あなたの語りには、価値がある。/ 当事者の語りプロジェクト

連載1回目

~中途障がいを負うも、ノリと勢いで大学生に~

MISAKI IWAOKA

文/嶋田拓郎・北地智子 : 写真/Masumi Ando

~中途障がいを負うも、ノリと勢いで大学生に~ | 岩岡美咲 / 油田 優衣 1回目

頚髄損傷・北九州市在住|岩岡美咲(いわおかみさき)

1988年生まれ。高校2年生で体操競技中に受障し第4頸椎脱臼骨折。頭部以下完全四肢麻痺、呼吸筋麻痺により気管切開+人工呼吸器。総合せき損センターにて反射シールを貼った口元を動かし、シールの動きを読み取る機器を使用することでパソコン操作が可能となる。退院後、往診・訪問看護・介助者派遣・訪問リハ・訪問マッサージ・訪問入浴を利用し在宅生活。総合せき損センターの先生から後押しを受けて入院し気切を閉じ、人工呼吸器を口でくわえるNPPVへ変更する。発声可能となり吸引も必要なくなる。呼吸器をくわえながら会話や食事、パソコン操作ができるようになり介助者との外出機会も増えてきている。

【イントロダクション】

「つながりの連鎖」が、生きる意味をつくる 岩岡美咲と油田優衣に聴く、ロールモデルになるということ

 岩岡美咲さんは、福岡県北九州市在住で、北九州市立大学の現役大学生。高校2年生の時、体操の大会中の事故により頚椎損傷の大怪我を負い、重度障がい者となりました。現在は、国が行っている通学のモデル事業に参加し、全額公費で雇う介助者とともに大学に通っています。以前は何をしたらよいのかわからず、自宅でパソコンをずっと眺めていた時期もあったと言います。そこからどのような変化があり、現在大学生活を過ごしておられるのでしょうか。
 今回は、同郷の油田優衣さん(第一回目でインタビューを行ったSMA当事者)がインタビューアーとなり、岩岡さんの歩んできた歴史と、大学進学の壁をともに乗り越えた経験や、いまどのようなことに悩み、そしてどんな夢を抱いているのか、等について語り合いました。

(文/嶋田拓郎・北地智子

目次

~中途障がいを負うも、ノリと勢いで大学生に~ | 岩岡美咲 / 油田 優衣 1回目

ある日突然、障がい者に

油田:今日はお会いできることを楽しみにしていました。岩岡さんの自己紹介からお願いいたします。

岩岡:岩岡美咲といいます。私は健常者として生まれました。小中高とずっと地元の学校に通っていましたが、小学校5年生の時から始めた器械体操で、高校2年生の夏に頸髄を損傷して障がい者になりました。跳馬(跳び箱のように走って飛ぶ競技)の試合中の失敗で、手を滑らせて頭からマットに突っ込んでしまったんです。すぐにドクターヘリに乗って病院に運ばれて手術をしました。最初の2日間くらいはまだ自分で息ができていたんですけど、3日目くらいに呼吸困難になって、それからまた違う病院に運ばれて、気管切開して呼吸器を着けることになりました。

――事故があってからどのような生活になっていったのですか?

岩岡:事故以降は、総合せき損センター(※1)での入院生活でした。高校の先生が毎日かわるがわる北九州から飯塚まで来てくれて、高校の数学や国語の授業を病院で行ってくれました。私にとってラッキーだったことは、最初の段階で同じようなレベルの頚損の方がいたので、口の下にシールを貼ってパソコン操作ができる方法を教えてもらえたことです。パソコン操作を問題なくすぐできるようになりました。

油田:そうだったんですね。外出は自由にできていましたか?

岩岡:ずっと入院生活だったので、外出はできるとも思っておらず、するきっかけもありませんでした。ただ、高校の卒業式に「私も行きたい!」と先生に伝えたところ、高校の先生も病院の先生も協力してくれて、病院から高校に救急車で向かって卒業式に出席することができました。それが事故以降の初めての外出でしたね。

油田:高校卒業以降の生活はいかがでしたか?

