あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

20年以上同じ介助者と暮らすことで見えてきたこと

ATSUSHI TADOKORO

文/嶋田拓郎 : 写真/嶋田拓郎

脳性麻痺・横浜市港北区在住|田所淳(たどころあつし)

1981年生まれ。横浜市都筑区見花山にて先天性の脳性麻痺者として生まれる。1歳から5歳まで川和保育園に通い、その後、横浜市立上菅田養護学校(現特別支援学校)に12年間、18歳から都筑区にある障がい者作業所に在籍。そのかたわら、小学校や企業で障がいを理解・啓発のためのさまざまな講演を行う。現在は、24時間介助を受け自立生活をしながら、口腔ケア商品「オーラルピース」の個人販売も行っている。

【イントロダクション】

東急東横線の大倉山駅は、神奈川県横浜市港北区に位置する街。急行の停まらない各駅停車の駅ですが、駅前には4つの商店街があり、白い壁で商店街のデザインが統一されて、どこか洗練した街です。その大倉山で、日々電動車椅子で介助者を連れ立って散歩しているのが、田所淳さん。脳性麻痺者の38歳で、大倉山駅近くのマンションに暮らしながら24時間介助を受けて自立生活をしています。
田所さんは、できるだけお金をかけずに散歩することを信条に、「けちんぼ散歩」という名で活動する、ユーモラスな一面を持つ方。とてもアクティブな田所さんは、介助者と連れ立って横浜中を駆け巡っており、その理由からか、横浜中で田所さんを応援するファンが数多くいます。
私が受けた田所さんの第1印象は、「無口で優しげ」であるということ、そして20年以上一緒にいる介助者との雰囲気は、まるで家族のようでした。委託を受けて販売をしている歯磨き粉「オーラルピース」を誇らしげに説明している姿は、とても活き活きしていました。
田所さんの歩んできた人生をお伺いしつつ、20年以上田所さんの介助に携わっている丸山さんにもお話に入って頂き、長年かけて築いてきた介助者との関係性について語り合って頂きました。

(文/嶋田拓郎

目次

田所さんは歯磨き粉の営業マン

――コロナ禍のなかインタビューをお受けして頂きありがとうございます。最初に自己紹介をお願いします。

田所:田所淳です。今は一人暮らしをしていて、介助者が24時間ついています。日中は10時から20時、夜間は20時から翌朝10時の1日2交代です。今は「オーラルピース」という歯磨き粉を販売しています。飲んでも大丈夫な歯磨き粉として知られていて、介護現場や、幼児向けの商品としても人気です。

――お知り合いの紹介で歯磨き粉の販売を始めたということですが。

田所:そうです。その知り合いに紹介されたときに、自分からやりたいと声をあげました。

――田所さんが仕事を始める上で背中を押したのはどういった理由ですか?

田所:初めは、「自分が果たしてできるのか?」と不安でした。ただ、僕は人と会うことが好きで、横浜市内を駆け巡っており、知り合いも多かったので、その知り合い、友人の多さが武器になるならと思い、始めました。

――人に会いたい気持ちが先にあって始められたのですね。

田所:ただ、一番難しく感じているのは、友達とお客さんの線引きです。お友達がお客さんになるときもあるから、そのときは売り方を考えなければならなくて、それは難しいですね。

――線引きに難しさを感じるというのはどういったことですか?

田所:僕が行くと、「またこいつがきたのか」って思われるからです。友達のところに売りに行くときも会いに行くときも、僕が行くとそういう「売りに来たな」って感じになって、場を壊してしまうかもしれないという不安があります。

――会ってみたら商品を買わされそうになったとか、そう思われるとつらいですよね。

田所:そのように思われないよう、積極的に「買ってほしい」とは言わないように気を付けています。友人も多いので、交友関係を壊さないようする配慮です。

作業所の環境は自分には「甘かった」

――次に田所さんの生い立ちについてお伺いしたいと思います。

田所:僕の家庭は母親1人の片親家庭で、母が働きに出る間は、祖父母が親代わりとなって、僕の面倒をみてくれていました。特に高校生までは祖母が自分の世話をしてくれました。

――田所さんのご出身の横浜市都筑区は、港北ニュータウンの中心地ですよね。そのニュータウンで田所さんは育って、保育園にも通われていたとか。

田所:そうですね。健常の子、障がいの子、分け隔てなく、一緒に保育している園に通っていました。

――その保育園を卒園してから、地域の小学校に通わずに特別支援学校に通われたのはなぜですか?

