あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

僕が自立生活に至るまで――「働いてこそ自立」という考えの呪縛

Ryouta Kawasaki

文/油田優衣 : 写真/是枝竜太郎

僕が自立生活に至るまで――「働いてこそ自立」という考えの呪縛|川﨑良太1回目

脊髄性筋萎縮症(SMA)・自立生活センターてくてく代表|川﨑良太(かわさきりょうた)

1987年生まれ、鹿児島県鹿児島市在住。生後間もなく脊髄性筋萎縮症(Ⅱ型)の診断を受け、以後、車いすを使用しての生活を送る。地元の小・中学校に通学した後、高校は旧国立療養所筋ジス病棟に入院し特別支援学校へ通う。卒業後、高齢者施設の職員として勤務した後、24時間の自立生活をスタート。その後「自立生活センターてくてく」のスタッフになり、2016年から代表を務める。自立生活12年目の2020年結婚。現在は妻、息子、介助者との生活を送る。

【イントロダクション】

川﨑良太さんは現在自立生活センターてくてくの代表をされており、自立生活運動を引っ張っている若手障害当事者のお一人です。
私が川﨑さんを初めて知ったのは、「座談会 世代間継承①――身体障害・難病篇」(『当事者研究と専門知(臨床心理学増刊第10号)』(2018)所収)という座談会の記事を通じてでした。先人たちの運動を受け継ぎながらも、従来の運動のあり方への批判的な視点も持ち合わせておられる川﨑さんの語りは、同じような問題意識を持っていた私にとって共感できる部分が多く、自立生活運動を次世代に繋いでいきたいという同じ志をもつ者として、「ぜひ話してみたい」と思ったことを覚えています。

今回のインタビューでは、川﨑さんが自立生活に至るまでの経緯(インタビュー1回目)や、川﨑さんが感じる現在の自立生活運動やCILが抱える課題(インタビュー2回目)について語っていただきました。
インタビュー1回目では、川﨑さんの親との関係や、施設での生活、「働くことこそが自立だ」という考えのもと心身をすり減らしながら一般就労していたときのお話、そしてそこから自立生活に至るまでのお話を詳しく伺います。(インタビュアー/油田優衣、天畠大輔、嶋田拓郎)

(文/油田優衣

目次

僕が自立生活に至るまで――「働いてこそ自立」という考えの呪縛|川﨑良太1回目

自立生活をして、親に優しくなれた

油田:まずは自己紹介をお願いします。

川﨑:はい、わかりました。生年月日は1987年、年齢は33です。出身は鹿児島県の曽於(そお)市です。支給時間は現在、重度訪問介護620時間、1日あたり20時間で、就業の時間は事業所から持ち出しで(介助者を)出してもらって、24時間を埋めています。自立した当初は、鹿児島市内から車で1.5時間ぐらいの霧島市に住んでいて、昨年、鹿児島市内に引っ越してきました。鹿児島市内は過去に支給決定が難しかった経緯があって、「どうかなあ」と思っていたんですけど、無事に引き継ぎで620時間とれました。また最近、家族と暮らすようになって支給時間が減るかなと思ったんですが、家族ができても変わらずにその支給時間は続いています。

油田:川﨑さんは、どんな学校生活や家庭生活を送られていましたか?

川﨑:2歳上の姉と、5歳下の弟と、両親がいる家庭で育ちました。3歳ごろから保育所に通いだしたのですが、そのときは保育所の先生がトイレ介助をしてくれたり、昼間寝るときの介助をしてくれたりしていました。小学校に上がる前、親が普通学校に通わせたいと思って、いろんな交渉をして、地元の岩川小学校に、母親が付き添うという条件で入学が認められました。小学校1年生のときは教室の後ろにずっと母親がいて。で、だんだん「(常に母親が)いなくてもいいんだな」みたいなことを学校側にわかってもらえ始めて。小5のときに母親が高齢者のヘルパーを始めてたこともあって、トイレ介助と移動介護のときだけ来るような形になりました。あと、送り迎えと。それが小学校時代。

