あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載2回目

「自由」を手にした一人暮らし 「世界の色が違って見えた」

Asagiri Yuh

文/油田優衣 : 写真/中井和味

ウェルドニッヒ・ホフマン症、シンガーソングライター・作家|朝霧裕(Asagiri Yuh)

1979年、埼玉県生まれ。愛称は「ダッコ」。筋肉の難病ウェルドニッヒ・ホフマン症(脊髄性筋萎縮症)のため、車いすの生活、24時間の介助サポートを得て、さいたま市で一人暮らしをしている。シンガーソングライターとして、コンサートやライブ活動、学校講演を行うかたわら、エッセイを執筆。「障害の有無、世代を問わず、誰もが輝ける社会」を夢として、書き、語り、歌う。
著書に『いつかの未来は夏の中』(七賢出版, 1995年, 本名・小沢由美の名で出版)、『命いっぱいに、恋 ―車いすのラブソング―』(水曜社, 2004)、『車いすの歌姫 ―一度の命を抱きしめて―』(NKKベストセラーズ, 2010)、『バリアフリーのその先へ! ―車いすの3.11―』(岩波書店, 2014)など。

目次

先生や同級生の支援を得ながら過ごした専門学校時代
健常の仲間との生活の中で社会に出ていく自信を取り戻す

油田:これまでのお話で、高校生くらいで自立生活という生活のあり方を知るものの、将来への見通しが持てなくてとても深い不安と葛藤の中におられたというお話をお伺いしました。ここからは、養護学校の高等部卒業後のことを聞かせてください。

朝霧:養護学校を出てそのままポンって社会に出るはあまりにも自信がなかったので、もう一つ上の学校に行きたいって言って。大学も受けましたが、本当に勉強しなかったので落ちて。1年浪人をしようか迷ったけれども、いろいろな大学に、車いすなんですけど受験していいですかって問い合わせたときに、福祉学部があるような学校でも、「当校は障害を持つ方を支える人材を育てたいという学校ではあるんですけども、障害当事者の方が実際に生徒として来られることは想定しておりませんでした」って断られてしまって。やっぱりまだ当時はエレベーターがある大学とかなかったですし、教室移動は全部段差。受験資格がないですと言われてしまうことも、たびたびありました。
そんなときに、ものは試しくらいの気持ちで、専門学校にも電話をかけて問い合わせてみたんです。何校かは断られてしまったんですけど、電話をかけたうちの1校が、埼玉県の熊谷市にあるアルスコンピューター専門学校という学校で。たまたま当時の副校長先生が、アメリカ西海岸のバークレーという町に研修に行かれて、むこうで障害を持つ方もいきいき暮らしてる様子に衝撃を受けたという方だったんです。

油田:すごい!

朝霧:電話をしたら、「ぜひ、来てください」って言われて。「あなたみたいな方はぜひ来てほしいので、トイレの介助等はうちの女性の先生たちでやります。元気な男の子たちもいますから、ちょっと段差はありますがクラスメートでみんなで手伝うのが勉強ですから、ぜひ来てください」って、最初の電話で薦めてくださったんです。もうこれは行くしかない!と思って、そこへ入学し、2年間通いました。健常の仲間たちに囲まれるのは幼稚園以来だったので、最初はもうドキドキでした。
何かの授業の教室が、一階にしてくれれば良かったのに、まさかの7階だったんです。建物にはエレベーターがあったんですけど、当時は古くて、よく止まって、しょっちゅう点検中になってて。よく、おみこしみたいにして、7階まで階段を担いで上げてもらいました。みんな社会人に近い年齢ですし、「こりゃあ段数があるなー!」とたぶん冗談っぽく言われたりとかはしてたと思いますけど、本当に快く助けてくれるし、楽しかったです。

油田:だっこさんの自伝『命いっぱいに、恋』で、アルスコンピューター専門学校の副校長をはじめとする先生たちが「前例がないならつくればいい」と言って、だっこさんを受け入れてくれたという話を読んで、すごいなと思っていました。ちょっと私のことを話させてもらうと、私は、だっこさんが大学に入られたおよそ15年後の2012年に福岡県の教育委員会に行った時に、もうそこで何回も「(普通高校で介助者をつけるのは)前例がないので、無理です」って言われて。当時は子供ながら意味がわからなかった。「いやいや、前例はつくるもんでしょ。何言ってるの……!?」って思ってました。最近でさえこうなのに、その15年くらい前の、まだ障害のある人への理解も今よりは全然進んでなかった時代に、「前例はないですが、ないならつくりましょう」って言えるのはすごいな、と。

