先生との出会いで広がった勉強方法の可能性とOrihimeロボットの世界
Profile
SMA(脊髄性筋萎縮症Ⅰ型)・飯塚市在住|中島寧音(なかしまねね)Nene Nakashima。2002年生まれ。福岡県飯塚市出身。生後11ヶ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断される。小学校は地域の公立学校へ通い、中学・高校は直方特別支援学校へ通う。現在、筑紫女学園大学に在籍し社会福祉士を目指して学ぶかたわら、分身ロボットカフェ DAWN(ドーン) ver.βで公認OriHimeパイロットとして働いている。
イントロダクション
中島さんは生後11ヵ月で脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断されました。中学校から特別支援学校へ通い、先生方との出会いからiPad操作による勉強方法を確立されたそうです。現在は、大学に通い社会福祉士を目指して学ぶかたわら、分身ロボットカフェ DAWN(ドーン) ver.βで公認OriHimeパイロットとしてアルバイトをされています。
今回のインタビューは、公認OriHimeパイロットとしてはたらく中島さんに、同じ福岡県で就労支援事業を利用して一般企業でアルバイトをしている理事の岩岡美咲がお話を伺いました。OriHime同士でパイロットの方と話をする機会や、現地スタッフと雑談をする時間が、そこに実際に自分がいるような感覚になって、働くモチベーションにもつながることを聞かせて頂きました。
目次
iPadの使用で開いた新しい勉強方法の確立
自己紹介をお願いします。
中島:2002年6月11日生まれで、今年(インタビュー時)で20歳になりました。福岡県の飯塚市に両親と3人で住んでいます。私は脊髄性筋萎縮症Ⅰ型の難病があって、今はほとんど寝たきりの状態で過ごしています。
脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断されたのは生後11ヶ月頃です。私がハイハイなどがうまくできないことを両親が心配に感じたようで、病院で検査をして診断を受けました。幼少期は子供用の車椅子に長時間座ってもきつくなかったので、車椅子に座って生活することが多かったです。
小さい頃から移動や食事などの生活介助は父と母、あと祖父母や伯母にもしてもらっていました。小さい頃は絵本が好きで、よく母に「これ読んで」って寝る前におねだりしていたみたいです。脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断されたころに保育所にも通っていました。そこでは障がいを感じることなく、友達と遊んでいました。
ご両親との関係はいかがでしょうか。
中島:家での食事や着替えとか日常生活は母と、父にもいろいろしてもらっています。入浴は訪問看護さん、外出はヘルパーさんです。母とは仲良いほうなんじゃないかなとは思っています。小学校のときも一緒に母と裁縫したりしていました。
学校生活はどうでしたか?
中島:小学校は地域の小学校に通って、みんなと同じ授業を受けていました。3年生以降は交流クラスの教室が2~3階になったので、1階の支援学級で勉強することが多くなりました。小学校のみんなと遊ぶ機会もあって、色々とみんなもやってくれたりはしたんですけど、学年が上がるにつれて交流の機会が少なくなっていきました。
中学から直方の特別支援学校に通いました。最初は周りから、医療面・体調面でのケアが必要なことから特別支援学校にいったほうがいいよと言われたこともあって、特別学校のほうに通うようになりました。中学の先生と出会えて、2年生からiPadを使うようになりました。
それまでは勉強するときに教科書を先生に持ってもらったり、自分で書いたりしていたんですが、先生から紹介いただいたiPadでほとんど勉強もできるようになりました。自分の勉強の仕方が確立できたように感じているので、特別支援学校に進んでよかったのかなと今は思います。
iPadで勉強がはかどるようになったんですね。iPadを操作するときはどんな感じで操作しているんですか?
中島:iPadを私の顔の目の前に置いて、右手を左手で支えるような感じでタッチペンを持って操作しています。
私自身もそうですが、iPadを使えることやパソコンが自分で操作できることで生活が大きく違いますよね。
中島:そうですね。なくてはならないツールだなと。
高校生活はどうでしたか?
