連載1回目
障害者からもLGBTQ※1からも孤立して
2022年09月16日公開
Satoru Ueki
文/篠田恵・油田優衣 : 写真/其田有輝也
脳性麻痺|植木智(うえきさとる)
1985年生まれ。高校生のころから自立生活センター(CIL)と接点を持ち、大学入学と同時に自立生活をスタート。卒業後はCILで働いた。FTMトランスジェンダー※2、パンセクシュアル※3。現在は重度訪問介護を利用して一人暮らしをしながら、講演活動のほか、YouTubeチャンネル「セクマイ障害者 ウエキチCh.」※4で障害のあるセクシュアルマイノリティに関する情報を発信している。
植木さんへのご連絡はこちら≫連絡先:sekumai.uekichich@gmail.com
【イントロダクション】
FTMトランスジェンダー、パンセクシュアルで脳性麻痺、精神障害をもつ植木智さんは、「セクマイ障害者」として活動しています。子どものころから自分の性別に違和感を抱えていた植木さんは、障害者運動の中にある性的マイノリティ差別、性的マイノリティのコミュニティの中の障害者差別の両方に直面し、自分の生きる姿が思い描けなかったと言います。
「セクマイ障害者はココにいる」――植木さんが運営するYouTubeチャンネルのサブタイトルです。今回のインタビューは、編集部がこのチャンネルの動画を見たのをきっかけに、植木さんの声をもっと多くの当事者に届けたいとの思いで、実現しました。
「同性介助の原則」のエッセンスと課題は?どんなジェンダー、セクシュアリティの人も生きやすい自立生活のあり方は?植木さんと同じく関西で障害者運動にかかわる油田優衣さんとインタビューし、見えてきたテーマです。
(文/篠田恵・油田優衣)学校でも、家でも「自分がない」
――自己紹介をお願いします。
植木:YouTuberウエキチこと植木智です。障害は脳性麻痺で、普段は車椅子で生活してます。セクシュアリティはトランスジェンダーで、パンセクシュアルです。バイセクシュアル※5はよく聞くと思うんですけど、バイ(bi)は英語で「2つの」という意味で、「男性も女性も」ということなので、あまり好きじゃなくて。パンセクシュアルは、好きになる相手のセクシュアリティ※6は関係ありません。
精神障害もあって、アルコール依存症とパニック障害とうつ病です。寛解じゃないけど、ある程度おさまってはいるし、アルコール依存については今のところ再発していない。そんなところです。
油田:幼少期のことを伺っても良いですか?
植木:生まれたところは山間部の一軒家でした。生後7カ月で脳性麻痺とわかって、そこから訓練ばっかりの生活。療育センターに週3回くらい通っていて、家にいるときも訓練していましたね。
セクシュアリティに関して言うと、最初に違和感を持ったのはたぶん3歳のころで、自分の名前に違和感がありました。「名前を変えられないのか」って親に聞いたら「変えられないけど、なんで?」って聞き返されて、「こういうことは、言っちゃいけないんだ」と分かりつつも、なんとなく違和感がありました。
油田:小学校は普通学校ですか? 養護学校(今の特別支援学校)ですか?
植木:両方です。親が障害者運動とかを調べたり、親同士でグループをつくって地元の学校に行けるように運動したりしていて。地域で同和教育などの人権運動が活発だったのもあって、普通校に入ることになったんですけど、1年間はバリアフリーの工事期間が必要だったのでまずは養護学校に行きました。そのあと2年生で転校して、普通校に通いました。親は、自立とかを念頭において、育てていたみたいでしたね。
油田:学校での介助はどれくらい必要で、どうやってカバーしていましたか。
植木:臨時職員を(学校側が)雇用して、介助が必要な子どもにつけるっていう形でした。専属の先生みたいな人(=介助者)がいるという感じで、それが今考えると、友達と遊ぶより専属の介助者としゃべることが多かった要因の一つだと思います。
小学校の頃はよかったんですけど、中学の時は虐待まがいのことがありました。自分で車椅子を漕いでたら、いきなり(後ろから)ガンと押されて、腰が痛いからやめてくださいって言っても無視されたり、介助(されるとき)も物みたいに扱われたり、ずっと小言を言われ続けたり。
今から思うと、毎日違う人が来る方が、いいことも悪いことも自由にできたんじゃないかなって。変な依存関係だったり虐待を受けたりっていう状況も、(介助者が)複数いたら解決できたのかなと思います。
油田:複数の介助員をっていうのは大事ですよね。学校に1人の介助者を雇うという場合も多いと思うけど、今植木さんがおっしゃったように、そのリスクは結構大きいですよね。
植木:本当は子どもも重度訪問介護※7を使って学校に行ったらいいんじゃないかなって。
油田:そうですよね。小学校時代で印象に残っていることはありますか?