朝霧:受け入れの判断をしてくださった先生方が、すごい方々だったと思います。

油田:バークレーで障害のある人が学ぶ姿を見ておられたんですね。それを見てなかったら、想像すらできないと思うんです。

朝霧:そうだと思います。本当に目で見たこと、やっぱり大事です。

油田:専門学校時代はどんな思い出がありますか。

朝霧:女子が3人で男子が20人ぐらいの、女子が少ないクラスで、そんな大きいクラスではなかったんですけど、おもしろかったです。ちょっと、なんて言えばいいんでしょうね、「埼玉リベンジャーズ」って感じの、熱い青春をしてきたような仲間たちのほうが、結構、率先して手伝ってくれるということを学びました階段や段差、「さあ、俺たち出番だぜ」みたいな感じでホントにたくさん手伝ってくれて。すごいそれは嬉しかったです。かっこいい子ばっかりだった(笑)。
でも、もっといろんな友達と自分からしゃべればよかったと思います。12年ずっと養護学校にいたし、そのときは年齢もあったのかな。「健常者の人だ……!」みたいな気持ちがあった。階段上げてくださいとか、ドアを開けてくださいとかっていうのも、ちょっと遠慮がちっていうかね、ものすっごい勇気が必要で。今だったら言っていいかなとか、お弁当食べる前だから申し訳ないかなとか、ちょっと急いでそうだなとかって、相手の様子を伺いすぎてしまったり。別に一回も誰かから嫌だなんて言われてないんだよ。でも、自分が考え過ぎちゃって。いつも手伝ってもらって申し訳ないなみたいに思い過ぎてしまったりとか。同じ年の仲間たちだったんだから、もっと信頼してじゃんじゃん話し掛けていけばよかった。ちょっと性格に猫をかぶってしまっていたことは、もったいなかったなあと思います。
でも、それなりに楽しい経験ができたのはよかった。養護学校しか知らなくって、ポンって社会に放り出されて、「さぁ生きていってください」ってなるよりは、この専門学校時代に、健常の仲間の中で、自分から人に声を掛けていく練習をして、自信を少し取り戻せてから次に行けたので、よかったと思っています。

直面した就労の壁 死にたいほど落ち込んだ末に、一人旅へ

油田:その後、だっこさんは、就労の壁に直面されるんですよね。

朝霧:はい。就活をして、40社受けて、全部落ちて。落ちると、「あなたさまのよき未来をお祈りしています」とか「あなたさまの未来がよきものになりますよう、今後のご活躍をお祈り申し上げております」っていう手紙やメールが来るんですよね。すごいいっぱい祈られた人生だった(苦笑)。いろんな会社から祈られた人生だから、いい人生になると思っています(笑)。

油田:(苦笑)。その当時は介助を付けながら働くってことが、話題にすらなってなかった時代ですよね。今でこそ話題になって、それこそ最近、通勤や勤務中に介助を支える自治体もわずかながら出てきたけど、だっこさんの時代は、そんな選択肢はあり得なかったことですよね。

朝霧:夢のまた夢です。自分で通勤ができること、勤務中のトイレと着替えは自分でできることが、もう絶対条件。例外はないっていう時代でした。学校内で私だけ進路が決まらなくって、まったくの無職での在宅生活になり、本当に行き場のない状態になってしまった。本当に(気持ちが)落ちました。社会全体から、「おまえなんか何の役にも立たない」って言われてる気がしていました。でも、その時に、私がひどく落ち込んだことをすごく心配した母親が、「あなた、ご縁のあったありのまま舎にでも行ってきなさい。このまましょぼんってして、家でどうしようって言っててもしょうがないでしょう」って言って、一人旅に出されたんです。その時は、なぜか分からないけど、「お母さんついてきて」とは言っちゃいけない気がしたんです。その頃は、もう電動車いすに乗っていて、トイレもずっと全介助だったんですが、トイレのためにはたしか紙おむつをして、電動車いすにリュック背負って1人で仙台のありのまま舎に行きました。大冒険でしたね。