中島:高校も直方特別支援学校に進学しました。中学3年生の時点でこのまま特別支援学校に進学をするか、ほかの県立の高校も考えていたんですが、ちょうどその頃にSMAの治療薬が承認されて、その治療をしたくて、勉強ができる特別支援学校に入学しようと決めました。
自分なりの話を誰かに喜んでもらえる 傾聴ボランティアはやりがいを感じるきっかけに
特別支援学校に進学してよかったと感じたことはありますか?
中島:高等部では授業の一環で、グループホームに行って傾聴ボランティアをしました。ボランティアと聞くと今まで清掃活動とか身体を動かすイメージだったんですが、話を聴くというような私なりに出来る活動もあるんだなって感じました。
私なりのお話をすることで、誰かに喜んでもらえることにやりがいに感じて、もっと続けたい気持ちになりました。そこから人の役に立つことがやりたいという気持ちも強くなりました。実際にボランティアを始めて、私もお話する方から元気をもらっているなって感じました。
高等部でも先生との出会いがあったんですよね?
中島:担任の先生との出会いから、分身ロボットOriHime(※1)を紹介していただきました。今は、東京にある分身ロボットカフェでOriHimeというロボットを遠隔操作して働いたりしています。
中学、高校の時に出会った先生のおかげで視野を広げられたって事ですが、それぞれどういった先生でしたか?
中島:どちらの先生もなんでもチャレンジしたほうが、やってみたほうがいいよっていう先生でした。私にOrihimeや傾聴ボランティアを紹介してくれて、できる事があると支えていただきました。
いい先生を見つけられて良かったなぁと思いました。中学高校の時、卒業後の進路を考えていくうえで、進学指導やどういう授業を受けたのかお伺いしてもいいですか。
中島:他にも世界一周をした三代達也(※2)さんや寝たきり芸人のあそどっぐ(※3)さんにお話に来ていただきました。主に車いすユーザーの方や私と同じ障がいの方がお話にこられました。
皆さんすごく生き生きとされていて、障がいがあるとか関係なく色んな事にチャレンジされている姿をみて、私も出来ることを達成して、その為に行動していかないといけないなという気持ちになりました。お話の中では、大学生活や1人暮らしについての話も聞きました。お話を聞けて将来は1人暮らしもしたいなと思っています。
進路学習の内容を聞くと先生の独自性も感じるキャスティングだと凄く思いました。こういう進路しかないよじゃなくて、こういう幅があるんだよ、こういう生き方があるんだよって生徒のみんなに知って欲しかったという感じがしますよね。なおかつOrihimeのパイロットを紹介するって時点でかなり普段から調べてくださっているんでしょうね。
社会福祉士を目指して 仕事の経験をして誰かの役に立ちたいと強く感じた
寧音さんは、大学生になったのですよね。
中島:太宰府市にある筑紫女学園大学に通っています。車で1時間くらいのところにあります。今は週に3日通って(取材当時)、母に車で送り迎えをしてもらっています。
大学進学を考えるようになったのはいつぐらいですか?
中島:小学校から漠然と大学に進学したいなという気持ちはありました。でも中学校では自分がどうやって大学に行って授業を受けているのかというイメージが湧かずに不安でした。今は大学の社会福祉コースで社会福祉士になるために勉強しています。
そうしたいと思うようになったきっかけは、分身ロボットカフェでのお仕事の経験をしたからです。
お客様に喜んでいただけたことがやりがいにつながったり、そこで一緒に働く方々も同じ障がいがあったり同じ境遇の方がたくさんいて、その方の姿を見て私も誰かの役に立ちたいと強く感じるようになって社会福祉を学びたいと思うようになりました。
大学での介助はどうされていますか?
中島:通学支援事業を月に88時間(取材当時)、利用しています。
通学、通勤、就労にヘルパーさんが当たり前に介助に入れる環境は私たちにとってすごく必要だと思います。大学生活でのヘルパーさんはどういう介助内容で入られていますか?
