あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

10代後半「明日が来るのが怖かった」

MISAO UENO

文/篠田恵 : 写真/中井和味

SMA(脊髄性筋萎縮症)|埼玉県さいたま市在住|上野美佐穂(うえのみさお)

1974年、神奈川県横浜市生まれ、埼玉県朝霞市育ち。2歳頃から施設で育ち、高校入学から24歳までは国立療養所(当時)東埼玉病院で過ごした。日常生活のほとんどに介助が必要。現在、事業所から派遣される介助者(重度訪問介護)7,8人に介助を受け、埼玉県さいたま市で自立生活をしている。イルカ保険サービス合同会社で週2回、1日あたり5時間のテレワークをしている。

【イントロダクション】

重度身体障がい者が仕事中に必要とする介助に、公的なサービスが使えない――この問題に近年、注目が集まってきています。長年多くの障がい当事者が訴えてきた「重度訪問介護の就労中の利用」はまだ実現していませんが、通勤・勤務中の介助費用の一部が公的に保障される新制度が、2020年度にできました (※1)。

当事者からの要望を受け、国より早く独自の就労支援を始めていたのが、埼玉県さいたま市です。国の制度とはやや異なり、在宅で週10時間以上民間企業で働く、もしくは自営業の重度障がい者(重度訪問介護利用者)に、就労中の介助費用を保障するものです。上野美佐穂さんは、そのさいたま市で20年以上前から自立生活し、重度身体障がいの当事者支援やヘルパー派遣事業所を運営、行政への交渉をしてきました。2年前からは、さいたま市の制度を利用して保険代理店に勤め、パートタイムで在宅ワークをしています。

インタビューは、上野さんと同じ難病で数年前に就活を経験した小暮理佳さん (※2)、わをん代表の天畠大輔、事務局長の嶋田拓郎が参加。一般企業への就労の経緯や仕事のやりがい、制度の課題を伺おうと臨みましたが、上野さんが現在にたどり着くまでに、10代を過ごした旧国立療養所の問題、自立生活支援活動やヘルパー派遣事業所運営での葛藤などたくさんの思い、経験の積み重ねに圧倒される思いでした。みなさんと一緒に、就労したい重度身体障がい当事者が働いていくためには、これからどのように手を尽くしていったら良いのか、考えていけたらと思います。

(文/篠田恵

目次

5歳から施設暮らし。家族との記憶はほぼない

――まず、上野さんの生い立ちを教えていただけますか。

上野:私には兄が1人いるのですが、その成長をすでに見ていた両親が、私が寝返りを打たない、自分から一歩も動こうとしないのを見て、1歳くらいから病院をいろいろ回っていたそうです。しばらくして、大学病院で神経難病がわかった。当時、病名まで確定していたかどうかはすでに両親が他界したのでわかりませんが、3歳くらいまでしか生きられないと言われたそうです。

それで2歳頃から、リハビリセンターに母子通院しました。でも母の持病の喘息が悪化して通院にドクターストップがかかり、その後単身での施設暮らしになりました。最初に入ったのは板橋にある、心身障害児総合医療療育センターの整肢療護園です。

今思えば、母にとっては初めての障がい児の子育てで、世間や親戚の目とかいろんなプレッシャーがあったと思います。その後に母は亡くなりました。物心ついてから一緒に過ごしたのは病院スタッフと入院患者さんたちで、家族と過ごした記憶はほぼないです。

――療護園はどんな生活でしたか?

上野:小学校と中学校は、療護園の隣にある筑波大附属桐が丘特別支援学校に通いました。桐が丘は勉強のレベルが高く「養護学校の東大」と言われていて、ひたすら勉強させられていました。療護園の場合、たとえばお風呂の日は午前授業なしとか、施設のスケジュールが優先されるので必然的に授業数が少ないんです。なのに、普通学校と同じ教科書を同じペースで進めるんですよ。

先生がかなりスパルタで、中学の時は勉強とリハビリしかしていませんでした。テストで70点でも追試でしたから…。施設でも夕ご飯を食べ終わると、児童指導員という、大学を出たばっかりの頭のいいお兄さんたちと2時間くらい学習時間がありましたね。

勉強が好きだったのか、それしかすることがなかったのか、今となっては分からないですけど成績は良かったです。父親から「体が使えない分、頭で勝負しろ」って言われていたのもあったかな。

天畠:「体が使えない分、勉強だけはしろ」とよく言われたのを思い出しました。

小暮:同じく。わたしも親から、勉強はしておいたほうがいいと言われていました。

すべてが介助する側のスケジュールで決まっていた病院生活

――勉強は大変だけど、目標や周囲からの期待があった中学時代だったのですね。中学卒業後はどのように過ごしていましたか?

