あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

大学進学から就活と「当たり前のこと」を経験して

Rika Kogure

文/染谷莉奈子・嶋田拓郎 : 写真/江﨑裕春

SMA(脊髄性筋萎縮症)・大阪府吹田市在住|小暮理佳(こぐれりか)

1996年生まれ。埼玉、広島を経て、幼少期から大阪で過ごす。現在は母親、父親と実家暮らし。生まれつきSMA(脊髄性筋萎縮症)のため、移動には電動車椅子を用い、夜間と疲労時に呼吸器を使用し、介助を受けながら生活している。

【イントロダクション】

小暮理佳さんは、SMA(脊髄性筋萎縮症)のため、子どもの頃から車椅子を使っており、家族やヘルパーの介助を受けながら生活を送ってきました。そのようななかでも、自らの「やりたい」という気持ちを大事にし、小中高そして大学と、通いたい学校に進学し、様々な活動にチャレンジしてきました。

一方で、就職活動では、時短勤務や介助者の利用など、自身の経験や能力とは関係ない理由で不採用が続きました。自身の就職活動をふまえ、制度だけでなく、企業側の意識も変えないといけないと強く感じたということを伝えてくれました。今回のインタビューでは、小暮さんの感じる、現在の福祉制度の問題を、同じ障がいを持つ当事者の油田優衣さんとともに深掘りしました。

(文/染谷莉奈子・嶋田拓郎

目次

「ぶち込まれた」普通保育園と幼稚園、
それから小・中普通学校進学

——幼少期~大学進学に至るまでについてお聞きしたいのですが、小学校に入学するまでは、保育園や幼稚園などに通われていましたか?

小暮:はい。親が日中家にいなかったわけではなかったのですが、わたしは保育園に入りました。当時の理学療法士さんから、「この子は早い段階から、みんなに揉まれて育ったほうがいい」と言われて、ぶち込まれました(笑)。そのため、幼い頃から周りに健常の子が多めの環境で育ちました。小学校は、多くの場合、特別支援学校か普通学校に行くかで自治体から選択肢を提示されるじゃないですか。でもわたし、それがなくて。周りの大人からは、「あなた普通学校でしょ」みたいな感じの扱いでした。

油田:うらやましい。わたし、小学校入ったときは鳥取だったんですけど、普通小学校に入るために結構家族が交渉してくれたと記憶しています。また、小2から中学出るまでは特別支援学校に通っていました。理佳ちゃんに会ってから、「それっておかしいと思わなかった?」って言われて、すごくギャップを感じましたね。大阪すごいなと思って。

小暮:なので小学校は当たり前に普通学校に行きました。ただ、同じ敷地内にあった特別支援学級に籍を置いていないと介助を受けられない決まりだったので、週に1回2コマ、支援学級に授業を受けに行かないといけなかったんですよ。普通級の授業もあるのに、それを休んで。その時間は、たとえば絵を描いたり、映画を観たり、点つなぎしたりといった内容だったんですけど、それがすっごく退屈で。その間、普通に教室では算数とか国語とか授業をやっているのに、わざわざ出なきゃいけなくって。勉強遅れるじゃないですか。遅れるのはわたしのせいじゃないのに。なので、最終的には、その時間は学校に行かないという選択をとりました。

それと、小学生の頃は簡易電動車椅子を使っていたんですけど、学校に着いたら「他の子にぶつかったら危ないから」という理由で、電動車椅子のバッテリーを抜かれて戸棚にしまわれて、先生の許可がないと動き回れなかったので、とても困っていました。「これはおかしい」と言って抵抗しても、先生に抱っこして教室の椅子に連れていかれるから、これまた「学校に行かない」という選択をとって、結果、小学校6年間は不登校気味でした。

——中学校はいかがでしたか?

小暮:中学校は小学校と真逆だったんですよ。なんかすごくセンスのいい支援学級の先生がいて。その先生は「自分でできることは自分でやりなさい」みたいなタイプで。ただ、すべてを自分でやるのではなく、「いろんな人に助けを自分で求められるようになりなさい」っていう感じで、「そういう強さを身につけたら将来絶対楽だから」っていうので、「積極的に友だちだったり、周りの先生だったりとかに頼みなさい」って、自由に行動させてくれました。

油田:ところで電動車椅子問題はどうなったの?

小暮:私のお母さんが教育委員会にも言ったのに改善されなかったので、小6のときに、「じゃあバッテリー抜けない車椅子を買ったらいいじゃん」って、初めて本格的な電動車椅子を買いました。無理矢理抜けなくするっていうお母さんの斬新なアイデアですね。

——「抜けない車椅子買ったらいいじゃない」っていうのはいいですね。かっこいいですね。

小暮:初めてそれを小学校で乗ったとき、支援学級の先生から「え?」みたいな顔をされました。「どういうことですか?」みたいな。でも抜けないものは抜けないので、結果それに乗って残り少ない学校生活を送りました。

——小・中と、友人との関係の変化はありましたか?

