あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

「介助と青春の狭間で―自らボランティアグループ作り」

Michiko Noboriguchi

文/吉成亜実 : 写真/志水知子

「介助と青春の狭間で―自らボランティアグループ作り」登り口倫子さん1回目

脳性麻痺・兵庫県在住|登り口倫子(のぼりぐちみちこ)

1985年生まれ。東京都出身。3歳まで東京に住み、その後北海道札幌市で過ごす。脳性麻痺のため、電動車椅子を用いて活動しており、パソコン操作や食事といった手元の動作以外のすべてに介助が必要。 大学卒業後、清掃事務、相談支援専門員、自立生活センター「NPO法人札幌いちご会」理事などを経て、2020年に兵庫県へ転居。現在は、日本語教師になるための資格取得を目指し勉強中。

【イントロダクション】

登り口さんと出会ったのは、私が長い入院生活から地域生活に移るための準備をしていた時のことです。登り口さんは同じ地域で生活する当事者として、私に制度や生活のことなどをたくさん教えてくれました。地域移行・自立生活という未知の事柄に不安が大きかった当時の私は、登り口さんの穏やかな様子や優しさに、とても助けられていました。
私は日々自立生活をする中で、大変なことや制度が整っていないと感じる部分があります。自分のことを考えるだけで精一杯な今の私を思うと、当時退院前の私を支援してくれた登り口さんには、改めて尊敬と感謝の気持ちを抱きます。
これまで、北海道札幌市で様々な活動されて来た登り口さんは、2020年12月に長年暮らしていた土地である北海道を離れ、兵庫県へ拠点を移しました。
今回のインタビューでは、登り口さんの原動力がどこにあるのかを探るため、これまでの活動や葛藤、兵庫県への転居を決意した理由などをお伺いしました。

※吉成亜実インタビュー記事はコチラ→①二度の退院の断念ーー命と将来を天秤にかけられるーー ②絶望から、退院までの道のり「私にもできたのだから、あなたにもできる」と伝えたい

(文/吉成亜実

目次

「介助と青春の狭間で―自らボランティアグループ作り」登り口倫子さん1回目

親から離れるために選んだ寄宿舎生活

――本日のインタビューは、登り口さんとも面識のある、吉成亜実さんがインタビュアーとなります。よろしくお願いします。

ところで今、Zoom(ズーム)越しに登り口さんのお顔だけが見えている状態だと、障害があるかどうか分かりませんね。

登り口:そうですね。ちょっと見た目では分かりにくいので、訪問介護の時間数の交渉とかも、どうしても低く見られてしまうことがあります。

 吉成:登り口さん、よろしくお願いします。今回のインタビューでは、これまで様々な活動を精力的にされてきた登り口さんの原動力がどこにあるかを探りたいと思っています。そのために、これまでのことを一通りお伺いしたいと思います。まずはじめに、学生時代はどのように過ごされていましたか?

 登り口:小学生の時は、普通小学校に6年間通いました。小学校には実家から通い、中学生・高校生の時はそれぞれ病院と寄宿舎から養護学校に通う生活をしていました。

 吉成:小学校・中学校・高校と、それぞれ生活に変化があったのではと思いますが、どのように過ごされていましたか?

 登り口:小学校のときは基本健常の同世代の人と一緒に学んでいました。ただ、トイレに行くことや給食を運ぶのが難しかったり、テストで書くのが遅かったり、同世代のほかの人よりもできないことが多くて、当時はちょっと劣等感のようなものを抱いていたなと思います。それでも、友達と交換ノートをしたり、遊びに行ったりすることができた時期でもありました。

中学・高校は病院と寄宿舎で生活をしていました。職員から介助を受けながら養護学校に通う生活で、なかなか外に出られる機会がありませんでした。普通は放課後にマックに行くとか、同世代との時間を過ごせたと思うんですけど、そういうことがまったくできなかったので、それがちょっと心残りです。

 ――中学・高校生活についてですが、地元の中学校には介助体制がなく、特別支援学校に行かざるを得なかったという方もいれば、自分に合ったケアを受けるために、特別支援学校のほうが良いという方もいると思います。登り口さんの場合はいかがでしたか?

 登り口:普通だったら「皆と同じ中学校に進みたい」という気持ちが強いと思います。でも、私の場合は小学校6年間母親がほぼ毎日つきっきりの生活をしていて、中学校の3年間もまた同じことを繰り返すことは厳しく、現実的ではありませんでした。それに、親とほぼ毎日一緒だから「離れたい」という気持ちもあって。申し訳なさと「親から離れた生活をしたい」っていう気持ちが強くて、養護学校に進みました。

 吉成:養護学校に行ったことで「親の手から離れたい」というところは解消されたと思いますが、病院や寄宿舎では、生活に不自由はありませんでしたか?

 登り口:行きたいときにトイレに行くとか、余暇の時間に出かけるとか、寄宿舎や病院の時間割に沿っていかなきゃいけなかったので、まったく自由がありませんでした。あとお風呂は週2回だけとかで、ほんとは毎日髪を洗いたかったのですが、それができなかったので、とても不自由でした。

「介助と青春の狭間で―自らボランティアグループ作り」登り口倫子さん1回目

同世代の仲間と交流するため大学でのボランティアグループを立ち上げる

吉成:養護学校卒業後は寄宿舎を出て、大学進学をされたということですが、大学での介助はどのようにされていましたか?

