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連載1回目

海老原宏美さん没後1年追悼企画:講演録「私の障害は誰のせい? ~介助者とのインクルーシブな社会を目指して~」前編

Hiromi Ebihara

文/油田優衣 : 写真/向山夏奈さんより提供いただきました

故・海老原宏美さんプロフィール

1977年、神奈川県川崎市生まれ。1歳半で脊髄性筋萎縮症と診断される。車いすを使いながら小学校、中学校、高校と地域の普通校に通い、大学進学を機に一人暮らしをスタート。大学卒業後の2001年、韓国縦断野宿旅「日韓TRY2001」を経て、同年11月から東京都東大和市で自立生活を開始。2002年からは自力での呼吸が難しくなり、人工呼吸器を使って生活した。
2008年に自立生活センター東大和の理事長、2009年に「呼ネット」(人工呼吸器ユーザーネットワーク)の副代表と東大和市地域自立支援協議会の会長、14年にDPI日本会議の理事、2015年に東京都自立支援協議会の副会長に就任。2016年には東京都女性活躍推進大賞を受賞。
著書に『まぁ、空気でも吸って』(現代書館)、『私が障害者じゃなくなる日』(旬報社)。
2021年12月24日、脊髄性筋萎縮症の進行に伴う肺性心のため、44歳で逝去。

【イントロダクション】

2021年12月24日に、44年の生涯を閉じられた海老原宏美さん。海老原さんは、インクルーシブな社会の実現のため、文字通りその身を削って活動されてきました。その想いは、海老原さんと関わりのあった一人ひとりに受け継がれ、今でもそっと私たちを支えてくれていると思います。

本記事は、2019年12月22日にDai-job high主催で行われたイベント、「私の障害は誰のせい? ~介助者とのインクルーシブな社会を目指して~」(於:東京都武蔵野市「かたらいの道市民スペース」)での海老原さんの講演録です。

講演の最初の方では、幼少期から自立生活をするまでに至る海老原さんのライフストーリーが語られました。本記事では、分量の都合上その話は掲載しておりませんが、気になられる方は、『〔増補新装版〕まぁ、空気でも吸って』(現代書館)をぜひお読みください。
2001年の「日韓TRY2001」の参加をきっかけに、「『地域で当たり前に生きること』自体が、障害者である自分にできる大きな仕事なんじゃないだろうか」と気付き、その後、東京都東大和市で自立生活を始められた海老原さん。18年間の自立生活の中で、介助者の変化を感じていました。
そして、本講演のメインの話として、海老原さんの介助に入るなかで劇的な変化を遂げた介助者として、現在は現代書館で編集者としてご活躍されている向山夏奈さんのお話が紹介されました。向山さんが海老原さんとぶつかりながら変化していくお話からは、重度の障害者が地域で生きることやそれを支える介助という営みがもつ可能性について考えさせられます。
後半にはパネラーとして、かつて新田勲さんの介助に入っておられた深田耕一郎さん(女子栄養大学)をお迎えし、介助者との関係性の作り方や介助者コミュニティは今どうなっているのか、どうあるべきなのかについて、海老原さんとじっくり語っていただきました。

※本記事の作成にあたっては、向山夏奈さん(現代書館編集者)と深田耕一郎さん(女子栄養大学准教授)に、原稿のチェックや修正をしていただきました。心より感謝申し上げます。

