運動調査記事

尾上さんが経験されてきた運動論――地域で実績をつくり国を動かす

Profile

脳性麻痺・大阪市在住|尾上 浩二(おのうえ こうじ)
1960年大阪市生まれ。1歳で脳性麻痺の診断を受ける。養護学校(現・特別支援学校)、施設を経て、中学校から地域の学校へ通う。大阪市立大学入学後、障害者運動に参加。障害者差別解消法の制定や施行準備に関わる。1998年DPI日本会議事務局次長、2004年DPI日本会議事務局長、現在は副議長。事務局長後任は佐藤聡氏。障害者政策委員、内閣府・政策企画調査官、内閣府障害者施策アドバイザーを歴任。NPO法人ちゅうぶ代表理事。主な著書に、大野・小泉・矢吹・渡邉との共著『障害者運動のバトンをつなぐ–いま、改めて地域で生きていくために』(2016年、生活書院)

尾上浩二さんは、長年障害者運動を牽引され、現在の制度を作り上げてきました。今回お話を伺ったのは、そのような政治とも関わりのある尾上さんに、介助付き就労についてどのように考えられているかを教えていただきたかったからです。尾上さんがひとつひとつ積み上げながら社会を変えてきた運動のご経験から、介助を付けながら働く意味の組み替え、そしてその先の障害者運動をどのようにつくっていくべきかまで、貴重なお話を伺うことができました。

目次

  1. 会議の手伝いから、いつのまにか介護保険統合反対のたたかいに身を投じて
  2. 関係者とのキャッチボールで政策を実現していく
  3. 「こんにちは訪問」を発展させた「生活要求一斉調査」に関わる
  4. 作業所で、ものではなく、ともに生きる地域をつくる

会議の手伝いから、いつのまにか介護保険統合反対のたたかいに身を投じて

はじめに、尾上さんは、いつごろからDPIと関わっていたのですか?

尾上:私は、DPI日本会議(以下、DPI)が設立された2年後、1988年から関わりはじめました。全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の楠敏雄さん(※1)がDPIの役員だったので、大阪で会議をする際に準備を手伝いはじめたのがきっかけです。

DPIは、当時草の根の障害者運動のネットワークにすぎず、たいした組織体制があったわけではないので、それぞれの構成団体の持ち回りで様々な会議を行っていました。ある時、バリアフリー運動で関係があった三澤了さん(※2)が事務局長になった際に、私に「国への要望書を書くときの雛形を作ってくれないか」という依頼があり、DPIの事務局員になりました。

DPIではどのような役割を担われてきたのですか?

尾上:まず会議運営の事務仕事からはじまり、1990年代は当時のDPIにとって最大の活動である、誰もが使える交通機関を求める全国行動を関西の事務局として担当。並行して「施設や病院から出て地域で」を掲げた自立生活運動のなかで、障害者介護や自立生活の問題にずっと関わっていました。

特に、当時の厚生省関係分野で、社会福祉基礎構造改革の議論を担当していました。また、2002年札幌でDPI世界会議が開催されたときは、1年前から全国に世界会議を周知するプレイベントやDPIの組織を強化するオルグ(運動の仲間を増やす取組)も行いました。

2003年のホームヘルプサービス上限問題ではその対応に追われ、東京から大阪になかなか帰れなくなったことも。そのような中で事務局長になるきっかけとなったのは、介護保険制度と障害保健福祉施策の統合問題です。

私は生まれ育った大阪で活動していたため、仲間たちから「東京に行かないでくれ」という声もあり、5年間の約束で上京したのですが、介護保険統合、「障害者自立支援法」を巡るたたかいから障害者差別解消法、障害者権利条約批准まで身を投じ、結局大阪に帰ることができたのは14年後の2018年となりました。

関係者とのキャッチボールで政策を実現していく

DPIの特徴はどんなところにありますか?

尾上:DPIの特徴というのは3つあります。まず、障害当事者自身が声をあげようというスローガン「われら自身の声」に代表される当事者主体。次に、障害種別を超えた集まりであること。そして、社会モデルをいち早く提唱したことです。

やはり、各団体が1つにまとまっていく過程で力を合わせていったことが大きいのでしょうか。

尾上:当時は歴史のある団体が国の検討会の主流で、そのような体制からこぼれ落ちた団体・グループが集まったのがDPIでした。だから設立当初は、このような草の根の障害者運動が1つになるためには結集軸を作らないとどうしようもないというのが正直なところでした。

うまく運動の結集軸をつくりDPIを発展させることで、なんとか次のステージに持っていけないかというのがあったと思います。しかし、1990年代になっても、DPIが何らかの審議会に入ることはありませんでした。

地域レベルでは、障害者基本法ののちにできた地方の施策推進協議会に私が入ったりすることはありましたが、国レベルでは部分的に協力してくれる議員さんがいたとしても、DPIから委員に入れるような状況ではありませんでした。

ましてや「世界会議があるから政府から資金を提供してほしい」という要望を伝えるルートもなく、「喜んで提供しましょう」という返答が来るような状態ではありませんでした。

