あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

自立生活運動と共に、社会で生きる

Tatsuaki Saruwatari

文/吉成亜実 : 写真/中井和味

脳性麻痺・神奈川県相模原市在住|猿渡達明(さるわたりたつあき)

1973年生まれ。東京都出身。神奈川県相模原市在住。脳性麻痺のため、着替えや入浴など日常生活全般に介助が必要。ADHDがあり、服薬をしながら日常生活を送る。保険会社の嘱託職員や自立生活センターなどの職を経験し、1998年に結婚。子ども2人の子育てを経験する。その後離婚 し、2020年に再婚。現在は、自身と同じ脳性麻痺のパートナーと共に暮らしながら、生活介護事業への通所や執筆活動、就労継続支援B型でピア・カウンセラーや相談業務を行う。

【イントロダクション】

早産による仮死状態で生まれた猿渡さんは、出生時の処置で一命を取り留めたものの、脳性麻痺になりました。小・中学校は地域の学校に、高校からは通学が難しいことを理由に寄宿舎付きの養護学校に通います。就職や自立生活運動との出会い、結婚、子育て、離婚、再婚など、各ライフイベントで起こる様々な困難を乗り越え、長年地域で生活しています。
近年では、障害者が地域で生きるための支援制度も整いつつあります。福祉制度がサービスとして供給されるようになってきている中、「自立生活運動」という言葉に馴染みのない若い障害当事者も増えています。その一方で、猿渡さんは小さい頃から自立生活運動を肌で感じてきた世代と言えます。そのような猿渡さんが、自立生活運動に情熱を燃やす理由や、運動を続ける原動力は一体どこにあるのでしょうか? 今回は、その一部分をお伺いします。

(文/吉成亜実

目次

支給時間について

吉成:現在の重度訪問介護支給時間は、何時間ですか?

猿渡:今は390時間で、そのうち移動加算が63時間です。

吉成:支給時間に関して、これまでに変化はありますか?

猿渡:以前、東京にいた頃は、全身性障害者介護人派遣サービスを使っていたこともあります。相模原市にある「コーポ・シャローム」と いうケア付き住宅に入居した頃からヘルパーを使い始めました。その頃はまだ、制度が重度訪問介護になる前で100時間に満たない時間数でした。当時の職場が厚木市にあったのですが、そこで仕事をしている中でうつ状態になり、平塚市の職場へ異動するのと同時に少しずつ時間数を増やして今に至ります。

吉成:時間数を得るための交渉について、難航したことはありましたか。

猿渡:東京にいた頃、相談支援専門員が行う研修のまとめ役を担っていました。研修では知的障害の方のプランをどのように立てるかを指導する仕事を行っていたため、自分できちんとプランを練り、提出するということができていました。そのため、そこまで難航することはありませんでした。ただ、ADHDの部分などをワーカーさんに理解してもらえないと「(ADHDであることで)なぜ時間数が必要なのか」と聞かれるため「うつやパニック障害で 仕事に行けない場合がある」ことや、「パニック障害があり、泊まり介助が必要だから」などと、きちんと理由を付けて提出するようにしていました。また、膀胱の問題でおむつを使うための介助が必要だということも、時間数を得るために伝えました。

――今の支給時間は390時間とのことでしたが、現在の時間数で足りていますか?

猿渡:はい、今は。でもこの前、妻の泊まり介助の時間が削られてしまいました。妻は生活介護も含めて24時間介助と、2人介助が必要です。それが僕と結婚したことによって、僕の介助者も含め3人もいらないだろうということで、妻の時間数が削られてしまいました。
妻は障害が重いから介助者が2人必要なのに、今回時間数が削られたことは納得が行きません。そのような点では、1人で生活するのと2人で生活するのは違いますね。半同棲の頃は変わらなかったけど、結婚して2人共脳性麻痺で、障害が重いのに介助を減らされるというのはどういうことだと。その後もいろいろと交渉はしましたが、上手く行っていません。