油田:だっこさんを一人旅に出したお母さん、すごいですね。

朝霧:よく出したと思います。よほどひどい落ち込み方をしてたんでしょうね。ちょっと鬱のような状態だったのかなと思います。一人旅でありのまま舎に行って、もう一回、山田さんとかそこで暮らしていらっしゃる皆さんに生き方を見せていただいたりしました。その時はあまりにも当時落ち込んでいたので、ありのまま舎に着いた最初の日に、「もうここで死んじゃってもいいかな」とまで思っていました。だけど、職員さんや入居者の皆さんが、青白い顔して笑顔もない私に、いっぱい話し掛けてくださって。ちょっと松島でも見に行ってみるか、おいしい牡蠣でも食べれば元気が出るだろうって言って、お世話を焼いてくださったりとか。僕は絵を描いていて、毎年個展に油絵を出してるんだって、絵を見せてくださった方とか。車いすだけど、写真家として写真を撮って、カメラマンになるのが夢なんだって写真の活動している方とか。今日ボランティアさんたちとたこ焼き食べるから、だっこちゃんもおいでって声掛けてくださったりとか。入居者のお一人の女性の方に、ぽろぽろ泣きながら、就活にチャレンジしたけど、これこれこういうわけで、私は何もできないのかしらって言った日があったんです。でもそしたら、その方は、「だっこちゃんは詩や歌が好きだったらなんか歌ったりとかしてみれば」って、「まだ若いんだから、そんな20歳やそこらで死んじゃったほうがいいかしらなんて早いよ」って言ってくださって。山田さんも本当に励ましてくださいました。せめて泣き言は障害がもっと進んでから言いなさいみたいに言われて。「足がなければ手がある、手がなければ口がある、口がなければ最後には頭がある」って言ってくださって。私は本当に頭がないけど、でもたぶん根性はあるから、ここで死んでしまうのは早い気がすると思って。職員や入居者の皆さんに救われました。

「介助がなければ、何をするにも埒が明かない」
仲間のサポートを受けながら一人暮らしに踏み切る

そして、仙台から帰ってきて、じゃあ何からしようかなと思ったときに、例えば、就職を考えるにしろ、音楽をやってみるために何かの努力をするにしろ、どこに行くにも全部の送迎をお母さんがやってっていうのはもう違うと思って。そこで、スイッチが入りました。介助がなければ、埒が明かない。今後もトイレの介助は全部お母さん、会社に行く送迎介助も全部お母さんでは、お話にならないと思って。専門学校のときに学んだパソコンで、いろんな掲示板に「私のような障害で一人暮らしをしている方はいますか」と書いたり、養護学校の先輩――小山内さんのセクシーな本を貸してくださった先輩とか――にも聞きまくったりしました。
その後、当時の浦和市は、県内では一番福祉の制度が進んでいて、24時間完全にではないけど、生活保護制度の中の他人介護料という、介助さんに賃金を払うためのしくみや、外出のためのガイドヘルプなど、使える制度があることを知りました。それら制度を使いながら、足りないところはボランティアさんで埋めながら一人暮らしをしてるという方がいらっしゃって、先輩などを辿り、その方を紹介してもらいました。それが、自立生活センターくれぱすとNPO法人ぴあ・ぱれっとの立ち上げメンバーだった上野美佐穂さんと見形信子さんです。お二人とも、たまたま私と同じ障害を持った女性の方でした。ロールモデルとしても身体的に近いし、むしろ、私よりも障害が重かった。おふたりはちょうどこれから事業所を始められるぐらいのときで、「ここでこの二人に飛びついてでも一人暮らしに踏みきらないと、人生最大のチャンスを逃すかもしれない!」思って、踏み切りました。
「でも、私、仕事がないから、生活ができないかもしれない」と言ったら、「障害を持っていてそこまでの努力をして、どうしても駄目だったっていうことなんだから、生活保護を受給して、そこを足掛かりにしてもいいと思うよ」っていうこともアドバイスをいただいて。それは、決してずるとか怠けとかではないと。すべての健常者も障害者も含む、だれのいのちも暮らしも見捨てない。そのための社会制度なんだから、と。私は、それまで、養護学校で「自立しろ。甘えるな。お前たちは障害者なんだから、人様に迷惑をかけないように生きなさい」と言われすぎていた背景もあって、生活保護を受給するっていうのを、それでは駄目だ、それでは悪だみたいに思っていました。でも、そういう考え方のほうが、差別なんだということも、おふたりや、続く多様な障害を持つ方々との出会いの中で学びました。
一人暮らしをすることについて、両親はすごく反対しました。特に父はボルケーノが噴火したぐらい、どかーんってなった。父は、世代的にも、生活保護を受給するのは恥ずかしいことだみたいな考えを当時には持っていて、制度を使うことにもちょっと抵抗があるみたいな人だったので、もう、あれは噴火でした。めちゃめちゃ反対されましたが、もうここで負けては駄目だと思って家を出ました。