(文/油田優衣

目次

2018年4月東京都東大和市内の公園にて、お花見のときに。

近ごろ実感している介助者の変化

私は東京都の東大和市で、重度訪問介護というサービスを1日24時間支給決定されています。私のところでは「ヘルパー」じゃなくて「アテンダント」と呼んでいます。そっちの方がかっこいい気がするから、そう呼んでいるだけなんですけど(笑)。私の1ヶ月間を支えてくれているアテ(アテンダントの略)は15人ぐらいいます。自薦というのは、私が自分で「誰か私の介助しない?」って声を掛けて、自分専属の介助者を見つけてきて、事業所に登録をして、私専属に入ってもらっているアテンダントのことです。人工呼吸器や胃ろうの注入などの医療的なケアもありますが、私のアテは、学生だったり主婦だったりと、普通の素人の人達がいっぱいいるんですね。医療的ケアも日常生活の介助なんだよということで、やってくれています。介護福祉士の資格とか持ってる人は誰もいないんじゃないかな。好きじゃないから、そういう専門の人が(笑)。
こういう生活を18年、地域で送ってきて感じることは、アテンダントの変化です。たくさんあるんですが、主なものを挙げていきます。
まず、指示をすればできるんだけれども、自分では気づかないっていう人がものすごく増えたなと思っています。例えば、私は今、(電動車椅子の)後ろに酸素ボンベを置いています。それと人工呼吸器を繋ぐチューブがあるんですが、それがたまに、車椅子にかかってなくて、ピョンって床に落ちてる状態でズルズル引きずりながら歩いちゃう、で、タイヤにガリガリしながら歩いているみたいなことがあるんですね。丈夫なチューブだから、そんな簡単には破れたりはしないけれども、危ないじゃないですか。だって、酸素漏れちゃったら、気絶しちゃう。後ろにあるから、私にはどうなってるかが見えなくて、「そういう見えないところのことは自分で気づいてね、教えてね」って言ってるんですけど、なかなか言わないと分からなかったりすることがあります。カバンが開けっ放しとか、ポンチョがタイヤにビリビリに擦ってるとかもよくあります。そういうことに気づかなくて、指示待ちで受け身っていう感じの人がすごく増えてるかなって思います。
そして諦めやすい。昔は「障害者に出会ったことがないから、ぜひ障害者の介助やってみたいんです。興味があるんです。障害者に関わりたいんです」って言って、アテの応募をしてくる人がいたんですね。だけど最近は、「別に障害者に関わりたいわけでもなくて、ただなんとなく時給が良かったし、家の近くだったらいいかなと思って来ました」みたいな人も結構増えています。別にそういうのが悪いって意味じゃないですよ。そういう人達が増えているので、ちょっと強く注意をしたり、「そんなふうにされたら、私困るんだけど」とグチグチ言ったりすると、「もう面倒くさいから辞めます」ってなって、すぐ辞める人が多いですね。その時に「あぁ、そうだったのか。障害者の人はそういうふうにされたらしんどいんだなぁ……」とかって思う介助者が減ってきてるのかな。
そして、議論をしない人たちがすごく増えている。例えば、未だに、電車に乗ろうとすると、「1番後ろの車両に乗ってください」と言われることがたまにあるんですよ。その時に、「私、1番後ろとか遠いから、乗りたくないです。降りる駅のエレベーターに近いところがいいです」って言うんだけれども、(駅員から)「いや、困ります」って言われて、ちょっと喧嘩みたいになるんですね。だいたいは押し通して、自分が好きなところに勝手に乗るんですけど、その時にアテに「どう思う? ひどくない?」って言うと、「えぇーと……」みたいな、「んー、どうなんですかね……」、終了~みたいな。えー!ってなるわけですよ。昔だったら私以上に怒るアテがいたんです。自分から駅員に突っかかっていって「それおかしくないですか!?それ差別ですよね!?」「駅長室行きますよ!」みたいな人とかもいたわけですよ。そういう人がいないなぁっていう感じがしていますね。