上野:療護園は小児向けで15歳までだったので、中学卒業後は東埼玉病院の筋ジス病棟に入りました。当時は国立療養所でした。高校は隣接する蓮田養護学校です。

中学まで過ごした療護園では、一般的な家庭でやるようなことは、結構自由度高く対応してもらえたんですよ。入浴は週2回だったけど洗髪や洗顔は柔軟にできたし、毎日パジャマを着て朝起きて着替えていました。でも病院は、すべてが介助する側のスケジュールで決まっていました。

まず、週2回のお風呂まではずっと同じ服で寝起きするんです。初めて病院に入ったときに、「あれ、夜ってパジャマ着ないんですか?」「ここでは着ないよ」「でも、これで学校行くんですか?」「みんなそうだよ」ってやり取りがあって。衝撃でした。

下着とかは清拭の時間があるから変えるけど、2人くらいの看護師さんが機械のように作業していました。それに、もしその時間に授業を受けていてその場にいなかったら、変えてもらえない。たとえばトイレも、介助のスケジュールに乗れない人はブラックリストに載るみたいな感じだったので、水分をなるべく摂らないように調整しなきゃとか、苦しいところでした。患者本人たちを尊重するようなシステムにはなっていなかった。

嶋田:旧国立療養所の筋ジス病棟については、「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト(筋ジスプロジェクト)」(※3)のように、いろいろな全国的な取り組みがあるくらい、今でも問題になっていますよね。北海道の病院で暮らし、現在は札幌で自立生活中の吉成亜実さんのインタビュー(※4)でも、病院以外の選択肢がないかのように諦めさせられていたということでした。当時周りにいた人も含めて、諦めさせられるような感じとか、帰るに帰れないとか、ここにいる方が幸せだと思う人が多かったのか、上野さんの実感はどうでしたか。

上野:たぶんいろいろな感情があったと思うんですけど、一つはそこにしか私の生きる場所はないっていうふうに、思っていたし聞かされていた。当時の親たちは、預かってもらえるだけでありがたいって感じなんですよね。私も中学卒業後に自宅に戻る選択肢もあったのかもしれない。でも病院が当たり前とされていました。今みたいにヘルパーを利用して学校に通える制度もなかったですしね。

病院で生きていくために、自分の感情を押し殺してでも居心地良くいられる方法を考えていました。でも病院の方がほかの場所よりも幸せっていう人は、だれもいなかったと思うんですよね。そこじゃなくてもいいっていう選択肢がないので、比べようがないというか。家族との時間を味わったことがあれば、もしかしたら比べる対象もあったのでしょうけど、私の場合はそういう記憶がなかったのも影響していると思います。ましてや今みたいにインターネットとか、外部の人と簡単につながれる環境もなかったので、ほぼ病院の中で起こっていることしか知らない。そんな感じでしたね。

10代後半「明日が来るのが怖かった」

――生活に自由がない中で、高校卒業後はどんなふうにしたいと考えていましたか?

上野:10代後半って、将来どうしようと考える時期だと思うんです。でも私は「死ぬのは怖い、でも生きてても良いことない」という葛藤、絶望の毎日でした。明日が来るのが怖い、いつまでこんな日々が続くんだろうって。

病院に入りたての頃の出来事ですが、人工呼吸器をつけた寝たきりの患者さんがたしか6人くらい、一つの部屋に集められていたのを見たんです。今の呼吸器みたいな形状じゃなくて、胸のところに半球状のドームみたいなのを乗せて、みんな上向きで寝て天井だけを見つめていて。その呼吸器のしゅっぽん、しゅっぽん、っていう音が鳴り響いていて。自分もいつか車いすに乗れなくなる、天井しか見られなくなるのかって本当にショックでした。