岩岡:卒業後しばらくしてから自宅での療養生活が始まりました。自宅では病院と異なり、毎日することがありません。部屋で一日中パソコンをしていることが多かったですね。訪問リハビリや訪問看護を利用しながら、最初の頃は、お母さんが全部身の回りのことをして、何年も過ごしていました。

油田:その生活から変わるきっかけはどのようなものだったのでしょうか?

岩岡: 「ぶるーむ」というCILの方が介助者と一緒にうちに来てくれる機会があったことです。そこでの出会いが、介助者と外出することができることに気付いた大きなきっかけでした。その後、CILぶるーむの「よろず‼」(※2)で、ぶるーむの介助者を利用して小倉城にお花見に行きました。その頃はまだ気切(「気管切開」の略)だったから声が出なかった上、吸引が必要だったので、どこかに行く時は介助者と1対1ではなく、お母さんも行けるように、ぶるーむの事務所等から始めていましたね。

――岩岡さんは途中から発話ができるようになったことも大きな転機だったとお伺いしています。

岩岡:2013年に「気切を閉じて声を出せるようになる」と聞いて、声がまた出るようになったというのが7年前でした。それが大きなきっかけで、外に出る機会がそこでぐっと増えました。介助者が後ろに立っていても私の声が聞こえるし、「あっちに行って」「こっちに行って」と伝えられました。そこから「生き方のデザイン研究所」(※3)の代表に声をかけてもらって、ちょっとずつ高校生等の人前でしゃべることをさせてもらうようになりました。

~中途障がいを負うも、ノリと勢いで大学生に~ | 岩岡美咲 / 油田 優衣 1回目

大学へ行こう!

岩岡:人前で話す機会を頂いた時に、自分自身が障がいのことや社会問題について知っていなければならない。その問題意識が、大学にいくきっかけでした。ちょうどその時に、地元の北九州市立大学のオープンキャンパスがあることを知り、軽い気持ちで行きました。しかし、「大学受験したら?」と先生から言われ、その気になってしまったんですよね(笑)。ほんとノリと勢いで受験しちゃったという感じです。オープンキャンパスが9月で、その2ヶ月後が受験だったので、すぐに高校の先生に相談したり、資料の準備や配慮の申請をしたりと、バタバタと時間が過ぎていきました。このように勢いで受験したので、ゆっくり考える時間もなかったかなと思います。

油田:入試の際には、どのような配慮を受けましたか?

岩岡:北九大の社会人枠で私は受験しました。この枠であれば、時間制限があり、準備に時間がかかるセンター試験を受けなくてもよかったので、とても助かりました。そこから大学に行き、私のパソコン操作の仕方を職員の方に見てもらい、「こういう形だったら論文を書くことができます」ということを伝えました。その結果、否定されずに受験環境の配慮をしっかりしてくれて、受験当日は待機部屋を用意してもらえました。午前中に小論文試験で、私と介助者と試験官の3者で同じ部屋にいました。午後は団体面接の後に個人面接がありました。まず団体面接で、初めて他の受験者と一緒になって、ディスカッションでグループワークをしたのですが、その時も介助者は同じ部屋に入り、後ろに座ってもらいました。そのあとの個人面接では、介助者に後ろに座ってもらい、受け答えをして受験は終わりました。油田さんはどういう受験の形だったのですか?

油田:私はその当時はまだ手が動きやすかったので、センター試験は手書きで受け、別室受験や時間延長をしてもらいました。なので、受験で困ったことはなかったです。高校の普通の定期試験とかでも、別室受験で時間延長をしてもらうっていう実績を積んでいて、その実績が配慮の申請に効果があったように思います。

――今振り返ると、お二人への受験の配慮は適切でしたか?

岩岡:適切だったと思います。小論文試験も時間延長をしてもらえましたし、介助者が常についている環境や、別室受験等、全て望みを叶えてもらえたと思います。

油田:私も妥協したとこはなかったですね。

――すごい!満額回答だったのですね。

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ロールモデルの存在①――国のモデル事業で大学へ

――大学合格後で苦労されたことはありましたか?