海老原さんの生き方に衝撃を受け、「自由」になっていった介助者たち ~向山夏奈さんのお話~

でも、私は常に、言いたいことは言うし、やりたいことはやっている。そういう私の自由すぎる生き方に、介助をやっていくなかで衝撃を受けて、「え、こんなのアリなんですか!?」みたいにびっくりする人がいるんですよね。で、そんなふうにびっくりしたアテンダントのなかから、「私も自由になりたい!」って言い出す人、「そういえば、私もいろいろ我慢してた!」と本当に気づく人たちが出てくるんですね。それで公務員――主に教員ですけど――を辞めた人とか、「結婚の約束があったけどやめました」みたいな人とか、「就活しようと思ってたけどなんかくだらないな」って言って就活をやめた人とか、「ちょっと世界を見てきます」みたいな人が出てきてますね。まぁそれは何百人もの介助者のなかでも数パーセントですけど。でも、確実にこういった人たちも出てきている。
じゃあ、私とどういう関わり方をして、どんなやりとりがあって、こんなふうに解放され自由になっていくのか。これらを考えるにあたって、ごく最近、そのような変化を遂げたアテンダントがいたので、本人の承諾を得て、そのケースをご紹介したいと思います。向山夏奈さん。本人が「ぜひ紹介してください。光栄ですよ」と言っております。
彼女は2018年3月から2019年2月の約1年間介助に入っていました。介助に来た経緯がまた特殊で。大学を卒業したんですけれども、就職活動を失敗というか、まぁ出版業界に行きたかったんだけど、内定がでなくて、やだなぁと思って、大学院に進学しています。専攻は社会学。修士論文をなんのテーマにしようかなと思ってた時に、私とは別のSMAの女性に会って、「この人、こんなに体動かないのに、なんでこんなに前向きで、明るくて、元気なんだろう?」と思って、その人のインタビューを始めたそうなんですね。この研究テーマを深めたいなと思って、研究テーマをSMAの人の人生のあり方みたいなことにシフトしていき、その女性から私を紹介された、という感じで出会いました。
最初に「修士論文のテーマとして、SMAの患者さんたちの人生や生き方に向き合いたいと考えています」「インタビューさせてください」ってメールがきたんですね。それで、「おい!」ってなって(笑)。先天性障害の人と中途障害の人と感覚が違うところはあると思うんですが、私にとってはSMAっていうのは自分の一部なので、全然患っている感じないんですよね。で、「「私には患っているという意識がないので、患者と呼ばれることには抵抗があります。人生や生き方を知りたいなら、介助に入るのが一番かと思いますが」と返した。で、ビビったんですね、夏奈ちゃんが(笑)。でも、まず掴みが大事かなと思って、こういうふうに言いました。
そのあと初めて会ったときにも、私は「インタビューとかでわかんなくない?」って言ったんですよね(笑)。「何回かインタビューするだけで、私の生きざまとかわかるわけないじゃん。本当に知りたいんだったら介助に入りな」と言って泣かせましたね(笑)。
この人なんか強いことを言うなぁ……っていうインパクトを最初から与えつつですね、それを心に引きずらせるっていう感じですね。でも本当は、実はちょうど土曜日の日中のアテが辞めることになっていて、「やばい!後任がいない!」って思ってた時期だったんです。で、そんなときにめっちゃ真面目そうな大学院生がやってきて、やった!ってなったんですね(笑)。これは押せばいけるっていうふうに思いました。