油田:お母さんは、どうだったんですか。

朝霧:トイレができないのに一人暮らしって、憧れるのは分かるけど、簡単じゃないよ。介助制度を使ったり生活保護のお世話になったり、たくさんの人様をお騒がせしての生活をあえてするなら、(うまくいかなかったとしても)1カ月やそこらでは出戻ってこれないわよ、って。軽く考えたら駄目よというふうに言われました。でも、母はそうは言っても、おまえはやるって言ったらやる子だから止めてもやるんでしょうっていう感じでした。準備期間は半年くらいで、本当に動いたのは正味3カ月半ぐらいだったと思います。すごい短期間で動いたと思う。

油田:その間に、介助者も集めて、家も探して。

朝霧:そうです。最初は上野さんと見形さんが、ご自身に長く入っておられた介助さんを、私に紹介してくださって。なんとか少人数で埋めている間に、だんだん新しい方を募集するっていう感じでした。駅前でビラをよく配りました。

好きな服が着れて、好きな髪型ができる幸せ

油田:私、だっこさんの本『命いっぱいに、恋』や『車いすの歌姫』の中ですごい好きだったのが、(親の手から離れ、介助者を入れての一人暮らしを始めたことで)今日着たい下着、着たい服を自分で選べる、その幸せについて書かれている箇所です。とても大事なことですよね。それともう一つ、すごく共感したのが、髪の毛の話です。だっこさんも、親から、介助が大変だから髪切っちゃいなよとよく言われて、惨めだったと書かれてましたよね。また、「学校で会う車いすの女の子の実に9割がショートヘアだった。果たして、本人の意思であったろうか」と鋭い点を指摘されておられましたよね。私も実家にいたときは、髪を短くさせられてきたんです。特に祖母から。

朝霧:そうなの? こんなに世代が違うのに。

油田:祖母の好みもあったんですけど、やっぱり髪が長いと介助しにくいというのも大きな理由でした。絶対切りなさいとまではいかなかったけど、そういうメッセージをずっと浴びてきたんです。だから、私、だっこさんと同じように、一人暮らしして自由になってからは、その反動からか、もう短くしないぞ!と、意地を張って伸ばしていたときがあって(笑)。

朝霧:分かる〜

油田:でも、一人暮らしして4年目くらいの、人生で1番髪が長かった時に、「なんか、もう一度短くしてみてもいいかも」と思って、その時に、初めて自分で納得して選択して、自分の望みで、短くしたんです。それまでは半ば強制されてショートヘアを選んでいた(選ばされていた)けど、そのショートカットは、初めて、自分の意思で選んだと思えたものでした。それがなんだか嬉しくて。それまで嫌いだった自分のショートヘアを初めて、喜びとともに受け入れられたんです。