田所:僕の時代は今みたいに、地域の小学校に特別支援学級がなくて、仕方がなく特別支援学校に通っていました。それは中学高校も同様でした、勉強内容には不満を持っていました。中学では、小学校高学年の学習内容を何回も繰り返し学ばされていました。高校でも同様に、中学の勉強をしていましたね。

――田所さんが希望していた勉強ができなかったのですね。もう1つ気になる点として、高等部を卒業して以降の話です。田所さんが通っていた高等部の生徒はどのような進路をたどる人が多かったのですか?

田所:僕の学校ではほとんどが作業所です。障がいの軽い1割の生徒が専門学校に進学し、一般就労する生徒はいませんでした。僕の場合、自分にはどのような選択肢があるか何もわからなくて、周りの生徒と同じように、作業所に入所しました。ただ通ってみて感じたことは、作業所の環境が僕には「甘かった」ことです。仕事内容は理解できるのですが、僕がここまで終わらせたいと思っても、「作業所の閉所時刻を過ぎたので帰ってください」というふうに言われてしまい、いつも不完全燃焼でしたね。

仲間とともに介助者派遣事業所を設立

――作業所には何年通っていたのですか?辞めようと思ったきっかけについて教えてください。

田所: 19歳から23歳までの4年間通所していました。4年経とうとした頃、たまたま作業所の先輩がヘルパー派遣事業所を開設して、その事業所の当事者スタッフとして参加しないかと誘われたのが、作業所を辞めるきっかけでした。またその頃になると僕自身、だんだん障がいが重たくなってきて、作業所での働き方が合わなくなってきていました。ヘルパー派遣事業所を利用しながら、地域で自立生活をしている先輩の姿をみて、僕もやりたいと思うようになったのも、大きな理由の1つです。

――ヘルパー派遣事業所では、どのような役割を担っていたのですか?

田所:スタッフとしては、介助をされる側のモデルとなり、新人介助者の研修担当をしていました。

――そのときに利用者として24時間派遣の一人暮らしも始めったということですか?

田所:そのときは、まだ違います。

――まだ親元と言うか、おばあちゃんの?

田所:まだ親元にいました。日中だけ、日常生活支援というのでヘルパー使っていましたね。「一人暮らしできるのかな?」と思いながら過ごしていたけれども、20代後半になったら、そろそろ一人暮らしを始めたいと思うようになりました。

24時間シフトを埋めるために―慣れ親しんだ介助者を手放さない

――ヘルパー事業所の立ちあげに関わって、何年勤められていたのですか?

田所:5年ぐらいですね。28歳で自立生活を始めたときは、事業所と契約して派遣してもらいました。

――そこはご自身で選ばれたのですか?

田所:僕が働いていたヘルパー派遣事業所と契約して、そこから派遣してもらいました。最初はそこで重度訪問介護のサービス提供時間が200時間だったので、その事業所と契約して介助者を利用していましたね。そこからずっと1社を利用する状態が続いていましたが、数年経って別の事業者を利用し始めました。それがNPO法人コアというヘルパー派遣事業所です。

――お隣にいる丸山さんがサービス提供責任者をされている事業所ですね。その事業所を選んだのは、どのような理由からですか?

田所:僕が利用していた介助者がコアという事業所に移ることになって、それで僕も事業所を変えることになりました。

――そうなのですね。慣れ親しんだヘルパーと言うか、慣れているヘルパーに介助してもらおうとした結果、事業所を移って、24時間シフトを埋めるために他事業所も利用し始めたのですね。

田所:はい。僕にとっては、事業所を変えることのリスクよりも、慣れたヘルパーが、僕の介助から離れてしまうことの不安の方がとても大きかったです。

ーーまず事業所と利用契約を結んでから、事業所が決めたヘルパーが派遣されてくるという流れが一般的ですが、田所さんの場合は、特定のヘルパーが長く入ってくれることで、自分らしい生活を築いていらっしゃいます。だからこそ、「あのヘルパーではなければ」という想いが先に立っているんですね。気になる介助者との関係性についてももう少し後半で伺っていきたいと思います。

 

→インタビュー2回目につづく

注釈

※本記事では、田所さんの介助者である丸山さんにもお話しを伺いました。

丸山浩輝(まるやまひろき)
NPO法人コアの介助者兼サービス提供責任者。田所さんの介助には20年以上前から入っている。

プロフィール

脳性麻痺・横浜市港北区在住|田所淳(たどころあつし)

1981年生まれ。横浜市都筑区見花山にて先天性の脳性麻痺者として生まれる。1歳から5歳まで川和保育園に通い、その後「横浜市立上菅田養護学校(現特別支援学校)に12年間、18歳から都筑区にある障がい者作業所に在籍。そのかたわら、小学校や企業で障がいの理解・啓発のためのさまざまな講演を行う。現在は、24時間介助を受け自立生活をしながら、口腔ケア商品「オーラルピース」の個人販売も行っている。

文/嶋田拓郎

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