「やる気」がありすぎる介助者は扱いが難しい

夏奈ちゃんは今まで障害者と関わったこともなかったのに、最初にちゃんと関わろうとした障害者が、人工呼吸器や胃ろうを使っている重度障害者で、ちょっと間違えたら死んじゃうんじゃなかろうかというような人だった。そして、そんな人から、私の命を引き受けよって言われたわけですよね。それでもうしり込みするわけですよ、夏奈ちゃんは。どうしようどうしようって。後にも引けないし、どうしたらいいんだ私は!って。そうなってる時に、私は「でもさ、あなた障害者のこと知らないから、ただ怖いだけだと思うよ。これ留学なんかと一緒で、異文化だから。あなたアフリカとか行ったことないでしょ? アフリカにポッと留学するような気持ちでやればいいんじゃないの?」って言ったんですね。そしたら、俄然やる気になります、彼女は(笑)。「そうか、留学ならできるか!」みたいな感じですね。
こういうふうに、なんていうんですかね……、海外で日本人だってわかると、高額な値段で吹っ掛けてくるお土産屋さんっているじゃないですか。最初に100ドルだよって言われて、「ちょっと高くない?」って言ったら、「じゃあ50ドルでいいよ」とすごい値下げする。でも、現地の人にとってみれば、まだまだ5倍みたいなね。それと一緒かなっていう。……すごい悪い人みたいな感じがしますね(笑)。まあでもそういう感じでした。
ただ、ここで俄然やる気になってくれてはいたんですけれども、その「やる気」っていうのが結構(扱いが)難しくて……。役に立たなきゃ!とか、一生懸命やります!何かしてあげます!みたいな気持ちが強すぎる人って、扱いが大変だったりするんですね。喩えるなら、家族で食卓を囲んでいる時。「ねぇ、お父さん、ちょっとそこの醤油取ってー」「あいよー」ってなるんだけど、「醤油取ってー」と言った時に、「よし!お父さん、醤油取るぞ!かけてあげようかー!どこにかけるんだー!」とか言って、熱心に醤油を取られたら、ちょっとうざいじゃないですか。「いや、普通に取ってよ」みたいな。それと一緒で、私にとっては普通の生活なんですね。別に、やる気のある生活とか、頑張ってる生活ではなくて、ごく普通の生活に、普通に入ってきてほしい。やりすぎても、すごくしんどいです。
なので、やる気の空回りというのを防ぐために、アテンダント全員に渡している介助マニュアルの最初の「アテンダントであるということ」という、アテとしての心構えみたいなものを書いてあるページに、「あなたは私ではないので、私の大変さは分かりません。そして私は介助をしたことがないので、介助の大変さは分かりません」って書いてあるんですね。夏奈ちゃんは、これがすごいショックだったみたいで、「「いいこと」してやるぞ!とやる気満々だったのに、いい意味でそれを削がれた」って言ってましたね。でもその空回りというものを防ぐためには、必要なのかなと思っています。

講演会でお話する海老原さん

夏奈ちゃんの気づき「介助者の『都合のいいように生きてほしい』を強いるのは、入所施設と一緒」

そして、「やる気」のコントロールっていうわけではないですが、「あくまでもこれは私の生活であって、あなたが何かをしてあげたいという気持ちを実現するための場ではないんですよ」っていうことを実感として伝えていくために、介助に入り始めたころは、いちいち全部注意する。その洗濯物の干し方違う、この洋服の着せ方が違う、髪の縛り方はそうじゃない、ああじゃない、こうじゃない、できてない、違う違う違う違う……って言い続けるんですね。で、一切妥協しない。私はこうしたいんだと言い続けます。それにすごく戸惑ったっていうんですよね、夏奈ちゃんとしては。頑張ろう、人のために私は働くんだと思って(介助に)来たのに、全然心地よくない。いつも怒られてばっかりで、すごい嫌われてるんだと思ってたんですって。「始めたばかりなんだから、ちょっとぐらい妥協してくれたらいいのに」「慣れてないこと知ってるじゃん」っていうふうに思ってたみたいなんですね。私と夏奈ちゃんの間が険悪なムードになったりするわけですよ。だけど、私は絶対曲げないんですね(笑)。「仕事だからちゃんとやって」と言い続ける。
すると、その妥協しない姿にだんだん尊敬の念を抱いてきたと(笑)。どんなに険悪になっても、意思を曲げないというのは、どれだけ大変なことなんだろうと思ったときに、もしかしたら、私はこの人の大変さを簡単に理解してはいけないのではないかと感じ始めたそうです。そして、ここが彼女のセンスの良かったところだなぁと思うのですが、夏奈ちゃんは、自分が海老原さんに対して、どこかでもっと妥協してくれればいいのにと思ってたのはなんでだろうって考え始めたんですね。それは、自分にとって、海老原さんがもっと都合の良い存在であってほしいと思っていたからだと気づいたんですって。それまでは、ちょっとした服のシワぐらい我慢したらいいじゃん、もうちょっと髪を短くして結びやすくしてくれたらいいじゃん、もうちょっと着脱しやすい服にしてくれたらいいじゃんって、ちびちび思っていた。でも、それは自分にとって都合良くあってほしいという思いからだった。介助者の都合のいいように生きていってほしいということを利用者に強要するのは、それはもう本当に、入所施設と一緒なんだと感じたそうです。
そして、自分は、SMAの人たちがどうしたら地域で活き活きと自分らしく明るく元気に生きていけるのかを研究するために、研究テーマとして介助に入った。なのに、いつの間にか自分は、障害者を抑圧する側に回っていた。その事実に気付いて、すごくショックだったって言うんですね。そして彼女は、そのことについて考えを深めていったわけです。
それまでの夏奈ちゃんにとっての人生の価値観は、とにかく周りの人たちに「はいはい、そうですね」と言って、なるべく都合のいい、良い子ちゃんでいることが大事だった。だからこそ、自分も他者に対して、「自分にとっていい子ちゃんでいてください」というふうに感じていた。そう気づくんですよね。
でも、海老原さんは全く違う生き方をしているんじゃないか。それこそが、「自分自身を生きる」ということなんだということに気づいたそうなんです。なかなかここまでいく人っていないんですけど、研究テーマとして入っていたので、いろいろ自分で考察をしたそうなんですね。