介助はすべて母親がしてました。父親は絶対しないっていうことではなかったんですけど、主に母親が担ってくれていたかなと思います。この地方に、当時、障害福祉のヘルパーがどれほどあったかについては、ちょっと僕も知識不足なんですけど……。そういう制度はまったく使わずに、すべて母親に依存という、エド・ロバーツ(※1)の最初みたいな感じでしたね。介助自体も、親も若かったこともあって、体力で乗り切ってたんだろうな、と。

そうそう、一人暮らしを始めてからこの11年間の中で、たまに介助者なしで正月に帰省することが何回かあったんです。そしたらもう、地獄のようにきついという(笑)。ほとんど寝かされっぱなしみたいな(笑)。245歳ぐらいまでは、自分で食事を取れたので、親が食事介助を丁寧にするみたいなのは、うちの文化にはないんですね。食事介助をするという概念がなくて。

油田:面白いですね(笑)。

川﨑:なので痩せるんですよ、正月一人で帰ると(笑)。というのは、まあいい意味で。早く親元を離れたから。親も自分の介護は、もうまったくダメですね、上手じゃないし。普通「親が一番」とか言うじゃないですか。でも僕は早く離れたおかげもあって、そういうことはなくて。介助者を伴って帰った方が、良好な関係で過ごせるかな、と。

油田:川﨑さんは自立生活を始めて、親の依存からも離れてからって、親子関係に変化だったり、感じ方が変わったりというのはあったんですか?

川﨑:やっぱり今の方が優しくはなれてるかなぁと思います。それ以前はやっぱり、僕は喧嘩も多いですし、やっぱり介助を頼まないといけないというところで気づかいがあったり……。(うちの親は)一生懸命自分のことをするタイプではないので(笑)、やってはくれるけど、喧嘩が絶えない感じですかね。逆にそれが自立心を高めて良かったんだとは思うんですけど。だから僕、実家が居心地がいい障害者の気持ちはあんまり理解できないんですよね。「え、親の介助きつくないか?」とか「喧嘩売ったりしないといけないし」と思ってしまう。なので、自立して、お互い手が離れて良かったかなって。

油田:「優しくなれた」というのは面白いですね。

天畠・嶋田:天畠が「その渦中のときは、なかなか自分ではわからないんだよね」という話をしていました。渦中にいるとき、たとえばここで言うと、親に全面的に頼っていたりするときには、親との関係を客観的に見られないから、それが共依存であることに気付くのはなかなか大変なんだよね、と。その辛さみたいなものが自分ではなかなか理解できないことがある、と。

川﨑:ですね。おっしゃる通りで。たとえば、僕も以前、ある障害のある若い方と面談をしたんですね。そしたら横にお母さんがいて。ささやき女将みたいな感じですね。まったくその子としゃべれないんですよね。で、「この子はしゃべれないんかな。そういう障害もあるのかな」って思ってたんですけど、実際に会ったらそんなことなくて。これをどう断ち切っていく、本人にどう伝えていくというのは難しいなと思ってますね。

僕が自立生活に至るまで――「働いてこそ自立」という考えの呪縛|川﨑良太1回目

施設での生活

油田:川﨑さんは中学を卒業された後は、養護学校の高等部に入られたんですよね。

川﨑:はい。その養護学校は、実家から1時間ちょっと離れた場所にあったんで、実家から通うのは難しいということで、入院をしながら通いました。養護学校を選んだのには、勉強ができなくて受かる高校がなかったというのも理由としてはあります。で、当時はやりたいことも特にありませんでした。中学校時代はずっとゲームをしていて。声優になりたいとか、そんなばかみたいな夢しかなかったですよ(笑)。だからほんと、中学生時代までは、当事者と会わない、自分自身が見えてないというマイナス面があったなぁと、今になったら感じますね。でも、親元を離れたいとは思ってました。なぜかそういう独立心みたいなのはあって。で、「もう入院しながら養護学校に通おう」と思って、そこ(南九州病院)に入院しました。

