あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載2回目

「仕事と生活の両立―働く中での困難さと葛藤」

Michiko Noboriguchi

文/吉成亜実 : 写真/志水知子

脳性麻痺・兵庫県在住|登り口倫子(のぼりぐちみちこ)

1985年生まれ。東京都出身。3歳まで東京に住み、その後北海道札幌市で過ごす。脳性麻痺のため、電動車椅子を用いて活動しており、パソコン操作や食事といった手元の動作以外のすべてに介助が必要。
大学卒業後、清掃事務、相談支援専門員、自立生活センター「NPO法人札幌いちご会」理事などを経て、2020年に兵庫県へ転居。現在は、日本語教師になるための資格取得を目指し勉強中。

目次

「私の働きを見て決めて欲しい」と伝えた就職活動

吉成:前回までは、介助の時間数について伺いましたが、大学卒業後はどうされていたのですか? 

登り口:最初は障害のある当事者団体で、バリアフリーの促進や障害者支援制度を変える取り組みを行っていました。私は障害者団体の世界だけではなく、もっといろんな世界を見たいという性格なんです。カウンセラーや福祉の相談員になりたいと思ってもいましたが、福祉の分野だけではなく、当時は「一般社会で働きたい」という思いが強かったんです。社会福祉士は取ったけれども、相談員になるにはもう少し、いろいろな世界を見ないといけないという気持ちもあり、一般の清掃会社に勤めました。

ただ、そこに勤めるまでに3年かかりました。ハローワークに通って3年、就職活動を続けたんです。本当にたくさんの求人票を何百と見て、書類を何十か所にも送り、やっとの思いで面接に漕ぎつけても「介助が必要だから」と断られてしまいました。それを3年間続けて、ようやく清掃会社の事務に決まりました。

 吉成:その就職活動の中で見つけた、やっと入れるというところが、清掃事務だったのですね。

 登り口:そうです。ただそこはハローワークや、就労移行支援で見つけたわけではなくて。就職活動を始めて3年程経って、「もう就職するのは無理だ」って思ったんです。でも私は、介助が必要だけど、自分の能力は活かせる。「ほかの人よりもできる仕事がある」という気持ちや「介助面がネックだとしても、私の働きを見てから決めてほしい」という思いが強くありました。

そのような思いもあり、ある日、直接会社の門を叩いて「雇っても雇わなくてもどちらでも良いから、実習させてほしい」と頼んでみたのです。そこが、就職した清掃会社でした。

 吉成:仕事の内容や業務上の介助はどのような感じで行われていましたか?

 登り口:業務はパソコンの打ち込み作業でした。介助は、PA(パーソナルアシスタンス制度)で入っていたヘルパーさんにそこの会社員として就職してもらい、職場の介助者として入ってもらいました。

 ――就職活動の問題については「重度訪問介護を就労中でも使うことができたら、どんなに良いことなのか」と言っていた方もいました。新しい制度も少しずつできてきてはいますが、本当にそれができればと思います。

 登り口:そうですね、まさしくその通りです。職場介助者への助成金が事業主に払われる仕組みというのはありますが、少し利用しづらくて。毎月事業主が「どの介助に何分かかった」という報告をして、やっと介助に関わる金額の何分の一かの助成金が得られるという制度なんです。そのため、どうしても事業主が「そこまでするのは難しい」となってしまいます。

私の場合も、せっかく知り合いの介助者に介助のためにその会社の社員になってもらったけれど、常に介助が必要なわけではないから、介助と介助の間にその介助者が何か仕事を頼まれてどこかに行って、結局好きな時間にトイレに行けないということが生じていました。なので、絶対個人に、私個人に介助者を雇う。その制度ができればいいなと思います。

 吉成:清掃事務のお仕事はどれくらいの期間勤めていらっしゃいましたか?

 登り口:たぶん1年くらいだったと思います。というのも、私ができる業務がけっこう限られていて。事務仕事と言えば、来客対応や電話対応、物品の整理などがメインの仕事だと思うんですけど、それがなかなかできず、回してもらえる仕事がとても少なかったんです。そういうこともあり、1年くらいの勤務になりました。

 吉成:清掃事務の仕事を終えたあとは、どのような生活をされていましたか?