朝霧:分かります。

油田:一人暮らししてみて良かったことって、そういうささいなことの中にもたくさんあると思って。

朝霧:やっぱり母の手しか介助がないときは、本当に下着の色から服の形や色から、すべて母が決めていて。パンツなんか、もう雷様におへそを取られないようにって、おへそが隠れる大きいやつや、かわいいデザインじゃないやつ(を履かされたり)。風邪をひいちゃうから、スカートじゃなくてズボンにしなさいとか。私の時代は、安室奈美恵さんの全盛期で、超ミニスカートにロングブーツ、茶髪が流行った時代です。でも、私だけが、着替えやトイレ介助する人が楽なように、ウエストゴムのジャージの上下みたいな格好で、いつまでもいつまでもいるんです。ちょっとでもスカート履きたいとか言ったら、「風邪ひいちゃうでしょ!」って言われて却下。親は親だからね。女性としてちょっとセクシーな感じの服だって着てみたいとか、きれいにメイクをしてみたいとかは、たぶん親には子どもがいつか大人の女性になっていくという引き出しがない。いつまでも子どもは子ども。かわいいフリフリの下着を着てみたいとかは、さすがにお父さんにもお母さんにも言えない。でも、そういう親には内緒のところを持ちたいじゃないですか。好きな人がいて、同世代の友達だけでしゃべるとか、ファッションなどの女性としての喜びみたいなところも、何も味わえずに終わる人生はやっぱり絶対嫌だなと思って。
上野さんも見形さんも、やっぱりすてきなお姉さんなんですよ、それこそ、メイクとかヘアスタイルとか服とかも。ジャージじゃない!感動!みたいな。髪が長い!パーマとかしてる!みたいな(笑)。自分なりには田舎の片隅でおしゃれを頑張ってたつもりだったんですが、母の介助の中で頑張ってるのと、一人暮らしで介助さんたちと暮らしているお姉さんたちの感じって、もう、キラキラが違うんですよね。なんかそれで、本当にうわ〜!って思って、一人暮らし、やる!って思って、飛び出ましたよ。

油田:実際に自立生活以降は、そういうおしゃれへのアクセスみたいなのも格段に広がりました?

朝霧:そんなすごいブランドのアクセサリーやバッグを買うとかはできないけど、でも、私も優衣ちゃんと同じで、親に「もっとこうしなさい!」って言われない環境下で、自分の好きな服を着る、自分の好きな髪型をする、自分なりにはおしゃれな服装をしてみる、そういうことができるようになった。でね、私一人暮らしになった年ね、すごい金髪だったんですよ。格好もすごい露出狂みたいな感じで(笑)。もうね、とんでもない格好してたもん(笑)。今振り返れば、「おい、ちょっと考えろよ」みたいな(笑)。

油田:そんなに?(笑) でも、それまでずっともう我慢我慢我慢で、できなかったのが弾けての、それですもんね。

朝霧:そうそうそう、本当に弾けて。『ドラゴンボール』のサイヤ人みたいな金髪で、パンツが見えるようなミニスカートで、ブーツとか履いて、大宮駅前のコンコースとかでラジカセ1個持って介助さんと行って、歌を歌ったりしてました。

自由にトイレに行けること、外に出られることが夢のようだった

朝霧:あと、一人暮らしをし始めてから、行きたいときにトイレに行けるんだって思ったときに、もう、「やったー!」と思って。もちろんオシャレも楽しいし、それなりにいろんな恋をしたりもするんだけど、もう何よりは、外に出たときにお茶やお水を我慢しようって思わないでいいこと、顔色うかがいをしなくてもトイレに行けること。これが一番の夢のような幸せでした。
実家にいた頃に友達と会う時は、母が車で送迎してくれて、別の場所で待ってくれたり。地元の駅のエスカレーターに、段々を2段分つなげて、平らにして、車いすでも乗れるスペースができてからは、駅員さんに助けていただき、一人でも電車に乗ったり。でも、一人だと、母すらいない。だから、友達だけで会うには、お茶を頼んでもひと口ふた口で、トイレに行かないように我慢をしながら人と会う生活をずっと続けてたんです。外出中、ずっと、全時間、「途中でトイレに行きたくならないように……」っていうことが、心に必ずあるの。「途中でトイレに行きたくならないように、行きたくならないように……」と意識すると行きたくなっちゃったりね(笑)。
でも、一人暮らしをして、ずっと介助さんがいてくれるから、飲みたいときにお茶が飲めて、「行きたいときにトイレに行ける生活」ができるようになったときに、これが人間の生活かって思った。暮らしの初期、本当に毎日が全部キラキラして見えた。やったー!って感じ。

油田:自由にトイレに行ける。当たり前のことだけど、本当にわれわれにはどれだけ貴重かっていう。

朝霧:そうなんです。

油田:逆に言えば、それができない状況って、どうなん?ってことだけど……。本当に、いつでもトイレに行けて、また1時間ごとにトイレに行っても文句言われないとか、いつでも寝れるとか、そういうのが、本当に一人暮らししてよかったことだと感じます。