ただまぁやっぱり入院生活はあんまり良くなくて。最初の頃は、金曜日ぐらいになると、涙を浮かべながら窓の外を見てるみたいな感じでした。毎週末実家に帰ってました。でも、だんだんと時を重ねると、筋ジスの同級生が3人ぐらいいましたので、その子たちと遊ぶようになりました。実家にいると、家の中に閉じこもってないといけなかったんですけど、僕が行ってた南九州病院があるところは若干都会だったんですね。なので、そこの、車椅子で歩き回れて、友だちがいて……みたいな環境が自分にとっては新鮮でした。まあ、療養所自体には自由はないんですけど、そういう自由時間に関しては、車椅子で動き回れて自分の好きなところに行けて、イヤフォンをしてMDウォークマンを持ってですね、河川敷で歌うみたいなことは、病院の敷地内ですけど、してました。そういう自由を感じれたので、そういう意味ではまぁ悪くはなかったですね。よく言うんですけど、地元の大きなお祭りに親と一緒に行くより、病院の敷地内であるすごい小さいお祭りに友だちと電動車椅子で行く方が、僕は楽しかった。お祭りの規模が小さくても、自分の好きな友だちとか、そういう人と行ける方が自由だ、みたいな感じですね。そういう良さは、この養護学校時代に感じました。

油田:そうなんですね。療養所の生活って暗いイメージで語られがちだけど、必ずしもそれだけでなく、川﨑さんの場合は、実家にいるよりもちょっと自由があったんですね。動けたり、友だちがいたり……。

川﨑:ですね。まあ、(施設での生活は)人間の尊厳を踏みにじられるほどではなかったですね、僕らの時代は。ほどほどに嫌な経験をさせられる、みたいな感じで。同級生の小っちゃいときの話を聞いたら、どっかに閉じ込められたとか、そういう話は聞いたことはありますけど、僕は3年間しかいませんでしたので、そんなにひどいことはされなかったです。でも、理不尽さを感じたりだとか、「ああ、ずっとここにいないといけないのか」という絶望を感じたりというのはありましたね……

油田:ほどほどに嫌、理不尽だなと感じたのは、具体的にどういう経験から?

川﨑:まぁ、夜に寝る時間とかですよね、簡単に言うと。僕らのときは、7時半にはベッドに寝ないといけなくて。まだ自分で手が動かせたので、寝転がらされてからパソコンをするとか、そういうことはできたんですけど。でも、やっぱり夜の寝返り介助になかなか来てくれないとか、トイレを頼むときも気をつかって頼めないとか、そういう小さなことがありました。障害者どうしの助け合いみたいなのはよくやってましたね。細かすぎて、頼んだらこれ怒られるんじゃないかみたいなことは、手が動く障害者友だちに頼んだりしました。この手が動かない僕がパシらされるぐらい(笑)。けっこうみんなそういう悩みはあったんだと思いますね。僕はリモコンが触れるから、先輩に「テレビの録画を予約して」とか、よく言われてましたね。だから、生活を楽しむとか、そういう質の部分は全然無視されてるというか。

油田:生存に関わる最低限のことはしてもらえるけど、質の部分になるとやっぱり、なかなか難しいですよね。

川﨑:ですね。僕は18歳以下で学童のくくりだったんで、指導室の保育士さんがよく細かいことをいろいろしてくれてましたね。保育士さんはだいたい優しい人が多かったんで、看護師さんには頼めないこと、怒られるようなことをよくお願いして、だいぶ助けられたなという思い出はあります。

嶋田:なるほど。川﨑さんと同じように施設におられた他の方は、そこから「出たい」って思う方が多かったのか、それとも、「まあしょうがないよね」「ずっとここにいるしかないのかな」みたいに諦めている方が多かったのか、そこらへんはどうでしたか?