植木:2年から地元の普通校に入って、珍しいから最初はみんな、わーって寄ってくるんだけど、慣れてきたら、なんかうまくいかなくなってきて。なんとなく(自分が女子と扱われることに)違和感があったけど、一生懸命「ふつう」になろうとしてて。
3、4年生って男子グループ、女子グループって分かれてくる時期だと思うんですが、女子グループに入ったら、アイドルの話とか、興味ないんだけど、覚えなきゃいけない。興味ないから覚えられなくて、覚えないことでからかわれたり。がんばって仲良くならないとと思っても、会話がなかなか……。まぁ言語障害もあったし、自分の興味も周りと違ってたから、なかなか友達が作れないというか、そんな感じでした。まわりになじめないのは障害でなのか、セクシュアリティでなのか、どっちだったんだろうって、ふと思いました。
油田:中学も地元の普通校ですよね。
植木:中学のころもそういう感じでなじめなくて。介助の先生がいたから、目立ったいじめはできないんだけど、みんなから無視されてる状態で。先ほど話したように介助員も介助者として向いてない人で、そのころから生きるのがつらいって思い始めました。学校では無視される。先生(介助員)にはいじめられる。帰ったら親とずっと勉強。そんな感じで、もうなんか、自分がないみたいな。
油田:自分がない……。
植木:だれかに操られてるような感覚で。それで中2の9月に学校に行かなくなって、母親と1週間くらい大喧嘩しました。夜中に暴れたり、自殺未遂の真似をしたり、寝室に閉じこもったり。自分としては生きているのがつらい。親としては、それまで期待通りに育ってたのに、いきなり学校に行かなくなった。だから口論になる。自分は「頑張って生きてる」「生きることを頑張ってる」って言ったんだけど、「あんた全然頑張ってない」って言われて。
でもずっと引きこもってたかと言うとそうでもなくて、被差別部落の児童館の職員さんと仲良かったので、たまに児童館に行って、話し相手になってもらったりもしてて。
そういうのを見て父親は、一回親子が離れた方がいい、と(療養施設併設の)養護学校への転校を提案してくれました。父親は、母親との共依存を冷静に見ていたんだと思います。翌年の中3から養護学校に行きました。
「自分、これかもしれん」きっかけになったドラマ・金八先生。でも現実は……
油田:高校時代のことも聞いて良いですか?
植木:高等部は3人のクラスだったんですけど、1人好きな子ができて、それが女子でした。最初は仲の良い友達だと思ってたんだけど、ドキドキして、「これ恋ちゃうかな」って思って。でもレズビアンかと言われると、レズビアンは同性として好きってことなので、じゃあ自分は同性(=彼女と同じ「女性」)として恋愛感情をもっているのかって疑問が湧いてきて。どっちかというと異性として好きみたいな、なんかよくわかんないけど、そういうモヤモヤがありました。
その頃「金八先生」(2001年)っていうドラマがあったんです。同部屋の先輩がテレビを見ていて、上戸彩演じる鶴本直っていう(トランスジェンダー男性の)生徒の、「俺は男だ!」ってセリフが聞こえてきたとき、「え!なんそれ!?自分これかもしれん」って。次週も絶対観ようと思ったけど、バレたら怖かったので、勉強机で勉強するふりをして、耳ダンボにして聞いて(笑)。
油田:施設の集団生活、学校生活だけじゃなくてプライベートの時間も集団生活という中で、バレる恐怖があることや、一人の時間を持てないことって、障害があるゆえのしんどさが重なっているところなのかなと思いました。
植木:そうですね。当時うつ病の診断がおりていて、担当医が精神科医だったんだけど、「なんか悩みない?」って言われても、性のことは言えませんでした。風呂も「女子は何時から何時」と時間を決められてて、女子の裸を見ないといけなくて、それも申し訳ない感じと、もしバレたらどうしようみたいな。そういう中で、とてもじゃないけど相談できないって思ってました。
だから、施設の中でも結構男子とつるんでいることが多くて。施設でもグループってできるわけで、男子グループにいたり、女子と喋ったり。周りからするとみんなと仲良いんだなって思われていたかもしれないけど、だれにも心を開けない感じがしていて。それが結構しんどかったです。
ただ、高校3年のときはけっこう楽でしたね。施設で同部屋になった人が、セクマイ(セクシュアルマイノリティの略)ではないんだけど、あんまり既存のジェンダーにとらわれない人で。自分オタクなんですけど、その人もオタクで気が合って。けっこう素でいたし、夜中までオタクな話を毎日して楽しかった(笑)。その人とは退所してからも唯一交流があって、カミングアウト※8もして、「実は同級生のことが好きだった」って打ち明けたら、当時から知ってたと言われました(笑)。その人とはいまだに友達です。
「大人になれば普通になれる」せっかく出会ったCILの先輩に否定されて
油田:植木さんは高校の時に自立生活センターと繋がったんですよね。
植木:療育センターに自立生活センターが主催するピアカウンセリング(以下、ピアカン)のチラシがあって、自立生活センターを知りました。
油田:そのチラシはどうやって手に入れたんですか?
