あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

ALS当事者、地方で自薦ヘルパーと生きる

Anpo Rume

文/嶋田拓郎 : 写真/窪田健斗

ALS当事者、地方で自薦ヘルパーと生きる|1回目

ALS(筋萎縮性側索硬化症)・CILくらすべAkita代表 安保瑠女(あんぽるめ)

1978年、秋田県藤里町に生まれる。県内の高校を卒業後、建設省(現在の国土交通省)に入職し、道路の設計業務に従事する。26歳の時に、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。その後自薦登録ヘルパーの利用を開始。34歳のときに秋田市内に引越し、本格的な自立生活を送る。現在はCILくらすべAkitaの代表として、県内の自立生活を希望する当事者の支援に日々奔走している。日本ALS協会秋田県支部副支部長でもある。

【イントロダクション】

24時間ケアを必要とする重度障がい者の在宅介護の現場では、過度な家族の負担と、深刻な介助者不足が指摘されています。特に地方では介助者を派遣する事業所が不足している影響もあり、親元での介護か施設での暮らしのどちらかを選ばざるを得ない当事者がたくさんいます。

今回インタビューした安保瑠女さんは、秋田県秋田市在住のALS当事者です。建設関連の専門職の仕事に就かれていましたが、ALSを発症。段々と身体が動かなくなるなかで、両親と同居するように。当初は両親の負担になりたくないという思いから呼吸器を付けないという判断をしました。しかし、先輩ALS患者の生きる姿と、自薦登録ヘルパーによる自立生活体制を構築していくなかで、呼吸器を装着して生きることを決意。現在は、CILくらすべAkitaの代表を務め、精力的に活動されています。

より地方で介助者不足が深刻のなかどのように介助体制を構築していったのか、同じく鹿児島のCILてくてくの代表川崎良太さんも同席していただき、詳しくお話を伺いました。

(文/嶋田拓郎

目次

ALS当事者、地方で自薦ヘルパーと生きる|1回目

26歳で発症するまでは、仕事人間だった

――今日は、鹿児島でCILてくてくの代表として活動されている川﨑良太さんも同席していただいています。お二人は面識があるとのことです。よろしくお願いします。 

川﨑:安保さんご無沙汰しています。本日同席させていただきます、川﨑良太です。今日はいろいろと勉強したいと思い同席させていただきます。

 安保:ご無沙汰しています。こちらこそよろしくお願いします。

 ――安保さんは、お生まれはどちらですか? 

安保:私は、秋田県北部の藤里町という小さな町で生まれ育ちました。親子関係はサバサバした感じ。自分のことは自分でやろうという家族でした。高校まで実家で暮らして、高校卒業とともに家を出て、昔の建設省、現在の国土交通省で働き始めました。そもそも私はとにかく勉強が嫌いで、早く就職したかったんです。そして高校が実業高校の土木専攻で、公務員への就職を推していたので、それならばと公務員になりました。 

――職場にはどのくらい勤められて、仕事内容はどういうものだったんですか? 

安保:休職の期間も含めたら、16年です。道路や橋の構造設計などをしていました。仕事どっぷりでしたね。 

――仕事に熱中していたなかで、ALSを発症されたということですが、発症前後のことをお伺いしてもよろしいでしょうか?

 安保:はい。ALSの症状が出たのは、2004年の秋ごろ、26歳のときでした。右腕に力が入りづらくなって、水仕事しているととにかく右腕だけかじかむんです。腕を温めると元に戻るので、そのときは特に深く考えていませんでした。ただ冬になると、小銭がつかめなくなったり、車のキーも上手く挿せなくなったりして、おかしいなと思い始めたんです。それで病院に受診して症状を話したら、神経内科を紹介されて。そこから通院しながら検査して、そのあとセカンドオピニオンで大学病院に行って、やっと診断がつきました。だいたい4か月くらいでしたね。

 ――診断された日のことは覚えていますか?

安保:身体の不調もあるなかでなかなか診断がつかなかったので、ずっと不安だったんですよね。それでネットで検索したら、ALSという言葉が出てきてたんです。先生にALSですかと聞いて実際そうだったので、驚きもありましたけれど、「やっぱりか」という気持ちでした。

ALS当事者、地方で自薦ヘルパーと生きる|1回目

家族の負担になりたくないという思いから、一度は呼吸器を付けない選択をした

――ご家族の反応はいかがでしたか? 

安保:両親は私のことを心配して、「私たちも先生の口から直接話を聞きたい」ということだったので、診断の際、一緒に来てもらいました。母は昔、ALSを扱かったドキュメンタリー番組を見ていて、それではないかと思っていたそうで。落ち着いていましたね。

 ――娘がALSだと知っても冷静に対応されたんですね。

 安保:親はどちらかというと、さばさばしているタイプなので……。

 ――発症してからも、しばらくは仕事を続けていたんですか? 

安保:診断を受けてから2年くらいは続けることが出来ました。その後、休職期間に入ったのですが、その間にALSの薬の治験に参加しました。当時私は秋田市に住んでいたんですけど、宮城県にある独立行政法人国立病院機構宮城病院に入院して、治験に参加しました。そこには多くのALS患者さんがいるので、自分の未来を見てみたいという気持ちからでした。 

――治験に参加されて、他のALS患者さんにお会いしたということですが、自分と同じくらいの進行度合いの人もいれば、さらに進んでいる方もおられたと思います。気持ちの変化はありましたか?

 安保:正直に言えば、呼吸器はつけたくないと思いました。

 ――それは、どうしてですか? 