川﨑:まあ諦めの空気の方が大きかったと思います。僕らの時代の病棟は、重度化してる人が多くて、ほんとにもう社会に出られない。働くところがなかったり、普通の学校に行けないぐらい、障害が重いとされる人たちが多かったので、外に出ていこうという空気感はほとんどなかったですね。病棟で暮らしている先輩たちの中にも「出るの無理でしょ」みたいなことを言う人はいましたね。

僕が自立生活に至るまで――「働いてこそ自立」という考えの呪縛|川﨑良太1回目

自立生活の一端を垣間見る

油田:川﨑さんはそののち、ちょっと期間を挟んで自立生活に移行されたんですよね。外の世界を知るきっかけだったり、諦めから脱出していくきっかけは何だったんですか?

川﨑:ちょうど僕が高3のときに、「自立生活センターてくてく」が立ち上がって5年目ぐらいだったんです。またその頃、僕の同級生に、SMA型の人と、筋ジスのベッカー型の人がいて、同じ病棟に3人一緒にいました。で、てくてくを立ち上げたのが南九州病院の出身者だったんですね。で、「自立者を増やそう」という、てくてくの試みや、ひいては今思うと推進協会(「全国障害者介護保障協議会」(※2)による「全国ホームヘルパー広域自薦登録協会」(※3))などからの勧めがあって、「若い高校生が3人いるぞ」、「彼らに自立生活体験をさせましょう」みたいなやりとりがあったんだと思います(笑)。なんかこう、うまくのせられて(笑)、宿泊体験をするとになったんです。その前に3回ぐらいILP(自立生活プログラム)(※4)を受けて、自立生活ってどういうことか説明を受けましたけど、ほとんど覚えてないです(笑)。で、そのときに『こんな夜更けにバナナかよ』(※5)を一回読んだ、そんな時代背景です。

で、あるとき、てくてく主催のイベントで、島根県の中村宏子(※6)さんという方が病院に来てくださって。中村さんは当時からけっこう重度で、寝たきりだったんで、かなりインパクトがありました。で、ピアカンセリングの集中講座も受けてました。センター目線でいくと、僕はかなり狙い通りの当事者だったんだろうなと思いますね、若いし(笑)。それで、ほんとに何もわかんないまま宿泊体験をして、23日過ごしました。で、今、てくてくで事務局長をしてる岩崎さんという方がいるんですけど、その人がずっと病棟内で若い男の人を引き連れて歩いてるんです。当時、岩崎さんは50過ぎてたんで、僕は「ああ、この人は偉い人で、付き人がいるんだ」って思っていたんですね(笑)。それは付き人ではなく、介助者だったんですが(笑)。不思議に思いながら、自立体験などをして。まあ自立生活の一端を垣間見たみたいな感じですね。で、それから僕は就職してしまうんですけど、そのあいだも、自立生活関係のイベントに参加したりしてました。で、同級生が一人、高卒のタイミングで自立したんですね。というのもあって、それが僕の自立生活運動との出会いだったと思います。

僕が自立生活に至るまで――「働いてこそ自立」という考えの呪縛|川﨑良太1回目

「働いてこそ自立」という考えの呪縛

油田:川﨑さんが一般の仕事に就かれたのはどういう経緯だったんですか?

川﨑:まぁ働きたいと、こう……素直に思っていたんですね。で、何度か障害者集団面接会みたいなところに行きました。今から1415年ぐらい前の話で、まだ全然障害者差別とか認知されてない頃だったと思います。で、僕は高齢者施設になんかピンときて、面接を受けました。それまでに自立生活に触れてはいましたけど、18歳から20歳までは障害年金もないので金銭面でも困るし、当時は「働いてこその自立だろう」という思いが強かったんですね。まったく自立生活の考え方は響かなかったんですね、18歳の私には。

運良く、高齢者施設に就職でき、住んだのは、その大きい法人の中にある、ほとんど介助を必要としない高齢者が住むアパートの中の部屋でした。その法人の高齢者介護のヘルパーさんが、朝30分、着替えと食事の配膳をしてくれて、日中は働いて、夕方は二人介助で1時間入浴介助があって、それが終わったら、次は9時半に30分来てくれて、トイレと洗面と済まして、ベッドに寝かしてもらって。で、夜中の2時にもう一回来てもらって、という形でしたね。

油田:じゃあ、寝返り介助一回ですか?