当初は政府の支援を受けるのも大変だったのですね。現在では、DPIは政策提言の組織というイメージがありますが、どういうことを大切にされてきたのですか。

尾上:これは私の捉え方ですが、大事なのはキャッチボールではないでしょうか。いくら良い政策提言のパッケージをまとめたところで、文章をまとめるだけでは意味がありません。それをどういうふうに認めさせるか、そのためにいろんな方法を駆使しなければいけません。

特に、交通バリアフリー法で、自分たちが提起したことで国の制度や政策に変わるという成功例としてできあがったのは大きかった。役所や個別の官僚との関係もできたからです。また、2002年に札幌で開催されたDPI世界会議も実りあるものでした。

さらに、障害者権利条約策定のためのアドホック会議特別委員会に、他の障害者団体と一緒にニューヨークまで行くなかで信頼関係を構築したことが、JDF(日本障害フォーラム)(※3)につながっていきます。

このように、様々な活動を通じて組織を固めていくなかで、政策提言がある程度受けられるようになってきました。ただいつの時代でも、時と場合によっては再び座り込み(※4)などの抗議をしなければならない局面というのも出てくるだろうと思っています。

これまで共通の基盤を持つ議員さんとの関係から始まったものが、幅広い政党や官僚ともつながり、信頼の基盤を積み重ねていきながら広げていったのですね。

尾上:はい。1980年代は、私たちの障害者運動を支援するのは、社会党系や労働組合などの存在が大きく、DPIが自分たちで事務局を借りるだけのお金がないので、障害連という団体にDPI事務局を置かせてもらいました。ちなみに障害連は当時の総評の支援を得ていて、事務所も総評会館にありました。

ただ、NPO法人という性格から、特定の政党を支持するということは法律上できません。障害者権利条約の批准に向けた法整備、たとえば障害者差別解消法を、政治的に権威あるものにしていくためには全会一致ということがすごく重要です。なぜかというと、全会一致はその後のスムーズな実施や見直しに関わるからです。

なるほど。全会一致を獲得するためには合意形成をとっていく必要があるなかで、他団体からしたら妥協案のように思われていくようなものでも、一歩前に進めるための考え方として必要になってくるのかなと思うのですが、そのあたりはいかがでしょうか?

尾上:何をもって「妥協」と考えるかですが、私は「次につながるか」を大切にしています。たとえば2013年に民主党から自民党へ再度政権交代がおこり、障害者制度改革推進会議が発展改組した障害者政策委員会が出した提言がどう受け止められるかわからない、まさに風前の灯という状況がありました。

このタイミングを逃すと、10年20年、日本では障害者差別を禁止をする法律はできなくなるんじゃないかとさえ思いました。「障害者差別禁止法」という名称にこだわるというよりは、差別的取り扱いや合理的配慮の不提供も含めた差別の禁止を明記した法律を作ることが大事だと思いました。

そこで、私達は1ヶ月間ほぼ毎日、議員会館のとある議員事務所を出撃基地のように使わせてもらいながら、「今日はどこどこの党の何々先生に会いに行こう」と、順に異論が出ないよう説得をしていきました。ついにその年の2月、各党の障害者政策責任者が登壇する場として有名だったアメニティフォーラム(※5)で議員セッションを行ってもらいました。このように自民党・公明党・民主党の3党合意を経ることが、差別解消法につながりました。だから、「妥協」ではなく「次につながる」ということを重視して動くことです。当時はよくぞそこまで通ったなと、自分としても成功例として捉えていました。

「こんにちは訪問」を発展させた「生活要求一斉調査」に関わる

ちょっと話は戻りますが、尾上さんご自身の学生時代の障害者運動のご経験はどのように今につながっていますか。

尾上:小学校は養護学校で、中学校から地域の学校に行ったのですが、今で言う合理的配慮を一切求めず、「『設備を求めません、周りの手は借りません』という念書を書くならば、入学を認めてあげましょう」と言われました。そのため、例外的に認められているプレッシャーを感じながら、ずっと中高を過ごしていました。

その後、障害者としての生き方に悩みつつ、1978年に大阪市立大学に入学。今思えば、ちょうど養護学校義務化反対運動が盛り上がっている最中の1978年に大学に入学したというのが、幸か不幸か障害者運動との出会いのタイミングとなりました。

さて、入学翌々年の1980年は、厚生労働省による実態調査阻止闘争の年でした。障害者自身の手で障害者の生活要求一斉調査をしようと、1981年国際障害者年を前にして打ち出すわけです。1970年代から行ってきた施設・病院・在宅の障害者の「こんにちは訪問」や、「そよ風のように街に出よう」を掲げた外出運動が、調査活動の提起につながっています。さらにいろんな実態や要望を聞いて、次の行政交渉につなげていこうということで、「こんにちは訪問」の発展系として「生活要求一斉調査」があり、私も大学2、3年のときはずっと関わっていました。