中島:まず大学に着いたら移乗をして、大学内では食事やトイレなど生活介助を全般的にしてもらいます。授業中の板書だったりiPadに講義資料をスキャンしたりの介助は、大学自体に障がい学生を支援する学生ボランティアがいるので、そういった方にお願いしています。学生ボランティアの方は社会福祉コースの友達や先輩です。
授業に関するサポートは学生ボランティアで、生活に関することはヘルパーさんなのですね。学生ボランティアというのは、無償なのですか?
中島:学生ボランティアは1コマ90分(取材当時)で報酬がでるようです。
私が通っている大学では学生ボランティアや有償ボランティアはないのでなかなか難しいです。最初から学生ボランティアのサポートはあったのですか?
中島:はい。私が入学する以前から大学には「配慮を要する学生の相談・支援窓口」があり、そちらで毎年前期後期で学生ボランティアを募っていただいています。
大学内でのヘルパーさんやや学生ボランティアなど、介助してくれている方との関係性はどんな感じですか?
中島:ヘルパーさんとは緊張はあったんですけど、段々と色んな話もできるようになってきました。ふとした出来事とかでもヘルパーさんに話ができるようになった感じです。大学だけではなくて、時々移動支援もお願いするようになりました。
学校に来てくれているヘルパーさんが移動支援にも入ってくれるのですね。理解してくれている人が日常にいるっていうのは心強いですよね。通学でヘルパーさんがいない時間帯はあるんですか?
中島:大学内はほとんどヘルパーさんに手伝ってもらっています。いない時間はなくて大学に着いた時から最後まで、車に移乗するまではほとんどヘルパーさんに入ってもらっています。
常にヘルパーさんという存在がいる中で学校のお友達との関係はどうですか?
中島:友達とヘルパーさんも仲良くなって、友達とはヘルパーさんも交えてみんなで一緒に話したりします。入学した最初の頃はヘルパーさんもいるから話しかけていいのかなとは感じていたみたいです。段々と友達と関わる期間が長くなった事で、そういった考えもなくなってきているのかなと感じます。
寧音さんがいてヘルパーさんがいる環境が、友達にとっても当たり前になって、自然な形が作れているのですね。今、大学生活で楽しんでいる事はありますか?
中島:大学内にはカフェがあって、ホットドッグやパンケーキを食べるのが楽しみです。そこで時々友達とランチしたりしています。
送り迎え問題 寄り道を含めて、それも人生だ
障がい学生の話を聞くなかで、悩みの1つは日々の学業が忙しかったり、ヘルパーさんのシフトの関係で、サークルに入ったり友達と遊んだりが中々しづらかったのが心残りだという人もいますが、その点いかがでしたか。
中島:大学内で利用できるヘルパーさんの時間が決まっていて、帰宅した後も訪問看護師さんがきてくれます。毎日必要な医療的ケアもあって、大学が終わった後になかなか友達と遊んだりできません。ボランティア団体にも入ってはいるんですが、そういった活動に毎回参加できないのが悩みではあります。
送り迎え問題というジャンルがあるくらい、迎えの時間が決まっていたり寄り道できない事とか、帰りに最近できた駅前のスタバに行けないとかそういうのはよく聞いたりします。私の場合、夜間に授業を受けている事も多くて、大学にいって授業を受けたら帰るだけっていう生活が続いてしまいました。
なかなか友達とごはんに行く機会、そもそも私が通った大学はカフェもないんですけど。そういう友達と一緒にできる事が今の寧音さんができているなら凄く理想的だと思いました。通学支援が(月)88時間でしたっけ?それで大学内のサポートは足りているんですか?時間ぎりぎりではないですか?
中島:ぎりぎりの時もあります。
せっかく大学に通ってボランティア団体活動やバイトができているのに、介助の時間の区切りがある事が残念ですよね。本当は重度訪問介護で時間数が取れてスムーズに家からヘルパーが付く生活ができると寄り道を含めて、それも人生だから、ボランティア団体活動に参加したりできると思います。そこが課題というか、大事な視点ですね。
※1 障害や病気、介護など距離や身体的問題によって行きたいところに 行けない人のもう一つの身体になる機器。https://orihime.orylab.com/
※2三代達也 http://wheelchair-worldtrip.com/
※3あそどっぐ https://www.youtube.com/@asodog/featured