなく共存して一日を楽しんでるっていう感じでした。
中学で担任から「くぼさんのお世話当番」をつくられ……
でも、中学に入ったときに、それを学校が「当番制にします」って。一人の人が全部やっちゃうと負担になるから、それはよくない、「みんなで均等にお世話しましょう」と。
油田・小暮:えー
くぼ:それで、(私のお世話をする)日直みたいなのができたんだけど、やらない人は無視だし、やってあげたいと思ってくれてる友人も「当番」が決まってるから手を出せないっていう変な感じになって。やっぱりうまくいかないので、「当番制を廃止してください」って直談判して、当番制はなしになって、友人に自分で声をかけてやってもらう形になりました。トイレ介助に関しては、「私、くぼさんのおトイレやりますよ」って言ってくださった女性の先生が何人かいらっしゃって来てくれました。
油田:生徒同士のボランティアな行為とか、助け合いをコントロールするのは、違うって思うけど……。
くぼ:そう。小学校では困ることなくできていたから、「なんでだろう」と戸惑ったし、最初から違和感がありした。やっぱりうまくいかなくて。お世話が上手な人、やってあげようと思ってもうまくできない人、やりたいわけではない人、いろんな人がいるのが当たり前なわけで、強制するのは厳しいかなあと思いました。
小暮:今の「当番制」の話、先生は「くぼさんのお世話をする」っていう言い方をしてたんですよね。「お世話」っていう言葉で思い出したことがあって。私も高校のときに、部活も同じで受験勉強も一緒にやってて仲が良かった子とよく一緒にいたんですけど、先生から「〇〇さん(小暮さんのその友達)はいつも小暮の世話をしてるのか?」って言われて。その子は、そういうつもりで私と仲良くしてたわけじゃなかったから、「え?」ってびっくりして答えにすごく困ってたの。私も「お世話されてる」っていう感覚ではなかったから、「お世話をしてあげる」っていうような言葉を使うだけで、関係性が壊れちゃうんじゃないかっていう怖さを感じて。そういう言い方はやめてほしいって思いますよね。
油田:先生からは「お世話する人/される人」にしか見えないのかなぁ。友だちとの関係って、そこだけじゃないですよね。もちろんやってもらうこともあるけど、こちら側が与えてるものもあるというか。というかべつに、そういう利害関係で付き合うものでもないと思うし。その関係性を「お世話」って言葉にされると違和感がある。
くぼ:保育所と小学校では「お世話」という概念に囚われずに自然にやれていたからこそ、中学校でそうされた(「お世話」の当番制を導入されたこと)ことにすごく違和感があって。たしかにお世話にはなってるけど、お願いしてお世話になってるので、「お世話されてる」っていう感覚はないっていうか……。
そうそう、ちょっと今、思い出した。掃除当番みたいな感じよ。「早く帰りたいのに、今日は当番だ。運悪い」みたいな感じで、「くぼさんのお世話、あー、めんどくさい」みたいな。でもそれはわかるんですよ、だって強制されてるから。「やらされてる」から。だから、そう思う人がいるのは当然だと思うし。仕事でも何でもないのでね、学校での生活っていうのは。だから「お世話」でひとくくりにするとね、ちょっと「ん?」って思いました。
油田:友だちとの関係性を「お世話」とか「介助」って言葉でまとめちゃうのは、その関係性の豊かさを見てないと思うし、それこそ、「障害のある子はお世話の対象でしかない」みたいなメッセージも感じられて、それは違うよねって思います。
プロフィール
SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型|くぼりえ
1974年、大阪府枚方市生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)Ⅱ型。地域の保育所、小中学校、高校に通う。成安造形短期大学卒業。フリーイラストレーター、絵本作家。著者に、『バースデーケーキができたよ!』(2001)、『およぎたい ゆきだるま』(2006)。2022年4月から、枚方市の「重度障害者等就労支援特別事業」を使って、在宅で公的な介助サービスを受けながら働いている。
くぼりえさんのホームページはこちら≫http://kuborie.com/index.html
文/油田優衣
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