 登り口:清掃会社退職後は、少し休んでから、一人暮らしをする際に利用した相談室に仕事について相談しました。その時は「仕事がないか」という相談をしたのですが、ご厚意で「じゃあうちの法人で働かない?」と誘っていただきました。「採用についてはきちんと評価するから、履歴書を送ってくれれば面接するよ」っておっしゃっていただき、そこで面接を受けて、「社会福祉法人あむ」(※2)という法人に就職をしました。

相談員のお仕事は、来所された障害のある方やそのご家族の相談に乗ることなどを行っていました。支援会議は、たいていほかの相談員とペアを組むため、会議室まで車で一緒に行って参加していました。トイレ介助などはペアの相談員にやってもらいました。

 吉成:相談員の仕事では、介助面でのハードルはそこまで高くなかったのでしょうか?

 登り口:そうですね。考えかたとしては、本当に受け入れてくださっていました。ただ、現場に行っている相談員もいたので、「私一人だけで電話当番」ということもありました。そのような場合は、ほかの部署から応援に来ていただいて、なんとか対応していました。

「制度に人を合わせる」のではなく「人に制度を合わせていく」

吉成:アメリカに研修へ行ったと伺ったのですが、それは相談員の時のことですか? 

登り口:そうです。アメリカに行ったのは、つい最近。「社会福祉法人清水基金(※3)」の助成金制度に応募する機会があり、1か月間アメリカに行ってきました。相談員の仕事をしていたので、アメリカの福祉サービスの決定を行う機関に出向き、「パーソンセンタード・アプローチ」という、本人中心主義で福祉サービスのプログラムを立てるという考えかたについて、現地の相談員から話を聞く研修をしました。

 吉成:実際に現地でお話を伺って、いかがでしたか?

 登り口:パーソンセンタード・アプローチは、まず「本人がどのような生活をしたいのか」をすべて聞き出し、そこから利用する支援を考えるというものです。日本では「洗濯に何分」などのように、作業に対して細かく時間を設定し、トータルの時間数を決定しています。パーソンセンタード・アプローチでは、平日・余暇についても、障害のある方が通う作業所に限らず、一般的な場所まで含めて「どのようなところで誰と、どのように時間を過ごしたいか」を聞いたうえでプログラムを立てます。その一部に障害福祉サービスのような、ヘルパーさんが来るサービスが必要かもしれないという考え方です。ほかにも、たとえばバスで通うための、通い方を教えてくれる支援者をつけるだとか、本人を中心に考え、総合的に支援プログラムを立てようというところが日本とは違うと感じました。

 吉成:支援の仕組みが日本とはまったく違うのですね。

相談員としての葛藤

――日本とアメリカでの考え方の違いを感じたという意味では、相談支援専門員として仕事をする中で、矛盾のようなものを抱えながらのアメリカ研修だったのでしょうか? 

登り口:() そうですね、その通りです。相談の仕事も限界を感じる時がすごくあって。「何のためにやっているんだろう?」と思ったこともありました。

今の仕組みでは、制度の中に障害者を埋め込むような形になってしまう。それは行政から委託された相談員だからでもあるかもしれないけど、どうしても決まった制度の中で何ができるかという考え方になってしまいます。もっと広い視野を持ってできれば良いのにと、私の中で葛藤していた部分でした。

 ――訪問介護の時間数をどのようにして引き出すかについて、人によっては相談支援事業所を通して、客観的に見て納得させられるようなプランを作り、それを持って行政を納得させる、という方法もあると思います。ただ、その方法ではプランが時間数を引き出すための道具になってしまっているような気もします。

 登り口:「まず時間数を確保する」ということは本当に必要なことだと思うんです。でもそのために利用者は「自分がいかにできないか」ということを知らしめなきゃいけない部分があって。私がやりたいのはそういったことではなく「自分がどのような生活がしたいか」を描く支援をすることなんです。その点については、いつも真逆のことだなと思いながらやっていました。本人の希望や意思に沿うプラン作成を相談員もやらなくてはいけないのに、とても歯がゆい気持ちでいました。

 ――吉成さんは現在、相談支援専門員の方とプランを作っているのでしょうか? それともセルフプランですか?

 吉成:私は今、相談員の方に入ってもらっています。それもあり、登り口さんのように当事者でもありながら、当事者目線で利用者のことを考えてくれる相談員さんは、本当に心強い存在だろうなと思います。

 登り口:でも、私の中では「役に立てなかった」という気持ちが本当に強くて。もっと自由に、自分の生活を思い描ける社会であれば良いのにと思います。決められた枠の中で働いて、介助を受けながら働いていたことで、そこまで力を注げなかったのが、私の中では心残りです。

 吉成:相談員のお仕事を離職したきっかけをお伺いできますか?