川﨑:そうですね。その一回だけですね。

油田:うわー、つらい……。

川﨑:しかも最初の何か月は、その法人が居宅介護や重度訪問介護といった障害福祉サービスの指定を取ってなかったので、月7万ぐらい利用料がかかってたと思いますね、自分の持ち出しで。なので、何のために働いてんだかよくわかんないような感じでしたね。

油田:ほんとですね。それは入社するときに条件を出されたんですか?

川﨑:いや、よくわかってないから、何も考えずだったんだと思いますね。さらに、夜中に介助に来てくれていたのはみんな主婦ヘルパーだったんですが、1年ぐらい経ったときに、「夜中に来ると次の日仕事ができなくなってしまうので、介助に来られません」と言われたんです。それを受けて、施設も一応考えてくれて、ナースコールみたいなものを持たせてくれて、それを押したら、はじっこにある特別養護老人ホームで夜勤をしている介護職員さんが来てくれる形をとってくれました。だけど、気をつかってなかなか押せなくて。電動ベッドを上下させたりだとか、そういうことで気をまぎらわしながら、最後の何か月間を過ごしてたと思いますね。もう身体が限界だったんじゃないかなと思います。

嶋田:それでも働くというのは、やっぱり先ほど言ってた価値観みたいなものがそうさせてたんですかね。「しがみつくぞ」みたいな……。

川﨑:ですね。今でこそ若干良くはなってきてると思うんですけど、自立生活センターも、介助を使って単純な自立生活をすることぐらいしか提案ってできないわけですよね。特に人手不足や資金不足の状況にある自立生活センターは、個の選択肢を広げてあげられるような活動はなかなかできてないのかなって。自立生活した後は自分次第みたいなところが残念ながらあると思います。まあ当時の僕は「働くことこそ一番だ」みたいに思ってたんだと思います。それがこう……美徳とされてきたというか、「働いて賃金を稼いで、食いぶちを自分で用意することこそ素晴らしい」みたいな価値観が常にあって。だから、半分ドロップアウトみたいな感じで高齢者施設を辞めようと思って辞表を出したときに、施設長からは「週4とか、時短で働けばいいんじゃないか」って言われたんですけど、それは、20歳の頃の僕にとっては、特別扱いをしてもらってるという認識だったんですね。今で言うと、合理的配慮の範疇だと思うんですけど。そういうふうに思考が邪魔をして、働き続けるのは無理だなと思って。で、なんとか、てくてくの電話番号を、現在副代表の吐合美智恵さんの番号を探し出して、「ああ、もうここに頼るしかないな」みたいな感じで連絡をしました。で、一旦実家に戻って、1年間ILPを受けて自立したという感じですね。

油田:そこで、すぐ「吐合さんの連絡先を探そう」にいけたのは、すごいですね。

川﨑:やっぱり高校時代に種を埋められてた、唾つけてもらってたのが良かったんじゃないかなと思います。こういう作戦は大事だなって。「今響かなくても、ゆっくり響くだろう」というのは、今の活動にも活かされてる気はしますね。