植木:掲示板に貼ってありました、不思議なことに(笑)。
油田:へー!
植木:あんな医療バリバリのところに貼ってあるのは、今から考えるとカオスですけど(笑)。高1の秋か冬にピアカンの集中講座を受けて、高2で学校の職場実習を自立生活センターでやりました。
それまで将来のイメージって全然なくて、言語障害もあるし、パソコン早く打てないし、就職は無理だと思ってました。でも、障害を持ってる人が介助者を使って働いてるのを見て、こういう働き方あるんだな、いいなって思いました。あと個人ILP(自立生活プログラム)※9で、自立生活センターが借りてる一軒家で2、3泊介助を使って生活するのを初めてやったり。そういう中で、自立生活センターで働きたいなと思いました。
油田:職場実習って学校のプログラムですよね。養護学校と自立生活センターがつながって、そういう生活の形があると知れるのって、良いことだなと思いました。
植木さんのYouTube動画を見てすごく印象的だったのが、高校生でピアカンに行ったときに、自分のセクシュアリティのことは理解してもらえなかったという話です。そのこともお聞きしていいですか?
植木:ピアカンが終わった後に、職員の人に「自分は女の子が好きで、自分の性別にも違和感があって、悩んでいる」と相談しました。聞いてくれるかなって期待してたんですけど、「そんなのおかしいから。大人になれば普通になれるから大丈夫よ」って言われて……。自分を否定されたような気持ちになって。そのピアカンの集まりは、車通りの多い駅前であったので、帰るときに飛び込もうかと思いました。
油田:障害のことは受け入れてくれるけど、セクシュアリティのことは理解がないっていう……。さっきまで「普通」じゃなくていいって言ってたのにって感じですよね。
植木:そうそうそう(笑)。でも当時はLGBTQが認知されてなくて、同性愛は一過性のものっていう言説がまだ根強かった時期だから、その人は善意で言ったんだろうなっていうのはあるけど……あるけど……って感じですよね。
油田:その後も自立生活センターとの関わりは続きましたか?
植木:そうですね、結局自立はしたかったので、高校3年の卒業までに何回か個人ILPで、自立生活ルームから学校に行ったりはしていました。
「無敵のハンディキャップ」を目指す――障害者プロレスでできた居場所
油田:大学進学のことも聞きたいです。大学に行こうと思ったきっかけはなんだったんですか?
植木:もともと自立生活センターで働きたかったんだけど、進学もしたいなと思っていた頃、障害者プロレスと出会って。障害者プロレス団体の代表の本『無敵のハンディキャップ』を読んで、「絶対ここで一番になってやる!」って思いました。障害者同士ガチで戦って、絶対自分がチャンピオンになるって(笑)。小さい頃、戦隊ヒーローの中の人(スーツアクター)になりたかったっていうのと似てると言えば似てます、戦いを魅せるっていう意味では(笑)。
油田:そこで繋がってたんですね(笑)。
植木:プロレスを本気でやりたくなって、それで、じゃあ上京するしかない、そのために大学行こうみたいな。親からすれば、娘がプロレスやりたいって言い出して、東京行くっていうのは想定外だったと思うんですけど、大学行くんだったら、としぶしぶOKをもらいました。
で、自立生活センターに就職するんだったら、福祉を学んでおいて損はないかなあと。あと今の福祉に納得できなかったから、その福祉はどういう仕組みで、どういう教育が行われているのか知りたかった(笑)。
油田:受験のための勉強面は全部自分でカバーしてた感じですか?
植木:そうでしたね。施設って勉強のサポートを、親がやってくれたみたいにはしてくれないから、めちゃくちゃ一人で頑張らないといけませんでした。高校3年の春にプロレスの入団テストに合格したから、そこから火がついて、自分なりの勉強法を見つけました。
大学は、『大学案内障害者版』を参考にしながら、バリアフリーな大学を選びました。
油田:大学生活のスタートはどうでしたか?