 登り口:当時は働きながら自分のヘルパーさんのマネジメントもしていました。なので、ヘルパー研修やヘルパーさんのシフトに穴が空いたときの調整などを同時にやりながら働くことが体力的に厳しくて。頭痛がひどくなり救急車で運ばれたこともありますし、背中や腰の痛みがひどく、座っていることができなくなったこともありました。そのようなこともあり、自分の体調を考えて一度仕事を辞めようと思いました。

パーソナルアシスタンス(PA)制度について

吉成:次に、登り口さんが札幌市で利用していた「パーソナルアシスタンス制度」について教えていただけますか?

 登り口:パーソナルアシスタンス制度(PA)は、重度訪問介護の自分が持っている支給量のうち、自分で決めた時間分をお金に換算して、自分が見つけた介助者に、自分が定めた時給を払うことができる制度です。

お金の換算は、重度訪問介護1時間あたり2,400円になります。10時間をPAに当てた場合は24,000円です。例えば、時給を1,200円に設定したとして、重度訪問介護では10時間だったところ、PAでは2倍の20時間利用できるようになるという仕組みです。PAとなる介助者自体は自分で探し、相手と個人契約を結んで雇う形になります。

基本的に、PAについては1か月ごとのシフトから給与支払いまでをすべて自分でマネジメントする必要があります。PAとして働くための資格は必要なく、働く時間数や給料などのルールは、厳密に労働基準法で定められているものではありません。重度訪問介護と同様に、PAも重度訪問介護同様、介助を利用しつつ就労することは認められてなくて、介助内容としても重度訪問介護とできることはほぼ一緒です。

 吉成:登り口さんはPA制度を、どのように利用していましたか? 

登り口:札幌にいた時は450時間の支給決定を受けていて、そのうち170時間程度をPAに当てていました。重度訪問介護は、280時間くらいだったと思います。PA1012人雇って、重度訪問介護の事業所から来るヘルパーさんと合わせて1315人くらいで、1か月生活していました。

 ――PAを半分ぐらいで、残りは事業所からの派遣という、その組み合わせの意図はありましたか?

 登り口:基本は労働基準法に沿って、きちんと給料を得られるような働き方をしてもらったほうが良いと考えていたので、PAはあくまでも補助だと思って利用していました。学生や外国人など、資格がなくても働ける方がいるなら、その間口(まぐち)としてPAも利用して人を集めようと考えていました。資格がある方には重度訪問介護で働いてもらいたいと思ってたので、あえて「半分にしよう」という意図はなく、自然とそうなりました。

 登り口: 170時間だと、408,000円をPAに使うことになります。そこで、時給をいくらにして、何時間来てもらうかなどを決めて利用していました。

 吉成:PAのメリット・デメリットがあれば教えてください。

 登り口:特別な資格は不要なので、身近な人を誰でも介助者として雇えることが大きなメリットだと思います。事業所のヘルパーさんでは、事業所の都合でヘルパーさんが変更になることがあるので、せっかく築いてきた関係性や介助方針が崩れてしまうこともあります。また、事業所のヘルパーさんは事前に面接ができないので、どのような方が入るかも分かりません。その点、PAなら自分の介助者としてふさわしいかどうか、事前に判断できるところはすごく大きなメリットだと思います。

一方で、デメリットとしては、そもそもどのような介助者が良いのか判断しづらかったり、関係性の築き方に悩んだり、それを相談できる相手がいなかったり。雇用に対する責任がすべて自分にあるので、辞めてもらうタイミングや関係性の変え方まで考えることになり、その点が大変だと思います。あとは事務手続きですね。請求事務やシフト調整が大変で、代わりにやってくれる人がいれば、とても楽だったのにと思います。

 

連載3回目の記事はコチラ。

注釈

2.https://www.amu.or.jp/

3.https://www.shimizu-kikin.or.jp/

 

プロフィール

脳性麻痺・兵庫県在住|登り口倫子(のぼりぐちみちこ)

1985年生まれ。東京都出身。3歳まで東京に住み、その後北海道札幌市で過ごす。脳性麻痺のため、電動車椅子を用いて活動しており、パソコン操作や食事といった手元の動作以外のすべてに介助が必要。
大学卒業後、清掃事務、相談支援専門員、自立生活センター「NPO法人札幌いちご会」理事などを経て、2020年に兵庫県へ転居。現在は、日本語教師になるための資格取得を目指し勉強中。

文/吉成亜実

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