私のことだけではなくて、私と社会との関わり方も介助してほしい

もう一つ、夏奈ちゃんは、介助に入っていて困惑したことがあったそうです。こういう講演会の後って、打ち上げや交流会があって、お酒が出るじゃないですか。私は日本酒派で、日本酒を毎日飲むんですね。で、介助についてるアテにも、別に飲んでいいよって言うんですよ。で、「え、いいんですか? 私、介助中ですけど……」って言うんだけども、「飲んだくれて、ベロベロになって、駅から落とすとか、そういうことがなければ、別に飲んでいいよ」と私は言うんですね。
なぜかというと、私だけに関心や意識を向けるんじゃなくて、私がどういうふうに周りの人と関わっているかっていうことにも関心を持ってほしいからなんですね。飲み会っていう楽しい雰囲気のなかで、黒子みたいに小さくなって、「もう私のことは、いないものと考えてください」みたいな雰囲気を1人悶々と出してたら、ちょっと場がシラケるじゃないですか。そうじゃなくて、一緒に楽しめばいいんじゃない? 場の空気を作るのも介助の一環じゃない? っていうことを伝えたり。私、飲んだり食べたりして口のなかにものが入ってる間って、すごい集中しないと誤嚥するんですよね(笑)。モグモグしてる間、あなたが話をして間を繋いでくださいみたいな、そういうこともあってですね。私のことだけではなくて、私がどう社会と関わっていくかということについても介助してほしい、介助っていうのは私が生きることを一緒に生きることだからっていうふうに伝えたんですね。
そしたら、夏奈ちゃんは「自立生活センターでは、介助者は「黒子」で「ただの手足」として考えられていて、自分の意思や感情を持つなって言われてるんだけど、そうじゃなくていいんですか? 無色透明な存在でいなさいってよく言われるけれども、そうじゃなくていいんですか? 自分の素を出しちゃっていいんですか?」となって。私は「そうだよ、それでいいよ」と。「ちゃんと自分の個性を出していい、そこで」と伝えてました。私は、アテンダントにもある程度の自律性やその人らしさを求めていくんですよね。アテンダントに対して、「こういう場に行くけど、あなたはどういうふうにしたいの?」とか「どういうふうに振る舞うことがいちばん心地がいいの?」みたいなことを聞いたり、「あなたはどんな人生を送りたいの?」とか「今いる場所がつまらないんだったら変えてみたらいいじゃん」みたいな話を夜な夜なするので、アテンダントも自分の自律性とか、自分はどういう人間なんだろうか、どういう介助者なんだろうかということに向き合わざるを得なくなっていくんですね。
それって、すごく面倒くさいと思います。私は自立生活センターで活動してるんですが、自立生活センターっていうのは※1、健常者の体とか労力――介助のスキルの部分ですね――を「お金で買う」っていう感覚なんですね。お金で買うんだから、嫌なことも文句言わずに、割り切ってやってもらう※2っていう感覚。それは、アテンダントの体を自分の生活に必要な「道具」として使っているような感覚かなと思うんですね。道具でしかない。で、その人が辞めたら、別の人を派遣してもらって、またその道具を使って、生活を組み立てていくという感覚が強い気がします。福祉社会学者の前田拓也さんは、自立生活センターのこういった点を「出入り自在なコミュニティ」というふうに呼んでいました※3

