あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載3回目

介助を受けながら仕事をするのが、なぜこんなに難しいのか

MISAO UENO

文/篠田恵 : 写真/中井和味

SMA(脊髄性筋萎縮症)|埼玉県さいたま市在住|上野美佐穂(うえのみさお)

1974年、神奈川県横浜市生まれ、埼玉県朝霞市育ち。2歳頃から施設で育ち、高校入学から24歳までは国立療養所(当時)東埼玉病院で過ごした。日常生活のほとんどに介助が必要。現在、事業所から派遣される介助者(重度訪問介護)7,8人に介助を受け、埼玉県さいたま市で自立生活をしている。イルカ保険サービス合同会社で週2回、1日あたり5時間のテレワークをしている。

目次

生活保護を受ける自立生活が当たり前のなかで

――上野さんが自立生活を始めたのは1998年、24歳の時でした。その後、支給時間の移り変わりを教えていただけますか?

上野:自立生活を始めたときは、1日17時間の身体援助と家事援助でした。今の重度訪問介護のような連続したサービスではなくて、身体・家事・移動それぞれで時間数がつき、トータルすると17時間。残りは生活保護の他人介護加算で補いました。その後、2003年に支援費制度ができたときに、24時間支給になりました。現在は2人介護の時間もあるので、全部で850時間です。

――自立生活にあたっては、どのように生計を立てていましたか?

そもそも私が施設から出て自立生活を始めたころは、「自立生活イコール生活保護」が当たり前でした。それまでは施設の中で(障害年金などの)お金があっても使う先もない環境だったので、自分で自由に使えるお金があるのは、すごく心が自由になりました。

でもやっぱり贅沢はしちゃいけないとか、後ろめたさというか、生活保護をもらっているだけで社会の圧を感じるというか。あまり受給をオープンにできない感じが、すごくあったのですよ。生活保護を前提として自立生活するのはどうなのかという議論もあるにはありました。ただ、まだ障がい者が就労してお金を稼ぐ環境がないから、権利として生活保護を受けることはありなのだ、と自分を納得させてきました。今でも変わらず、その考え方は持っています。

当時は自立支援をしてくれた団体に参加して、ピアカンやILPを提供していました。でも給料はもらっていませんでした。所得として役所に申請すれば収入を得ても問題はなかったけれど、金額が小さくて申請するほどでもなかったんですよね。だから働くことにはそんなに意識を置いていなくて、無収入で3年間過ごしました。

17年間悩みっぱなしだった、私たちの仕事の対価

――その上野さんは2001年、自立生活センターとヘルパー派遣の当事者事業所を仲間と一緒にして立ち上げます。自立生活センターでは、どんな活動をしていましたか?

上野:私がいた病院から、自立したいと思えるような人を募るためにイベントを打ったりしました。たとえば「ティーンズプログラム」は10代から20代前半を対象に、病院から外出許可を取って土日とかにみんなで集まって、自立や一人暮らしの話をしたり。私たちに介助者が付いてくるので、その関わり方を見てもらったり。夏祭りをやって浴衣を着てみんなで写真を撮ったりもしましたね。

あとはピアカンやILPを柱にして、障がいのある人たちのメンタルサポート、エンパワメント。「まあぶる・かふぇ」と言って月に1回、私たちが手作りのケーキを作ってお茶を出して、障がい当事者に他人と触れ合ったり、外出する楽しみを知ってもらうカフェ企画もありました。障がいのある人達の実生活を知ってもらうために、センターを地域に開放するイベントもやりましたね。

――多岐にわたる大切な活動をしていらっしゃったんですね。クライアントである当事者からは料金をとりにくい活動ですが、どんなふうに運営していたのですか?

上野:職員募集にあたって、すべての業務がボランティアというのもどうなのかな、とみんなで話し合いました。自立生活の経験を社会に還元していくうえで、自分のすべてを投げ出すではないけれど、奉仕にするのもなんか違うなと。生活保護を選ぶ人は選べるし、選ばずに働きたい人は働ける社会にしたいと思いました。

介助者みたいに身体を使って支援することはできなくても、当事者のメンタルの支えになったり、自立生活のノウハウなどの知識を表に出すことで、誰かの自己実現ができるって立派な仕事じゃんと思うわけですよ。かと言って自立生活していない人たちが自分の学びたいことにたくさんお金を出す余裕なんてないから、職員の生活費すべてをまかなうお給料は出せない。財源を工面するのがいちばん難しく、17年間ずっと悩みっぱなしでやってきたという感じでした。いろいろ工夫をして、私たちや職員に少しでもお金が入るようにしてきました。

――勤務時間中の介助サービスの料金を雇用主側が払うにあたって、その補助が国から出る「職場介助助成金」が当時からあったと思いますが、利用していましたか?