岩岡:事前に、通学に介助を利用できないことは知っていましたが、介助の問題をどうクリアするかは非常に重要でした。大学に合格してから、介助の問題で交渉を始めたので、あまり時間がなかったですね。少ない時間のなかで、自治体にも行きましたし、基幹相談支援センター(※4)にも行きました。気持ちはわかってくれるけど、制度がないため、みんなで悩んでいましたね。

――その状況からどのように脱したのですか?

岩岡:総合せき損センターで一緒に入院していた人に相談したことがきっかけでした、国のモデル事業(※5)があるよと教えてもらい、日本せきずい基金(※6)の理事長に紹介してくださって、国のモデル事業という形で通学の支援がスタートしました。すぐに国のモデル事業を使えたタイミングだったこと、さらに北九州市でも通学支援事業というのができることになったことも運が良かったです。大学3年生以降は北九州市の事業を利用して介助者と一緒に通っています。

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ロールモデルの存在②――お手本となった先輩たち

――岩岡さんのお話をお伺いしていると、出会った方によい影響を受けているのだと感じました。お話でお伺いしたCILの方は、どのような方なのですか?

岩岡:飄々とした方で、隣にいた介助者がすごい若かったことにビックリしました。最初は、「兄弟を連れてきてるのかな」と勘違いしたくらいでした。「え、介助者!?」という衝撃もありました。

油田:岩岡さんのそれまで持っていた「介助者」のイメージとは異なっていたのですね。

岩岡:そうですね。それまでは介助者と一緒に外出するという考えがなくて、外出するときは家族の助けが必要だというイメージでした。

油田:私はCILに中学生の時に関わるようになって、いわゆる自立生活運動系の介助者の使い方は早くから理解できていました。CILの当事者の皆さんと出会っていなかったら、介助者を連れて外出するという発想もなかったのかもしれないですね。

岩岡:そう思います。市役所に相談に行っても、日常生活での、障害福祉サービスの利用方法を親身に教えてくれるという話しはあまり聞きません。そういう意味で、自立生活している先輩に早くから出会うことの意味は大きいですね。

油田:介助サービスなどの制度を知らないうちは、「身体の状態がいいからあの人はできるんだ」と思ってしまうのだと思います。私も、一人暮らしをしながら大学に通おうと思うようになったのは、私よりも重度の障がいを負っている人が、実際に大学に進学している姿を見たからです。

岩岡:今でもそうですよね。何が自分にできて、そのために何の制度が必要かということがわからない。だからこそ、なかなか一人暮らしに踏み出せない人が多いのだと思います。自分の障がいの重さもそうですが、家族・両親といて、何の不自由もなく甘えさせてもらっていると、外に出るきっかけがなくなってしまう、という言い訳をしてしまうんですよね。だからこそ、自分が「やるかやらないか」という意思が重要なんだと思います。

油田:言い訳にしてしまうのはよくわかります。

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コミュニティの存在――総合せき損センターと小倉東高校、そして家族

油田:中途障がいを負って、いきなり自分の身体の状態が変わって混乱したり、気持ち的に落ち込んだりなどあるかと思うのですが、岩岡さんはその辺いかがでしたか?

岩岡:私の場合、ドラマであるような「あなたはもう一生歩けません」といった医師からの告知はありませんでした。日常が淡々と進み、身体が動かない現実のなかで、毎日リハビリをこなしていくという状況でしたので、ある意味余計なことを考えなくて済んでいたのだと思います。学校の授業は先生が来てくれるし、リハビリ室に行ったら先生たちいっぱいいて楽しい、ということの方が大きかったかなと思います。

油田:岩岡さんにとっては、総合せき損センターの存在が、自分の気持ちを前向きにさせてくれる場所になっていたのですね。

岩岡:総合せき損センターでは、私と同じレベルの障がいの方がいたということも大きかったと思いますね。リハビリ室はいつもワイワイしていて、楽しげな雰囲気でした。なので、リハビリ室に行くのが嫌と思ったことはありません。当事者同士のコミュニティがあって、積極的にしゃべることができなくても、それを手助けしてくれた先生もいたから、ポジティブな印象が今も残っています。