自分の人生をどうしたいか、障害者や社会とどう関わるのか、介助者に突きつける

一方、私の場合は、あなたの身体だけを貸してねって言っているんじゃなくて、あなたは自分の人生を、介助者として動いているその人生を、どうしていきたいのかみたいなことをしょっちゅう聞いたり試したりするんですよね。介助をしているその人の、人生をも介入させる。「道具」としての介助者だったら、時間とスキルを切り売りしているだけだから、やめたいときにやめられる。でも、私は死ぬまで障害者で、どんなに嫌でも障害者をやめることはできない。だけど、あなたは介助者として来ていて、介助は嫌になったらやめられるよね。なんかそれってアンフェアじゃない?みたいなこともどんどん突きつけるんですよね。どんな覚悟をもって介助やってんだみたいなことをちょいちょい小出しにすると。意図的にやっているわけではないですけど、それでなんとなくアテに後ろめたさを抱かせるというか、介助者によっては「何を求められてるのかな」「え、私もっと頑張らなくちゃいけないのかな?」みたいに思ったりもするらしいです。全員に対してじゃないですよ。関わったら面白そうだなって思う人には、こういうことを突きつけていくことが多いですね。それを夏奈ちゃんはさっきの「出入り自在なコミュニティ」に対して「逃げられない関係」だと表現しています。そのなかでは、自分ってどういう人間なんだろうかとか、どういう価値観で社会を見ているのか、どのように障害者に向き合っているのかということを考えざるを得なくなる。そういう関係性を作っていくということですね。
で、すっかり私のペースに巻き込まれまくった夏奈ちゃんはですね……、最後の2月、介助をやめる直前に修士論文を書き上げて、精神をものすごく消耗しちゃったんですって。その状態でフラフラでお酒飲んで、その夜中に、自分の家の近くの駅で転倒して、顔面を強打して歯が折れて顔中が血だらけになったんですね。それは介助の前日で、夜中の1時過ぎに「海老原さん、ごめんなさい。今救急車に乗っています」ってLINEが来たんですよ。えー!ってなって。次の朝9時だから、今から交代探すのも難しいなあ……って。でも、とにかく1回病院で処置してもらって、様子がわかったらまた連絡しますって言って、次に連絡がきたのが夜中の3時半くらいで、「歯がないだけで身体は元気なので、明日は介助に行きます!」って言うわけですよ。偉いなぁ〜と思って。まぁ、逃げられない関係ですよね(笑)。責任を持って行きますみたいな感じで。次の日、もうボロボロの顔で、顔中マスクで隠して(介助に来たんです)。歯がないだけじゃなくて、もう顔中ズルズルなんですよ。ほんと、よく来たね!と思って。「でも、私がいないと海老原さんが」と言って(介助に)来たんですよね※4。最初はあんなに介助に入るのが怖くて、ぴーぴー泣いてた子が、歯が折れても(介助に)来る、たくましい感じになってですね……。本当にありがたいアテでした。ほんとに素敵なアテでした。