安保:治験が終わった時点で胃ろうをしており、痰吸引も必要で、既に一人暮らしできる状態じゃなくて。さらに呼吸器を着けて実家に帰ったら、家族への介護の負担が大きすぎると思ったからです。家族にも呼吸器つけたくないことは伝えていて、それに対して家族は、「瑠女の好きにすればいい」と言ってくれました。

 ――ALSは病状が進行すれば呼吸機能が止まってしまいます。好きにすれば良いというのは、生きることを諦める選択肢も受け止める、という重い言葉でもありますが、ご両親のその言葉を瑠女さんはどのように思いましたか?

 安保:「できることはなんでも協力する」とも言ってくれていたので、裏を返せば生きてほしいんだろうなーとは感じましたね。

ALS当事者、地方で自薦ヘルパーと生きる|1回目

社協を頼りに退院。しかし短時間介護で親の負担が増大

――現在の体制に行きつくまでの経緯についてお伺いしてもよろしいでしょうか。 

安保:治験が1年数ヶ月かかったんですけれど、症状が良くなることはありませんでした。退院後、どこでどう暮らすか悩んでいたときに、主治医の先生が「このままここにいていいよ」と言ってくれて。それで半年くらい入院したんです。その入院で、このまま病院に入所して、呼吸器をつけないでおこうと、いったんは決めました。

 ただ入院生活がとにかく暇で……。このままここで暮らすのも嫌だと思うようになったので、「家に帰りたいんだよね」と母にこぼしたんです。そしたら母が、「地域の社会福祉協議会(以下、社協)が介助に入ってくれると言っているから、帰ってきてもいいよ」と言ってくれたんです。

社会福祉協議会がヘルパーを派遣してくれるのであれば、家族に介護の負担をかけずに暮らせるのではないかと思って、実家に帰ることにしました。当時はまだ30代だったので、介護保険は使えず、居宅介護から始めました。月の時間数はたしか、40時間くらいだったと思います。

 ――地方であればあるほど、介護サービスを頼める事業所は少ないですよね。社協が唯一の選択肢だったのでしょうか。 

安保:社協しかなかったですね。他には選択肢がなかったです。 

――月に40時間の利用だと、ご家族の介護の休息をとるための時間になりますね。

 安保:そうですね。当時はまだ食事も一人で食べられていたので、入浴介助がメインでした。

 ――外出などはされていましたか? 

安保:私の住む場所は典型的な田舎だったので、人前に出ると噂とかひどくて……。首の力がなく頸椎カラーをつけて車いすに乗っているから、瞬く間に「あそこの娘さんは交通事故にあって家に戻ってきている」というデマが町中に流れたのは、今でも覚えています。(噂話をされるのが嫌だったので)外出はほとんどせず、家に引きこもっていましたね。自分で何かすることもなかったです。

 ――デマですか……。生活しづらいですね。その後、どういう経緯で気管切開し呼吸器をつける決断をされたのですか。

 安保:進行はALSの中では遅い方で、実家に戻ったのが2009年なんですけど、その頃は外出は車椅子で、家の中は伝い歩きしていました。食事も工夫して自分で何とか食べていました。だた、徐々にろれつが回らなくなり、メインで介助していた母親しか聞き取れない状況になっていったんです。その後は結論から言うと、2010年には言うと胃ろうを増設して、2017年に気管切開しました。

ALS当事者、地方で自薦ヘルパーと生きる|1回目

自薦ヘルパーを利用する先輩当事者の姿を見て、
「呼吸器をつけても自分らしく生きていける」と思えた

――呼吸器をつけるという選択肢を考えるようになったきっかけを教えていただければと思います。

 安保:実家で生活をする上では、まず家族の負担を減らそうと考えていました。ただ医療的ケアの問題や人手不足で、社協では介助すべてには対応できず、だんだん母の介護量が増えてしまいました。私が思い描いていた生活とはだいぶかけ離れていたのです。とにかく母の介護量を減らしたい一心で、自薦登録ヘルパーをはじめました。

――自薦ヘルパーの存在は知ったきっかけは?

 安保:秋田では、ALS患者を中心に自薦ヘルパーを利用している方が数人いました。日本ALS協会の当時の秋田支部長も利用していたんです。日本ALS協会に相談したときに、自薦ヘルパーの存在を知って、事業所が近くにない私の場合、自薦ヘルパーしかないと思ったんです。

 川﨑:私からも質問させてください。安保さんのお話を伺うなかで、ちゃんと地域のALS患者と繋がっていることの大事さを痛感しました。24時間ヘルパーに介助してもらう生活があるんだっていうことを知らない人が、あまりにも多いからです。介助を受けながら地域で暮らすことは、事例を知らないと想像できないですよね。家族に負担をかけて生活するか施設かっていう二択しかないのであれば、呼吸器をつけてまで生きたくないとなります。

 安保:そう思います。先輩が自薦ヘルパーを利用する姿を見て、これならば呼吸器を付けても自分らしく生きていけるのではないかと思うようになりました。

ALS当事者、地方で自薦ヘルパーと生きる|1回目

プロフィール

ALS(筋萎縮性側索硬化症)・CILくらすべAkita代表 安保瑠女(あんぽるめ)

1978年、秋田県藤里町に生まれる。県内の高校を卒業後、建設省(現在の国土交通省)に入職し、道路の設計業務に従事する。26歳の時に、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。その後自薦登録ヘルパーの利用を開始。34歳のときに秋田市内に引越し、本格的な自立生活を送る。現在はCILくらすべAkitaの代表として、県内の自立生活を希望する当事者の支援に日々奔走している。日本ALS協会秋田県支部副支部長でもある。

文/嶋田拓郎

この記事をシェアする