――それはおかしいですね。

猿渡:そうですね。行政からは「3人も介助者が必要なのはおかしい」と言われるのですが、それは違うだろうと。僕も妻もお互いに必要だから、入っているのに。

吉成:「3人も介助者が必要なのはおかしい」という意見は、ご夫婦それぞれが同性介助を徹底している場合は、生活が成り立たなくなってしまいますよね。

猿渡:そうです。同性介助は基本で、僕も同性介助を希望しているのですが、相模原市は以前の生活と比べて男性の介助者が減り、最近は異性介助がほとんどです。男性の介助者が増えれば切り替えていきたいのですが、僕の中で男性は少し怖いという印象があり、男性は気が合う人に入って欲しいという思いもあります。

――猿渡さんは現在、事業所からのヘルパーを利用しているようですが、自薦ヘルパーを利用しようと考えたことはありますか?

猿渡:以前は使っていたこともあります。自薦も事業所も、対応が良かった人や頑張っている人が辞めてしまうことがあって。今では辞めたヘルパーに 、「事業所を作って欲しい」とお願いして作ってもらった事業所を利用しています。その事業所から僕のところに入るヘルパーは、事前に顔合わせをするなど、自薦に近い形で利用しています。

――意図的に自薦ヘルパーに近いような形で、生活されているんですね。

猿渡:そうです。

自立生活に至るまで

――ご実家のご家族について聞かせてください。

猿渡:僕と両親と弟の4人家族でした。母は、僕が小さい頃には北療(東京都立北療育医療センター※1)への通園について行く必要があり、仕事ができなかったのですが、僕がある程度大きくなってからはアルバイトをしていました。当時から母や通園先の保育士の先生は、「地域にいられる子は地域にいる、自立できる子には自立をさせてあげたい」という思いを持っていたようです。そのおかげで小・中学校は普通校に行くことができたのかもしれません。父は土木建築で働いていてあまり家に帰って来ず、母がずっと僕の介助をしているという状況でした。
弟は2つ下で、小さい頃から母をほとんど僕に取られていたためか「兄貴は良いよね、お母さんは兄貴ばっかり見るんだから」とよく言われていました。でも大きくなってからは、弟が父の代わりに車を出してくれるなど、何かと協力してくれているので、兄弟がいて良かったなと思っています。

――「普通校に入れたい」という思いから、お母さんはいろいろと考えて行動されていたのではないかと思います。猿渡さんのお母さんは、厳しかったですか?

猿渡:そうですね、母は厳しかったです。例えば、ご飯を食べ終わらないと正座させられて、背中に竹の定規を入れられたり 、療育で習ってきた訓練を自宅でもやったり、訓練については特に厳しかったです。

――お母さんが厳しかったのは、リハビリを通して障害が良くなるのではないか、健常の身体に近づくのではないかという思いからだったのでしょうか?

猿渡:早期発見・早期療育という点では、小さい頃から訓練を行い、なるべく健常者と同じような身体の動かし方を覚えさせて、少しでも障害が軽くなるようにという療育の方針でした。就学時健診などの際、障害の有無で分けると、障害者は療育施設に集まってしまうため、インクルーシブじゃないなっていうことは、ずっと感じていました。

吉成:小・中学校は普通校、高校は寄宿舎にいながら養護学校に通われるという生活をされていたそうですが、その後、自立生活を始めたきっかけはどのようなものでしたか?

猿渡:(前のパートナーとの)結婚を機に、自立生活を始めました。結婚後、2人で暮らすために、僕は東京から相模原市に引っ越さなければなりませんでした。地域が変わったことで制度面で様々な調整が必要でしたし、県営住宅の抽選の結果を待たなくてはいけませんでした。そのため、2人暮らしの準備が整うまでの間、一時的にケア付き住宅「コーポ・シャローム」で生活をしました。シャロームでは、制度の勉強や介助の使い方、どのように生活をすれば良いかということを学びました。その後、住居などの準備が整い、本格的に自立生活が始まりました。自立生活を始める前に自立生活プログラム(ILP)を受け、自分ができることは何なのかを学びました。後ろ姿を見て学ぶということでは、やっぱり以前のパートナーがロールモデルだったと思います。

吉成:自立生活を始めるにあたり、ロールモデルというのは本当に大切な存在だと思います。以前のパートナーが自立生活のロールモデルとのことですが、具体的にどのような点で影響を受けましたか?