自分の姿を見せることで「一人でできなくたって大丈夫」を伝えていく

夏奈ちゃんは、社会学者の立岩真也さんを引きながら、この社会を「自己完結を求める社会」というふうに言っています※5。とにかく自分でできなくちゃいけない。人に迷惑をかけてはいけない。自分でできることを増やさなければいけない。そして、社会や何かに対して貢献しなければいけない。役に立たなければいけない。これは「働かざる者食うべからず」ということわざにも表れていますよね。ちゃんと働ける人は食べてもいい、だけど、働けない人、貢献できない人は、食べ物が少なくてもしょうがないというような社会的価値観ですね。そして、最近、教科化された道徳の教科書にも、「権利というのは、義務を果たした者に与えられる」というようなことが平気で書かれているわけです。いや、本当は全然違うものなんですよ、権利と義務っていうのは。全く別物なんだけれども、セットで考えられてしまっていて、働けない者や義務を果たさない者は、安心した生活をする権利が脅かされてもしょうがないというようなことが道徳の教科書に書かれている。そんな恐ろしい時代になっているんですよね。
人に迷惑をかけてはいけない。自分でできなければいけない。相手の期待を正しく捉えて、それに応えていかなければいけないというような社会規定から外れた人は、全員不正解みたいな扱いを受けていると思うんです。この不正解であることが、いわゆる障害者――概念的な障害者ですよ。機能障害ではなくて。「あの人はちょっとおかしいからね、あの人はうまくやっていけないからね」って言われて、社会のなかからはじき出された人という意味での障害者――を作り出していると思います。今、機能障害ではないと言ったけれども、実際に機能障害のある人も一般就労ができなかったり、社会に対する貢献度、経済的な貢献度はすごく低いというふうに言われたりしていますよね。そういう意味でも、「障害者」というものをたくさん作り出しているんじゃないかなと思うんです。

そんな社会のなかで、重度の障害者が介助者と一緒に生きるというのはいったいどういうことなのか。
まず、(重度の障害者は)自己完結できない人間なわけです。私は自分ではトイレにも行けないし、着替えもできないし、お風呂も入れないし、ベッドへの移乗ができないし、外にも出れないわけですよね。そういう自己完結できない人間であったとしても、地域で普通に生きていっているぞ、と。むしろ活き活き生きてるぞ、と。そういう姿をいろんな人に見せつけていく。そして、「あなたもこっちの生活にちょっと関わってみたら?」と、自分の生活に巻き込んでいく。これが、今ある世の中の価値観を揺るがしていく過程になるのかなと思うんですね。自己完結していなかったとしても、それを補完してくれる資源――それはヘルパーのサービスであるかもしれないし、「人サーフィン※6」をしているときに手を貸してくれる人たちでもあるわけですけども――があれば、人生は十分豊かになりえる。そのことを一緒に共感して、共有していく。できなくたって大丈夫なんだっていうことを、自分の姿を見せることで実証していく。そういう効果があるかなと思います。
私がとにかく、いろんな人にいろんなことを頼むじゃないですか。あれやってくれ、これやってくれって。介助者は何度も利用者に頼られる、頼まれるわけですよね。それで、頼られ上手になると、今度は自分も、「ちょっとこれお願いしていいですか」って誰かに頼れるようになるんじゃないかなと思います。そういうことを介助者に自分の身体をもって伝えていくことによって、「この世の中ってお互い様じゃん。手を貸してもらうこともあるけど、自分も手を貸せることもあるよね。だから別に、自分一人でやらなくちゃ、できなくちゃって思う必要はないよね」っていうことを実感として伝えていけるんじゃないかなと思うんですよね。「お互い様文化」ですね。
で、これは私の考えなんですけど。人は誰かの役に立ちたい、何かの役に立ちたいって思ってると思うんです。それを前提に考えると、私が何かをできなくて、「ちょっとこれ手伝ってくれますか」って声をかけて手伝ってもらうと、その相手の人は、私の役に立ったわけじゃないですか。それって気分がいいですよね。だから人に何かを頼むことは、その人の気分を良くしていくことだから、それはそれで私貢献してるじゃんって思うわけです。夏奈ちゃんが言うには、こういう私の生き方は「他者の介入可能性のある世界」であって、これが「自己完結を求めている社会」、つまり、何でも一人でできた方がいいとされる社会に対するアンチテーゼになっていくと。「別に一人でできなくていいじゃん」っていうことを、介助者にも刷り込んでいくというか、伝えて巻き込んでいくことで、その世界の当事者を一人でも増やして広げていけば、「自己完結を求める社会」を崩していけるんじゃないかなって思っています。
障害の定義には、個人モデルと社会モデルの二つがあります。(個人モデルでは)障害っていうのはその人の身体にある。例えば、私の身体に障害がある。だから、海老原さんは階段が登れないとか、自分で呼吸ができないから大変だとする考え方を個人モデルと言うんですね。でも、私は歩けないし、車椅子に乗っているけれども、街が完全にバリアフリーであれば、別に歩ける人も歩けない人どっちも困らない。エレベーターがついてれば、階段があったって困らない。そういうふうに、社会の仕組みが変わることで障害はなくなっていくし、減っていく。そういう考え方を社会モデルと言うんですが、物理的なバリアをなくしていくだけではなくて、いつでも誰かに何か手伝ってと頼んでもいいんだっていう価値観を広げていくことも、障害の社会モデルっていうことを広めていくことに貢献しているのではないかなって思っています。そんなふうに、重度障害者が地域で生きていくこと自体が人々の意識を変えていって、意識が変わった人がどんどん増えていくことで、地域や社会がどんどん変わっていく。そういうことに貢献できていけたらいいなって。どこまでできてるかわからないんですけど、身近なところから一歩一歩、そういう変革っていうのを続けていけたらいいなって思っています。