――将来の自分に、自由を見出せない環境だったのですね。

上野:同級生も亡くなっていくんですよね。だれかが亡くなって、「ご臨終です」とかそういうことが近くの部屋で行われているのが、私たちはもう雰囲気で分かるんですよ。ほかの病院にはないはずですが、霊安室にみんなで並んで、亡くなった患者さんとお別れして、最後は車を見送る、っていう儀式みたいなものもありました。

それに、「ご臨終です」って言って部屋から出てきた直後であろう時に、ドクターが普通に軽い感じで「コーヒー一杯もらえる?」ってスタッフに話しているのを、ナースステーションの近くで聞いたこともあります。あと、患者さんの亡くなった後に解剖がある日はなんか、ドクターの機嫌が良いんですよ。さあ行ってくるか、よっしゃ、みたいな感じ。

そのたびに同部屋の仲間で、解剖はされたくないなって言い合っていました。もちろん解剖それ自体については、医療の発展に貢献したいという意識の方もいると思います。でも私は死後の解剖について意思確認されていなかったし、あんなふうに喜ばれるなんて嫌でしたし、今も本人のいないところでだれかが勝手に決めてしまうのは、家族であれ医師であれ、してはならないことだと考えています。

身近な人が亡くなるって、人生の中でそうそうない出来事じゃないですか。それなのに、先生たちは悲しんでいない。そういう経験を積み重ねていって、私の死は周りの人たちに冷酷にとらえられている、私はこういう最期を迎えるんだな、と絶望していました。今は幸せな生き方ができていると思うけど、当時はそんな未来なんてまったく想像できませんでしたね。

――将来に希望が見えない中で、しかも死が近くにある恐怖は、気力を奪っていってしまうように思います。病院での生活がそのような中で、学校でのサポートはどうでしたか?

進路についても、大学進学したいと面談で先生に言ったら、「どうやって?」と返されたんですよね。そういうのを一緒に考えてくれるのが進路指導でしょって思うんですけど、とにかく先生の頭の中に、重度障がいの子が大学に通うって考えがない。一人じゃ何もできないじゃん、みたいなことを言われました。私も当時の生活以外の選択肢を知らないから、納得してしまう。病院から大学に通う方法も今だったらあるかもしれないですが、当時は外部から人が入るってことだけでもいろんな手順を踏まなきゃいけないとか。まして田舎の病院だから、近くに大学がなかったですし。でも勉強は続けたかったんです。

それで、大学に通うのが無理なら放送大学はどうかとなったんですが、当時病棟にテレビが2台しかなくて、私が勉強するとテレビを長い時間拘束することになるから、他の患者さんと平等じゃない、と病院側から良い返事がなくて。私ももうその時点で、将来に対して絶望感があって勉強したところで将来何の役にも立たないし、とあっさり諦めてその話はなくなってしまいました。

→第2回では、どのように自立生活を始めたのか伺います。

注釈

※1 2020年10月にできた「雇用施策との連携による重度障害者等就労支援特別事業」のこと。財源は各自治体が任意で実施する「地域生活支援事業」と、国の障害者雇用納付金制度に基づく助成金拡充策を組み合わせているため、自治体がこの事業の導入をしなければ、そこに住む当事者はこの制度を使えない点が課題。
※2 小暮さんのインタビュー記事はこちら。 https://wawon.org/interview/categorize/%e5%b0%8f%e6%9a%ae%e7%90%86%e4%bd%b3/
※3 筋ジスプロジェクトの詳細は、ネットワークのnote参照。https://note.com/kinjisu_project/n/ned8b467385b0
※4 吉成亜実さんのインタビュー記事はこちら。https://wawon.org/interview/categorize/amiyoshinari/

プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)|埼玉県さいたま市在住|上野美佐穂(うえのみさお)

1974年、神奈川県横浜市生まれ、埼玉県朝霞市育ち。2歳頃から施設で育ち、高校入学から24歳までは国立療養所(当時)東埼玉病院で過ごした。日常生活のほとんどに介助が必要。現在、事業所から派遣される介助者(重度訪問介護)7,8人に介助を受け、埼玉県さいたま市で自立生活をしている。イルカ保険サービス合同会社で週2回、1日あたり5時間のテレワークをしている。浦和レッズの熱心なサポーター。

文/篠田恵

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