植木:とりあえずは自立生活が始まって、自由に買い物ができるようになったので、服を全部メンズに変えました。それまでは両親と服を買いに行ってたんで、着たい服を見られなかったんですけど、メンズの服のコーナーに行ったらいっぱい着たい服があって、それがすごい嬉しくて。
大学生活については、バリアフリーとかは事前に調べてたし、入学にあたってどういう配慮がいるかっていうのも大学側と話し合っていました。なので特に障害で困ったことはなかったです。
――障害者プロレスでは、どんな活動をしていましたか?
植木:スパーリングっていう実践練習は月1回。そこで先輩から、こういう動きがいいよとか教えてもらいました。障害別にクラスが決まってて、一個上の軽い障害の先輩に胸貸してもらってトレーニングをしたり、家ではダンベルで鍛えたり、膝立ちスクワットや腹筋をしたり。空手の本で自主練したり。あと、プロレスなので演出や演技も考えたりしてました。
――お客さんはどんな方が多いんですか?
植木:障害者プロレスを本で知っておっかなびっくり見に来た人とか、あとプロレスマニアで障害者プロレスも見てみようっていう人とかですね。あと自立生活センターで働いているレスラーも多かったので、自立生活センター系の人も観に来ていました。そう、(自立生活運動で著名な)えびちゃん(故海老原宏美さん)も観に来てて。えびちゃんと初めて会った時は、レスラーと観客っていう関係で(笑)。
――そんなこともあるんですね……!大学生の植木さんにとって、障害者プロレスはどんな存在でしたか?
植木:生きる支えでしたね。やってみたら、自分にすごく合ってたし。試合を重ねる中で、「魅せる」ってどういうことだろうとか、自分のキャラクターづくりをちゃんとやらないといけないなと考えるようになりました。女子レスラーでやっていくのは嫌だったので、妖怪レスラーっていうキャラクター設定をして。レスラーの中にはいろんなキャラクターがいたけど、妖怪はいなかったので(笑)。
そうやってだんだんヒール(悪役=heel)と認識されて。悪役は「ブー!(Boo!)」って言われてなんぼ、でもヒール好きなファンには応援される、というのが理想だったんですけど、それがだんだんできるようになって、すごい楽しかったですね。当時のチャンピオンも倒しました。
あともう一個言うと、所属団体のレスラーや関係者には(性別への違和感を)カミングアウトしていて、仲間内ではあまり女性としては扱われませんでした。同じ階級のレスラーの方と仲良くなって、練習後に泊まらせてもらったり。そのレスラーの奥さんが介助派遣事業所をやっていて、重度訪問介護の新人研修の講師とか、食事介助の練習台になるとかのバイトをさせてもらったり。そこが居場所でしたね。その人は女装レスラーで、なんか親しみやすかった感じもありました。
油田:障害者プロレスからつながったコミュニティは、植木さんにとって大事なところだったんですね。一方で、大学生活はしんどいことが多かったとYouTube動画では言っておられました。
植木:基本一人でしたね。1年生の基礎ゼミと3年生以降のゼミとかあったけど、そんなに深くかかわることはなくて。全部メンズの服で、髪も今より短くしてたんで、男に見えていたので、基礎ゼミの先生に「あんた男だと思われてるわよ。『女です』って看板つけときなさい」って言われたこともありました。
今ほど大学でトランスジェンダーが受け入れられる感じでもなかったので、というか自分自身が(トランスジェンダーだと)まだはっきり認めてはなかったので、何も言えなくって。割り切って、大学は講義を受けて社会福祉士の資格取得をすることが目的で、講義の合間は図書館によく行って、障害者運動系の論文とか読んでました。
トランスジェンダー当事者の書き込み「俺たちは障害者なんかじゃない」
植木:高校時代は集団生活で、施設には共用のパソコンしかなく、インターネットがあまり使えなかったので、大学になってからインターネットでいろいろ調べるようになりました。性同一性障害※10の診断とかLGBTQのコミュニティとか調べたんですけど、結局アクセス問題がすごく大変で。
――というと?