天畠・嶋田:話を少し戻してしまいますが、川﨑さんが働くことの価値観にこだわってしまっていたのはなぜなのか、それが気になりました。

川﨑:そうですね、働くことに関して言うと、やっぱり養護学校の影響が大きかったんじゃないかなと思います。働ける障害者の方がもてはやされるというか……、「就職できて良かったね」みたいな、そういう空気が強くて。まぁ、「自分のできることはやりなさい」みたいな教えと一緒ですよね。だから、ほんとに働くことに意地になってたと思います。でも、その高齢者施設で働いてたときは、遊びにも行けなかったですし、体力もないし。月曜日から金曜日でもう限界まで働いて、土日は寝てるみたいな生活。なぜそこまで執着して働いてたのかというのは……、やっぱそういう、働いてることが素晴らしいとか、そういう自分の中で優劣みたいなのがあったんでしょうね。「働いてない人は良くなくて、働けてる自分はいい方だ」みたいな。そういう思想があって、なかなか辞めることができなかったんだと思いますね。だから、たまに「特別扱いされたくない」みたいな人もいますけど、「ああ、自分もそうだったんだな」と思うと、やっぱり社会の考え方というのはすぐ人に影響を与えてしまうなぁと思いますね。

天畠:私もまさにそうで、特別支援学校の時代での経験で、「働けないと先がない」というふうに思ってしまったことがあります。

川﨑:ねえ。特別支援学校がそれだから困りますよね。もっと、いろんな道を選択させてくれたらいいんですけど。うーん。

嶋田:別の方へのインタビューでも、特別支援学校のキャリア教育の課題が話されていました。特別支援学校を卒業した後の進路について、学校側が生徒に十分な選択肢を提案できていないのではないか、と。また、どういう仕事に就けるかだけでなく、「どういった制度を利用できるのか」「介助者とはどのように付き合っていけば良いのか」といった実践的な話を生徒に行なっていくことの必要性は高いと思います。

川﨑:そうですね。しかも、いい例ばっかり聞く。大学に行けたとか、就職できたとか。そういう先輩の話を聞く機会はあるんですけど、若い子にそういうことを言うと、「自分もそうなりたい」とか「社会環境大変だ」って思わざるを得ない部分はあるのかなぁと思いますね。あとは、自立生活の、ある種「甘え」にとられかねない価値観・考え方みたいなのは、ほんと若い子には響きにくいし、親ないし先生には「自分でしないなんて」みたいになっちゃう。そういうところをどう突き崩していけばいいかというのは課題だろうなと思います。

 

連載2回目の記事はコチラ。

注釈

1.1972年、カリフォルニア州バークレーで、世界で初めての障害者自立生活センターを創設した。「自立生活運動の父」と呼ばれる。14歳のときにポリオを発症し、四肢麻痺と呼吸器障害になった。人工呼吸器を使用した。人工呼吸器を使っていた初期のころは、生活のすべてを母親に依存していたという。

2.http://www.kaigoseido.net/

3.http://www.kaigoseido.net/ko_iki/index.shtml

4.施設や実家を出て一人暮らしをしようとする人たちが、先輩障害者を手本としながら、福祉制度を学んだり、金銭管理、家事、介助者への指示の出し方を身に着けたりしていくためのプログラム。全国の自立生活センターで実施されている。

5.渡辺一史によるノンフィクション書籍。筋ジストロフィーで24時間介助を必要とする鹿野靖明の自立生活と、それを24時間体制で支えるボランティアたちの交流が描かれている。

6.「自立生活センター松江」の代表をされている方。

僕が自立生活に至るまで――「働いてこそ自立」という考えの呪縛|川﨑良太1回目

プロフィール

脊髄性筋萎縮症(SMA)・自立生活センターてくてく代表|川﨑良太(かわさきりょうた)

1987年生まれ、鹿児島県鹿児島市在住。生後間もなく脊髄性筋萎縮症(Ⅱ型)の診断を受け、以後、車いすを使用しての生活を送る。地元の小・中学校に通学した後、高校は旧国立療養所筋ジス病棟に入院し特別支援学校へ通う。卒業後、高齢者施設の職員として勤務した後、24時間の自立生活をスタート。その後「自立生活センターてくてく」のスタッフになり、2016年から代表を務める。自立生活12年目の2020年結婚。現在は妻、息子、介助者との生活を送る。

文/油田優衣

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