小暮:中学生になって、友だちと密に関わるようになって、初めて休みの日に遊びに行ったりとか、家で遊んだりするようになりました。加えて、インクルーシブ教育だったからこそ、いわゆる女子のいざこざみたいなやつもしっかり経験しました(笑)。これってたぶん、特別支援学校に行ってるとなかなか経験しないことですよね。でもこの経験があったから、大人になって社会に出たときにもラクだなと感じることはあります。

大学進学は高校進学と同時に決めていた

——高校選びはいかがでしたか?

小暮:高校はまず、私立か公立か支援学校か、3つ選択肢がありました。私立ははじめから介助員がつかないっていうことだったので、選択肢としてはなくなりました。だから公立高校に絶対行きたいと思っていました。それで初め、公立高校の説明会にお母さんだけ行ったのですが、あまりいい顔をしない高校もありました。そこからは学力と照らし合わせて、最後は実際にわたしも支援学級の先生とお母さんとで学校見学に行って決めたという感じでした。

——高校生活3年間は介助を受けながら3年間過ごせたということですか?満足度はいかがでしたか?

小暮:そうですね。介助員さんは、プロの介助者ではなく、高校の事務の人が探してくれた、普通のご近所さんの主婦の方が来てくれました。わたしからすると、介助員さんは先生たちと同じく、わたしをサポートする人という位置づけだったのですが、学校側は、介助員さんに対してどこか「外部の人」のような感じの扱いだったので、「これ介助員さんに伝えといて」とか、連携が上手くいっていないと感じることは結構ありました。もうちょっと介助員さんにも会議とかに出てもらっても良かったし、一緒に過ごす仲間として扱ってほしかったなって。あとこれは制度の壁なのですが、高校3年間、書道部に所属していたのですが、部活中は介助員さんがつかなかったのはとても困りました。夏休みとか文化祭前とか、長く部活をするとき、トイレや災害時等緊急時どうするかという問題は3年間ずっとつきまとっていました。夏休みは、余った時間数をトイレ等に使うために介助員さんに1時間だけ来てもらったりしていました。あと書道部なので展示会とかに出展することもあったんですけど、それも介助がつかないから、行った先のトイレとか、帰りどうしようとか、そういう心配は尽きませんでした。

——卒業後の進路のことって、いつ頃から考え始めましたか?

小暮:高校に入った時点でもう大学に行くっていうのは決めていました。家の近所に関西大学があったので、ここに行けたら近いし最高じゃん!と思っていました。家から近いところにした理由は、高校からの下校時、介護タクシーを利用していたのですが、介護タクシーは予約が必要なので、1週間前くらいから帰る時間が決められていて、不便だったからです。この日は何時にタクシーが来て、そのあとヘルパーさんが家で待っていて…。だから絶対その時間に帰らなきゃいけないって、時間が決められた生活を3年間送っていたんです。でも部活とかで盛り上がったりとか、部長会議があったりとか、文化祭でちょっと残ってみんなで準備するときも、そこで帰らないと、その後の計画が丸つぶれになるので、帰りたくないけど、帰らなくてはいけないというもどかしさは3年間ずっとありました。かといって一人で帰れるような距離ではなかったので、他の選択肢はなかったです。なので、この経験があったから、大学はサークルとかに入って、夜遅くなってもすぐに帰れたり、お母さんが家からすぐ迎えに来られたりするところがベストだなと思って、関西大学を選びました。

——大学での介助制度の問題は?

小暮:ラッキーという言葉で片付けたくはないのですが、そこはラッキーなことに、全然苦労していなくて。大学に合格して、速攻お母さんと市役所に行って「わたし、大学に受かりました。で、お母さんも大学院に受かりました。なので重度訪問介護を使いたいんですけど」って言ったときに、職員の方が、建設的対話ができる方だったので、「もうせっかく受かったんだから使ってください」って感じで、時間数ばーん!って出してくれたっていう感じでした。

——すごい。ただ、いきなり介助がつくとなると、慣れずに混乱しませんでしたか?

小暮:中学2年の終わりぐらいからヘルパー制度を利用していたので、そこまで混乱はしませんでした。ヘルパーさんによる介助を利用したきっかけは、お母さんの大学入学です。一般の学部生と同じく、日中家にいなかったんですよね。だから、中学校からの帰宅後、居宅介護から使い始めました。最初は1日に1時間半、そして夏休みに1回だけガイドヘルパー(移動支援)を使うぐらいで。高校の登校はお父さんの車で送ってもらって、下校は介護タクシーで帰ってきて、家に着いたらヘルパーさんがいるみたいな感じでした。そうやって、大学に入学する前から必要に応じて、継続して支援が受けられるようにしていました。

 

※第2回では、小暮さんの就活レポートをお伝えします。

プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)・大阪府吹田市在住|小暮理佳(こぐれりか)

1996年生まれ。埼玉、広島を経て、幼少期から大阪で過ごす。現在は母親、父親と実家暮らし。生まれつきSMA(脊髄性筋萎縮症)のため、移動には電動車椅子を用い、夜間と疲労時に呼吸器を使用し、介助を受けながら生活している。「ペケーニョ」という屋号で、手づくりアクセサリー販売などの活動も行っている。

文/染谷莉奈子・嶋田拓郎

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