 登り口:最初はトイレの時間だけ、事業所の方に来てもらっていました。しばらく続けましたが、自費のためお金もかかりますし、決まった介助時間のたびに友達と別れて、介助を受けなければならないということが一番辛かったです。友達との時間が途切れることで、私がどういう介助を受けながら生活しているのかを、友達にまったく知られないまま過ぎていく。当時はそれがすごく悲しくて。私がどういうふうに生きているか、どういう支援が必要なのかをもっとオープンにしたいという気持ちがありました。

そこで「学生に介助のボランティアを頼みたい」と、大学の先生や様々な方に協力してもらいながら、ボランティアを募って学内の介助体制を作っていきました。

 吉成:現在は大学によって障害のある学生を支援する支援室がありますが、登り口さんが学生だった当時はなかったと思います。そういった支援体制を登り口さんが先進的に作ったというのはすごいことですね。

 登り口:当時、学生組織の中でも聴覚障害のある学生に対して、情報保障(ノートテイクや手話通訳)のボランティアは行われていましたが、車椅子学生に対しての支援はまったくありませんでした。それでも私は介助が必要だったので、個人で募ってやっていったという感じです。

通学介助のボランティアについては、私の卒業後に同じ学生組織で始まったそうで、私の行動が大学での支援体制を作るきっかけになったのかなって思います。

 ――介助者がいたり、介助の時間に合わせて生活しなければいけなかったりすることで「青春の部分の支援が足りない」という話もあり、まさにそうだなと思いました。

 登り口:そうなんです。たとえばトイレに行くことができるとか、通学ができるということは基本的に必要なことですが、まさしく「いかに同世代や仲間との交流ができるか」が課題かなと思います。

難しいですよね。友達だからといって、介助がどこまでできるかは人それぞれだったりするから。それがプライベートなことであればあるほど、特にトイレ介助になると、友達だからといって誰でもできるわけではないし。そこのところをどうやっていくかに悩みます。今でも悩みますね()

「介助と青春の狭間で―自らボランティアグループ作り」登り口倫子さん1回目

親が元気なうちに挑戦したいと、自立生活をはじめる

吉成:大学にはご実家から通われていたそうですが、そこから自立生活に至った経緯を教えてください。

 登り口:大学進学にあたり一旦実家には戻りましたが、その後やっぱり「親が元気なうちに一人暮らしに挑戦してみたい」と思って。大学2年生の後半に一人暮らしを始めました。

 ――ご家族は応援してくれましたか?

 登り口:両親はたぶん、まず一人暮らしができるのか想像がつかなかったと思います。一人暮らしは2006年に始めたのですが、その頃は障害者自立支援法ができて間もない頃でもあり、「ヘルパーさんに一日中ついてもらって一人暮らしをする」という想像がまったくつかなかったでしょうから。

当初は私も想像がつきませんでしたが「一人暮らしする」と決めたら、私はやるので()。きっと両親は「はっきり言ったってことは、やると決めたんだ」と思ってくれていたと思います。もともと手取り足取り教えて手伝ってくれる両親ではないので「やれるならやれば」という感じで、そのまま進めていきました。

 ――手取り足取りというよりも、突き放した感じのご両親だからこそ、実際に一人暮らしを始めることができた?

 登り口:はい、そうです。

 吉成:自立生活は、どのような繋がりや支援があって始められたんですか?

 登り口:最初は、札幌市の委託相談支援事業所「相談室ぽぽ」(※1)に相談をして、相談員さんと一人暮らしの部屋を探しました。その時、時間数の交渉がうまくいかず、札幌市内の自立生活センターさんにも協力してもらい交渉をしました。その甲斐あって一人暮らしを始めることができました。

 吉成:支給を受けるための行政との交渉は、具体的にどのようなところが大変でしたか?

 登り口:現在の「重度訪問介護」は、当時「日常生活支援」と呼ばれていて、最初、私は90時間しかもらえませんでした。90時間で生活をするのはさすがに無理だったので、当時の時間数としては最高の330時間を目指して交渉をしました。「何時何分に何をやる」ということを細かく表にして、行政の方にその場ですべて説明をして交渉をしていきました。

 吉成:そこから支給時間が450時間に増えたのはどうしてですか?

 登り口:私が直接交渉を続けていったというよりは、当時重度訪問介護の利用をしていた方々から、「時間数を上げてほしい」と訴えがあり、市が希望者には450時間に上げていこうということになりました。

 ――タイミングも良く、時間数を獲得することができたのですね。次回は大学卒業後、どのように介助を受けながら就労の経験を積み重ねていったのか、伺っていきたいと思います。

 

連載2回目の記事はコチラ。

注釈

1. https://www.amu.or.jp/service/popo.html

「介助と青春の狭間で―自らボランティアグループ作り」登り口倫子さん1回目

プロフィール

脳性麻痺・兵庫県在住|登り口倫子(のぼりぐちみちこ)

1985年生まれ。東京都出身。3歳まで東京に住み、その後北海道札幌市で過ごす。脳性麻痺のため、電動車椅子を用いて活動しており、パソコン操作や食事といった手元の動作以外のすべてに介助が必要。 大学卒業後、清掃事務、相談支援専門員、自立生活センター「NPO法人札幌いちご会」理事などを経て、2020年に兵庫県へ転居。現在は、日本語教師になるための資格取得を目指し勉強中。

文/吉成亜実

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