油田:当事者がたくさんいるコミュニティに身をおけたこともとても幸運なことだったのかなと、考えさせられました。高校の先生もすごいですよね。小倉東高校からせき損センターのある場所は割と距離ありますよね、毎日センターまで通うのはなかなかの労力です。

岩岡:母から後で聞いたことですが、「美咲は学校を辞めなくちゃいけないのでは」という想いを両親も思っていたようです。ただ、先生たちは、こちらからお願いすることもなく当たり前のように、「授業行くよ!」と毎日代わる代わる来てくださいました。もともと担任の先生が前の学校にいた時に、同じように頚損になった方がいたようです。その人も病室でホワイトボードを使って授業したらしく、先生たちに経験があったことがベースにありました。私が学校のことについて何か悩むことは全くなかったです。

油田:すごいですね!高校とのつながりが全然途絶えることなくて素敵だなぁ。

岩岡:今も高校の先生の何人かは、家に遊びに来てくれたりします。

――岩岡さんとご家族は、とても良好なように感じますが、お父さんお母さんとの関係についてどのように思われていますか?

岩岡:声が出なかった時は、お母さんと一緒にいる時間が一番長くて、話しても通じなかったりすると、「もういい!」と言ってしまうこともたくさんありました。今でもちょっと機嫌が悪い時とか、当たってしまうことはあります。ただ、もともとの性格かもしれませんが、私はどちらかというとお調子者で、目立ちたがり屋なんだと思います。それに、両親も私に暗いところを見せるわけでもなく、ノリで、「高校の卒業式に行きたい!」であったり、「大学受験してみよう!」と言い出す私にチャレンジさせてくれる両親です。私のある意味思い切りの良い行動を応援してくれる両親には感謝しています。

 

第2回は、岩岡さんがどのような大学生活を送られているかに迫ります!

注釈

1.独立行政法人労働者健康安全機構「総合せき損センター」(福岡県飯塚市)は、脊椎・脊髄疾患を治療する日本有数の専門施設のこと。https://sekisonh.johas.go.jp/

2.「よろず‼」とは、「自立生活センターぶるーむ」(福岡県北九州市)が主催する、おしゃべり・歌・一芸等、なんでもありの交流会のこと。http://cil-bloompage.world.coocan.jp/

3.「一般社団法人生き方のデザイン研究所」(福岡県北九州市)とは、インクルーシブデザイン思考を考えるNPOhttps://www.ikikatanodesign.com/

4.「北九州市障がい者基幹相談センター」(福岡県北九州市)は、総合的な相談支援事業を行っている。http://www.shien-c.com/

5. 厚生労働省による通学や大学内での介助者費用を負担するモデル事業のこと。2016年度より開始。

6.「NPO法人日本せきずい基金」(東京都目黒区)とは、脊髄損傷の治癒の展望を切り開くために、総合的なシステムを確立を目指す。http://www.jscf.org/

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プロフィール

頚髄損傷・北九州市在住|岩岡美咲(いわおかみさき)

1988年生まれ。高校2年生で体操競技中に受障し第4頸椎脱臼骨折。頭部以下完全四肢麻痺、呼吸筋麻痺により気管切開+人工呼吸器。総合せき損センターにて反射シールを貼った口元を動かし、シールの動きを読み取る機器を使用することでパソコン操作が可能となる。退院後、往診・訪問看護・介助者派遣・訪問リハ・訪問マッサージ・訪問入浴を利用し在宅生活。総合せき損センターの先生から後押しを受けて入院し気切を閉じ、人工呼吸器を口でくわえるNPPVへ変更する。発声可能となり吸引も必要なくなる。呼吸器をくわえながら会話や食事、パソコン操作ができるようになり介助者との外出機会も増えてきている。現在、北九州市立大学に在学中で講演活動もしている。父・母・双子の弟・7歳下の弟・12歳下の弟がおり、両親と同居している。好きなものは、ボディクリーム(を集めること)、チョコレート・ポテチ・焼き鳥、読売ジャイアンツの坂本勇人、Youtube。

文/嶋田拓郎・北地智子

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