朝霧:そうそうそう! 1時間ごとにトイレに行っても……それよ!(笑) 私は実家にいた時は、自分なりには親にもすごく気を使う生活をしていました。でも母に聞いたら、「いやいや、あなた相当わがままだったわよ」って言うと思うんですけど(笑)。でも、自分の家の玄関の扉を自分で開ける力がないし、田舎だから1人で電動車いすで行ける場所にコンビニすらない。もうとにかく、家のドアが自分の腕の力で開かなければ、その人は外には出れない。自分の意思では外に出られない生活をずっとしていました。だから、介助さんがいて、好きなときにトイレに行ける、今からちょっとコンビニに買い物に行こうって言ったら、玄関から外に出られる。その幸せがもう夢のようで、世界の色が違って見えた。本当に。
実家が田舎だったからそう思ったのかなって、考えたりもするけど、いや、違う。介助さんがいることによって、自分の意思で玄関の戸が開く。外に一歩出ることができる。これが人間の自由なんだって思ったときに、「ああ、息ができたな」と思った。魂が呼吸した感じ。What a wonderful world!って感じよね。

自薦を利用するも、すべて自分責任・自己対応の大変さに挫ける

天畠:朝霧さんは、これまでいろんな形の事業所やヘルパー利用の形態をご経験されてきたいうことで、ちょっとお聞きしたいのですが。当事者は、利用している事業所の種類や経営方針、介助者の採用の仕方よっても影響を受けますよね。高齢者介護から出発する事業所だと、自立の概念はあんまり理解していなかったり、手足論を徹底するようなCILだと、しんどくなったりする部分もあるかもしれない。また、そのように事業所に影響される度合いを減らす手段として、自薦ヘルパーというやり方(※1)もある。朝霧さんは、事業所との関係や介助体制について思うところはありますか?

朝霧:私は、これまで7社の介護事業所を使ったことがあります。一般のすごく大きな介護派遣会社も、ほぼ完全自薦に近い形の会社も使ったことがあります。まず、一般の大きな会社さんのときは、高齢のかたの介護が基準になるようなところだったこともあって、介助の方法などが事業所としてマニュアル化されていました。来てくださるかたも、固定メンバー化せず、ほぼ毎日違います。抱え方とかも「高齢の方のやり方はこうです」って、わきの下に手を入れて前で組んで抱えていただくんですが、私の場合そうされると息が止まってしまうので、左側からお姫さま抱っこでしてくださいと、ごく短期間に変わる介助さんに、何度も丁寧に伝え続けなければならず、結構大変でした。また、そのときは、介助制度も自立支援法のときで、一番暮らしにくかった時。今のような重度訪問介護の形ではなかったから、「今は身体介助の時間なので、お風呂はできますが、食器を洗うことは頼まれてもできません」とか。ある時、すごくトイレに行きたくなってしまったのですが、「今は家事援助の時間で来たので、ご飯をつくることはできますが、トイレの介助は契約にないので、できません」って言われてしまったりとか。障害当事者の声で、重度訪問介護ができる前は、まだ制度的にも使いにくく、大変な時代だったので、望んでも望む介助をしていただけないこともありました。
自薦の形式の所は、自分でシフトを全部つくって、ほぼ自己責任の中でやっていました。労働基準法の中で、多く働く人は月160時間という勤務時間を守りながらシフトを立てていて、例えば、24時間通しで介助さんを入れてもいいとか、外泊を伴う外出のときには2日間同じ介助さんを入れてもいいとか、そういう面では自由度は非常に大きかったし、シフトが円滑に回っている時には、とても楽しかったです。歌や学校講演の他県への外出なども、この時期に増えはじめました。
でも、急に介助さんが休んだときに、事業所の介助さんがちょっと手薄だったことや、その事業所が他県にあったこともあって、事業所として緊急対応をしてもらうことが難しかったんです。それに、毎月のシフトを組む作業も結構大変で。たくさん介助さんがいたり、みんな年も若くてバリバリ独身っていう人が出揃っていれば、円滑に回るんですけども、枠を多く入って下さっている介助さんが、万が一の怪我や病気などでお休みになると、自薦は難しさもありました。でも、命が掛かっていますから、たびたび夢にまで見るほど、一日中ずっとシフトのことを考えてました。そのときは、もう歌どころではないみたいな感じ。一生シフトづくりだけの人生になるかなと悩んだりもしました。自薦の時は、シフトが回らなくても、自己責任になるでしょう。私、当時はどうしても誰も介助者を見つけられなくて、母に助けてって言った日があったと思う。自薦で円滑に回って生活が送れていけば理想だったけど、当時には難しかった。できるかは、障害の進行度合いにもよるかな。