たとえばどこかにLGBTQの支援をしてる場所があったとして、そこがバリアフリーかどうか分からないし、性同一性障害の診断のための専門病院にも行ったんですけど、当時は駅自体がバリアフリーじゃなかったり、病院もエレベーターが狭かったり、なんとか入れたんだけど行くだけで疲れてしまって。
そういう場所って、介助者がいたらなんとかなる場合もあるんですけど、介助者に言えないから、一人で頑張るしかなくて。自分のセクシュアリティを確立するために、また、カミングアウトするために、コミュニティとか病院に行くんだけど、カミングアウトしてないからそこに行くのが困難で、でもカミングアウトできない、負のスパイラルって感じ。
そういうこともあったし、ネットを見たら、性同一性障害っていう言葉が当時は一般的だったけど※11、(ネットでは)「俺らは障害者なんかじゃない」「障害者と一緒にするな」ってコメントもあって、怖くなって。講演とかも行きたかったけどやっぱり介助が必要だし。ハード面、ソフト面両方のバリアがありました。
油田:自分のセクシュアリティがなんなのかっていうのは、ピアがいることでみえてきたり、しっくりくるものがわかったりする面がある。でも、障害があると、そこにアクセスするのに幾重にもハードルがあるということですね。
植木:障害を受容するとか、自分の身体を全部受け入れるとか、脳性麻痺のこの身体でいいんだというのはすごい納得できて、それで自立生活運動も好きになった。でも、女性である身体は認められないのが、自分の中でしんどかったです。矛盾していると感じてたけど、受け入れられない。「受け入れるってなんだろう」ってすごい思っていました。しかもその悩みを誰にも言えずに、さらにしんどくなって。
障害のある、しかも介助を必要とするようなセクシュアルマイノリティがいないかってめちゃくちゃ探したんですけど、ほとんどいなくて。やっと、ゲイで脳性麻痺の人でかつて運動してた人を見つけたのですが、その人は自殺していた。やっぱり、生きれないかなって思って……。このころから、お酒に逃げてましたね。
→第2回は、カミングアウトと介助体制の作り直しについて伺います。
注釈
※1 レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)、クエスチョニング(自身の性のあり方について特定の枠に属さない人、分からない人、決めていない等の人、Questioning)もしくはクイア(規範的とされる性のあり方以外を包括的に表す言葉、Queer)の頭文字から取った言葉で、「典型」とされる性のあり方にあてはまらない人たちのことを表す言葉として用いられる(「LGBTQ 報道ガイドライン—多様な性のあり方の視点から—」第2版)。
※2 トランスジェンダーとは、生まれた時に割り当てられた性別と性自認が異なる人を指す言葉。FTMトランスジェンダーは、出生時に割り当てられた性別が女性だったトランスジェンダー男性のことを指す言葉(同上)。
※3 性的指向が性別にとらわれない人。全性愛者(同上)。
※4 https://www.youtube.com/channel/UCTWAzAs3avHz6pITjf-CI4Q
※5 性的指向が男女どちらにも向く人。両性愛者(同上)。
※6 性のあり方、または性の欲望に関するあり方(同上)。
※7 重度訪問介護は、原則 18 歳以上で重度の肢体不自由または知的、精神障害のある人が対象。ただ 15 歳以上の障害児も、児童相談所長が認めた場合は利用できる。
※8 自分の性のあり方を自覚し、誰かに伝えること。自らの性のあり方を明らかにすることによって、より一層の差別や偏見を受けてしまうことが懸念されるため、性的マイノリティの当事者にとって、カミングアウトは依然として極めて困難な状況を伴う。厚生労働省が委託実施した調査においても、職場で誰か一人にでも自身が性的マイノリティであることを伝えているという人は、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルのたった7.3%、トランスジェンダーの場合は 15.8% と、2 割にも及ばない結果だった(同上)。
※9 施設や実家を出て一人暮らしをしようとする障害者が、先輩障害者を手本としながら、福祉制度を学んだり、金銭管理、家事、介助者への指示の出し方を身に着けたりしていくためのプログラム。全国の自立生活センターで実施されている。
※10 性別違和のなかでも、特に精神神経医学的な診断基準を満たす場合に付けられる診断名。GID と略される。性別違和そのものは精神疾患でないとされている(同上)。
※11 2019 年に WHO で採択された国際疾病分類「ICD-11」では、「性同一性障害」という「精神疾患」に分類されていた概念がなくなり、「性の健康に関する状態」という項目に「性別不合 (Gender Incongruence)」(「性別不合」は2022 年 4 月現在、仮訳)が新設された。日本でもこの新たな概念が採用される見込み(同上)。
プロフィール
脳性麻痺|植木智(うえきさとる)
1985年生まれ。高校生のころから自立生活センター(CIL)と接点を持ち、大学入学と同時に自立生活をスタート。卒業後はCILで働いた。FTMトランスジェンダー※2、パンセクシュアル※3。現在は重度訪問介護を利用して一人暮らしをしながら、講演活動のほか、YouTubeチャンネル「セクマイ障害者 ウエキチCh.」※4で障害のあるセクシュアルマイノリティに関する情報を発信している。
植木さんへのご連絡はこちら≫連絡先:sekumai.uekichich@gmail.com
文/篠田恵・油田優衣
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