猿渡:以前のパートナー、池田まり子さんは 、神奈川県の七沢更生ホーム (現:七沢自立支援ホーム)を19歳で退所し、ケア付き住宅「コーポ・シャローム」に入居しました。その後、当時は地域活動支援センターだった「くえびこ」(※2)の近くで自立生活を始め、自立生活センターを設立したそうです。相談支援やピア・カウンセリング、自立生活プログラムの立案や、地域の人と関わり合いながら生きているところに影響を受けました。また、介助者も自分で集めて育成していることや、周囲からの信頼が厚いところも刺激を受けましたね。

吉成:自立生活を始めるにあたり、ご両親の反応はどのようなものでしたか?

猿渡:高校から寄宿舎にいたことや入院生活が長かったこともあり、普通に送り出してくれました。そこまで反対はありませんでした。

子育ても1つの運動

吉成:介助者も入れながら、結婚後にパートナーと暮らすことや子育てなどを経験されてきた中で、制度の利用についてはどのように進めてきましたか?

猿渡:以前のパートナーと結婚した頃は、彼女も介助が必要だったので、同時にヘルパーが必要な時間帯を考え、2人一緒に介助を組みました。子どもが生まれた時は、育児の時間にヘルパーが利用できなかったこともあり、足りない部分はボランティアで埋めていました。2人目の子どもが生まれた時は、ちょうど自立支援法が改正され、育児の時間にもヘルパーが利用できるようになったため、時間数を増やす形で交渉を行いました。その後は生活の変化によって、前のパートナーと私でサービス担当者会議のように話し合って進めていました。
それから、制度とは関係のないことですが、僕の家には社協(社会福祉協議会)や複数の事業所、ボランティア団体など、様々な介助者が出入りしていました。そのため、子育ての際は「僕らができないことは介助者もやらない」などのルール作りもしていました。

吉成:「僕らができないことは介助者もやらない」というのは、あくまでも自分がしたいと思うこと以上のことはやらないで欲しいということでしょうか。

猿渡:例えば、抱っこを介助者がしてしまうと、親である私達より介助者の方に行ってしまうようになります。子どもが何かやりたいと思った時は、まず僕らに聞いてからという形にさせていました。「介助者はお父さんとお母さんの指示で動くんだよ」ということを子ども達に教えて行きました。

――子育て中、印象的だったエピソードなどがあれば、ぜひお聞かせください。

猿渡:下の子が4歳くらいの頃に、保育園に肌の色が異なる(海外にルーツがある)お子さんが入ってきたことがありました。ちょうどその頃、長男が友達から「お前の母ちゃん変だ」ということを言われたようなのですが、長男は「うちのお母さんは変じゃない、一緒に出かけたりもできるんだ」と堂々と言ったそうです。その後、保育園の園長先生からそのエピソードを元に「紙芝居を作って欲しい」と依頼され、前のパートナーが制作しました。肌の色や容姿が違っていても、眼鏡をかけている人も、歩ける人も歩けない人も、みんな一緒だよという分かりやすい内容のもので、保育園で読んでもらっていました。

――そのエピソードが一種の自立生活運動のようで、素敵ですね。

 

連載2回目の記事はコチラ。

注釈

※1 東京都が設立した、障害のある人を総合的に支援する総合医療と療育施設。

※2 2021年5月から生活介護サービス事業所にかわり、4月までは地域活動支援センター

プロフィール

脳性麻痺・神奈川県相模原市在住|猿渡達明(さるわたりたつあき)

1973年生まれ。東京都出身。神奈川県相模原市在住。脳性麻痺のため、着替えや入浴など日常生活全般に介助が必要。ADHDがあり、服薬をしながら日常生活を送る。保険会社の嘱託職員や自立生活センターなどの職を経験し、1998年に結婚。子ども2人の子育てを経験する。その後離婚 し、2020年に再婚。現在は、自身と同じ脳性麻痺のパートナーと共に暮らしながら、生活介護事業への通所や執筆活動、就労継続支援B型でピア・カウンセラーや相談業務を行う。

文/吉成亜実

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