上野:利用していましたが、当初の職場介助助成金は、トイレや移乗といった身体介助には使えず、不便でした。施設や病院にたくさんいる重度障がいの人たちが、自分も自立生活できるという意識をつくっていくためには、職員として重度の人の存在はすごく大事でした。でも、重度の人たちはほぼ常に介助がないと外に出られないし発信もできない。結局、公的な介助を仕事中にも使えるよう、行政と交渉するしかなかったんです。どんなに重度でも介助さえ得られれば働ける。障がい者が働くということは社会を変えていくことにもつながる。でも介助という資源がなければできないんだ、ということを訴えてきたのですよね。

でも結局国は、個人の利益を得る経済活動に福祉のお金は使えないという考え方です。折り合いがつかない状況が10年くらい続いた後、職場介助助成金の中に身体介助も含めるというのが実現したのですよ。私たちの訴えによって、そこだけが変わった。でも私たちが求めていたのは、そこではない。職場介助助成金の中に身体介助を含めても、就労前後の時間とは違うヘルパーが入るから、重度訪問介護を使っている当事者にとっては、細切れの介助を受けることになります。本当は、生活の中で途切れない介助がほしい。重度訪問介護の制度を就労中も使えるようにしてほしい、というのが私たちの希望でしたが、全然折り合いがつきませんでした。

無給が当たり前の時代に、有給にこだわった理由

小暮:障がい者に限らず支援者のあいだでも、自立生活したかったら働かなくても生活保護を受ければ良いじゃん、という考え方もあったりするじゃないですか。それに関してはどう思っていましたか?

上野:私たちの時代は、CIL(自立生活センター)自体が任意団体で、仕事というよりも私たちが活動する場、みたいな感じだったんですよね。だからCILで活動している人はだいたい無給だったし、生活保護を受けていました。

でもだんだんボランティア中心から公的な介助の制度が整ってくると、やっぱり自分が社会に対して何かできることを探していくわけですね。自分が自立したときのノウハウを次の世代に伝えていくとか、地域の人を招いて私たちの生活を知ってもらうとか。そういう活動は、やっぱり無給では限界がある。実際に生活していかなくてはならないし、生活保護の枠組みの中でできる活動の限界もあるんですよね。私たちはそれまでのCILのあり方よりもうちょっと、当事者スタッフも健常者スタッフも持続的に関われるよう、生活費を稼げる組織づくりをしたかったということなのかな。

小暮:このことは、先ほどのお話にもあったように、上野さんが同じ世代の大学生と交流する中で、みんなは大学を出て就職をしてお金を稼いで……という姿を目の当たりにしていたからこそ生まれた、ある意味自然なことというか、理由を説明することすら難しい、当たり前の考えだったのかもしれないなと思いました。そして、上野さんが介助つき就労のための資源を行政に求めたり、職員にお金を払おうとしたりする動きの背景には、一緒に働く仲間にとっての最善はなにか、と常に考えていたからなのかなとも思いました。

→第4回では、上野さんの現在のお仕事と介助者との関わりについて伺います。

プロフィール

SMA(脊髄性筋萎縮症)|埼玉県さいたま市在住|上野美佐穂(うえのみさお)

1974年、神奈川県横浜市生まれ、埼玉県朝霞市育ち。2歳頃から施設で育ち、高校入学から24歳までは国立療養所(当時)東埼玉病院で過ごした。日常生活のほとんどに介助が必要。現在、事業所から派遣される介助者(重度訪問介護)7,8人に介助を受け、埼玉県さいたま市で自立生活をしている。イルカ保険サービス合同会社で週2回、1日あたり5時間のテレワークをしている。浦和レッズの熱心なサポーター。

文/篠田恵

この記事をシェアする