注釈

※1 この段落は、向山さんが修論で書いた文章(であり、それを海老原さんが読んで話している箇所)である。
※2 参考として、深田耕一郎『福祉と贈与』。
※3 前田拓也『介助現場の社会学』p. 315
※4 向山夏奈さんによる注釈「私のこの行動を好意的に受け止めてくださる方もいらっしゃるのですが、自立生活の場において、「ケガをした介助者が無理をしてシフトを埋める」事態は褒められたことではなく、安全安心に働くことが前提とされなければならないと思っています。私の場合は、病院で頭部CTスキャンに異常がなかったことがしっかり確認されていましたし、後遺症に備えていつもより休む時間を多めにもらう、ケガの具合や痛みの強さをこまめに確認されるなどの配慮もあったため、安全に働くことができました。」
※5 立岩真也『私的所有論』を参照。
※6 海老原さんは、道ゆく人に声をかけて必要な介助を頼むという「人サーフィン」をしながら、外出をしたり、普通学校や大学に通ったりしていた。

プロフィール

故・海老原宏美さんプロフィール

1977年、神奈川県川崎市生まれ。1歳半で脊髄性筋萎縮症と診断される。車いすを使いながら小学校、中学校、高校と地域の普通校に通い、大学進学を機に一人暮らしをスタート。大学卒業後の2001年、韓国縦断野宿旅「日韓TRY2001」を経て、同年11月から東京都東大和市で自立生活を開始。2002年からは自力での呼吸が難しくなり、人工呼吸器を使って生活した。
2008年に自立生活センター東大和の理事長、2009年に「呼ネット」(人工呼吸器ユーザーネットワーク)の副代表と東大和市地域自立支援協議会の会長、14年にDPI日本会議の理事、2015年に東京都自立支援協議会の副会長に就任。2016年には東京都女性活躍推進大賞を受賞。
著書に『まぁ、空気でも吸って』(現代書館)、『私が障害者じゃなくなる日』(旬報社)。
2021年12月24日、脊髄性筋萎縮症の進行に伴う肺性心のため、44歳で逝去。

文/油田優衣

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