生活の実態を掴むことが大事なのですね。理論武装された行政や官僚や与党議員と戦うためには、実態を自分たちはわかってることが強みになります。

尾上:まさにその通りです。だいたい行政がやる調査は最初に結論ありきのものが多く、こういう制度を作りたいというところに合わせて、つまみ食いのようにして「実態調査」をしています。一方、生活要求一斉調査では、障害者自身の生の実態を浮かび上がらせることができます。

質問項目は全部で100くらいあり、「外出の機会は何回、どれぐらいありますか」「外出手段はどのようなものを使ってますか」「外出の理由はなんですか」「お風呂には週何回くらい入れていますか」から始まって、いろんなことを聞きました。実は、統計的な調査以上にオーラルヒストリー的なものを掴んでいく意味合いもあったと思います。

たとえば、生活要求一斉調査で出会ったなかで、脳性麻痺の息子を介護する父子家庭がありました。月に1回外出するというので、「どこに行かれていますか」と聞いたら、毎月行く地名を教えてくれました。ですが、そこに知り合いや親戚はいません。

不思議に思って外出先を選ぶ理由を尋ねると、「あそこまで行くのにだいたい片道5時間ぐらいかかるやんか。それ以上行ったらその日のうちに帰ってこられへんやん。車椅子、電車乗れるはずないやろう。」と言うんです。確かにその当時、障害者運動に関わる人は乗車拒否にあったり、嫌な顔されても電車に乗っていたけれども、障害者運動に関わってない限りは、電車に乗れるという発想すら持ち得なかったんですよね。だからこの話を聞いて、「こんな社会やっぱり許せないな!」と思いました。

オーラルヒストリー的なものをつかむことで、それまで制度からこぼれ落ちてきた生活を、より立体的に実態をつかむことができると感じました。尾上さんの大学時代の豊かなご経験が、現在の活動に大きくつながっているのですね。

作業所で、ものではなく、ともに生きる地域をつくる

ところで、尾上さんは現在DPIのほかにも、NPOちゅうぶの代表としても活動されています。その活動内容や大事にしていることを教えてください。

尾上:ちゅうぶは元々、青い芝運動が母体になって、自立生活センターが日本で紹介される前から手探りでありとあらゆることをやってきました。特に、1999年に当時の市民活動促進法がNPO法となって成立し、2003年になって社会福祉法人以外でもいろんな事業を実施できるようになったので、それ以前と以降で活動内容はだいぶ違います。

今の事務所を構えたのは1984年、家賃を捻出するのも、まずは街頭カンパでお金を集めようみたいなところから始まりました。当時社会福祉法人を持っていたら、国や自治体からの事業委託を受けることができましたが、そうじゃなかったら何もない。しかも「社会福祉法人を設立するには元金が1億円必要だ」と言われました。でも、草の根団体がそんなものを作れるはずがない。

どっちかと言えば、社会福祉法人が入所施設など障害者の隔離を進めてきました。だから、法人格を持っていない、お金のない我々ができるのは何かと考えた末に出た答えが、任意団体で唯一助成金がとれる自治体の無認可作業所制度でした。

そこで、作業所を母体にして、障害の有無にかかわらずともに生きる地域をつくることを目指しました。「ここは何作ってるんですか?」と聞かれたら私は本当に「ともに生きる地域を作ってます」と答えていました。具体的には、自立体験室や自立プログラムも含めて、地域で暮らしていくためのツールとしてグループホーム制度や全身性障害者介護人派遣事業の充実を大阪市に求めたり、自立生活センター・ナビをつくり市町村障害者生活支援事業を受託して活動を進めました。1998年から続いて今に至ります。そう言う意味で、当時の障害者運動の状況の中で、体系だってというよりは手探りで作ってきたのが今の姿です。

尾上さんの活動のベースには大阪での活動があったのですね。地元の活動と、中央の活動を両輪で進めていくという強い意思を感じました。

※1 楠政雄氏は、全国初視覚障害者としての公立普通高校講師。全障連(全国障害者解放運動連絡会議)を設立し、DPI日本会議事務局長を歴任。

※2 三澤了氏は、学生時代に事故で頸髄を損傷し車椅子を利用するようになり、「頸髄損傷者連絡会」を結成し、まちづくり運動や所得保障などに取り組む。DPI日本会議事務局長や議長を歴任。

※3 JDF(日本障害フォーラム)は、障害のある人の権利を推進することを目的に、障害者団体を中心として2004年に設立した団体。国連における障害者の権利条約や日本の障害者施策の推進などに取り組む。

※4 入居者や職員が1970年代の都庁第一庁舎前でテントで座り込んだ都立府中療育センター闘争や、青い芝の会をはじめとする当事者が中心となって行った、和歌山センター闘争、川崎駅の30台に乗り込み拡声器を用いて演説をしたバス籠城事件、2003年のホームヘルプ上限問題での二週間に及ぶ座り込みなどを指す。

※5 アメニティフォーラムとは、障害がハンディにならない社会づくりを目指し、様々なハンディのある人が豊かな地域社会を送るために必要なサービスの創出と提供していく仕組みを提案するイベント。毎年滋賀県で開催され、近年はDPIは実行委員会として参加している。