自薦に近い形を取りつつも、緊急時の介助者を確保してくれる事業所を使い始め、生活が安定

油田:自薦って、一人ひとりの介助者と密接に関係を作れて、自分の介助に特化した専用のチームを作れる良さはあるけど、緊急事態の時に全部自分で対応しなければならないというのは、かなりしんどいですよね。

朝霧:しんどいです。介助さんの緊急時に、自分も緊急時というときもあるからね。介助さんはお子さんの発熱、こっちは肺炎のなりかかりとか。そこで携帯で、自分で誰か探すのは辛いよ(笑)。緊急時だけは、どなたか、例えば別の法人に所属してるスタッフの方を派遣しますみたいなフォローがあれば、たぶん、私、自薦を続けたと思うのですが、緊急時専任のような方を確保するのが難しくて。母を呼んでしまった日が出たときに、くじけてしまいました。今の事業所は私が1人目の利用者で、13年前に代表に立ってくださる方を見つけて始めたものです。私は、理事さんとかではなくて、一利用者です。時期により、いろいろあれども、近年、数年は、安定していたほうではないかなと思います。

油田:今の形式が、自薦のときと違うのは、その事業所内に、朝霧さんの生活を、何かあった時でも責任持って絶対見るよっていう中心の人物がいることがやっぱり大きいですか。

朝霧:うん。管理者の方や職員さんら、緊急時にはだれかは必ず介助に入れる体制でずっと回してきていました。ひとえにパートやアルバイトの介助達さんも含めた、介助さん全員のおかげです。介助さん同士の横のつながりも強く、「他の誰かに何かあったら、私が代わりに入ります」という気持ちを、介助さん同士が持ってくださっている。それが一番大きいです。

天畠:今お話されていたように、中心になるような人、つまり、自分の右腕になってくれるような人がいるかどうかが、自薦ヘルパーではかなり必須になってくるんです。そういう人がいないと、生活すべてが介助者の調整の生活になってしまって、何のために自立生活をしたのかが分からなくなる場合がある。やっぱり、その右腕を見つけるかどうかがすごく大事です。

朝霧:本当にそうですよね。そして、右腕たる人は一朝一夕には育たない。私は女性だから、介助さんも全員女性です。ご結婚されるとか、ご主人のお仕事のことで転勤があるとか、ご出産をされるとか、そういう変化の中で、長く勤めてくださる女性の介助さんが残る。そういう右腕左腕を、1人2人を見つけ出すまでは、ある程度やっぱり年数も掛けなければいけない。独身のときと、子どもが3人のお母さんになったとき。20代の自分と、40代の自分。どうやって自分が働けるかって変わってきて当然です。でも、介助を受ける側としたら、できればごく短期間にくるくる変わってしまうより、長く勤めてくださる方にもいてほしい。「女性が結婚しても出産しても長く勤められる介護事業所になりますように」っていう願いは、立ち上げ時から、社長さんにも、介助さん達にも、私にも3者に共通してあったと思います。

 

→連載3回目の記事はこちら

注釈

1. 自薦ヘルパーについては、全国障害者介護保障協議会の全国ホームヘルパー広域自薦登録協会のサイトや(http://www.kaigoseido.net/ko_iki/index.shtml)、わをんのサイト(https://wawon.org/institution/#institution_004/)をご参照ください。

 

 

プロフィール

ウェルドニッヒ・ホフマン症、シンガーソングライター・作家|朝霧裕(Asagiri Yuh)

1979年、埼玉県生まれ。愛称は「ダッコ」。筋肉の難病ウェルドニッヒ・ホフマン症(脊髄性筋萎縮症)のため、車いすの生活、24時間の介助サポートを得て、さいたま市で一人暮らしをしている。シンガーソングライターとして、コンサートやライブ活動、学校講演を行うかたわら、エッセイを執筆。「障害の有無、世代を問わず、誰もが輝ける社会」を夢として、書き、語り、歌う。
著書に『いつかの未来は夏の中』(七賢出版, 1995年, 本名・小沢由美の名で出版)、『命いっぱいに、恋 ―車いすのラブソング―』(水曜社, 2004)、『車いすの歌姫 ―一度の命を抱きしめて―』(NKKベストセラーズ, 2010)、『バリアフリーのその先へ! ―車いすの3.11―』(岩波書店, 2014)など。

文/油田優衣

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