突撃!エレベーター見せてください。
働く準備を進めながら、変わらず家探しの相談を社長さんにしていたのですが、大学院進学と一人暮らし、それに加えてアルバイトをやろうとしていた私に社長さんからストップがかかりました。環境の変化が重なりすぎるのではないだろうかと心配してくださったのです。
その場の勢いで進みがちな私は、部屋が見つかるのは先になりそうだとなんとなく感じていて、アルバイトをしながら大学院に進学をして一人暮らしはまた大学院卒業後かなと勝手に路線変更をしようとしていました。
ところが、です。ある日、母の運転で外出していたところ「この前、ランチしたところがネットで部屋を見てた所に近いから通ってみよう!」と母が言い出しました。この頃母はネットで見た部屋情報を元に、運動がてらバリアフリーチェックに行くことをしてくれていました。
ほぼ「エントランスまでに段差が…」「エレベーターが小さかった」など、当たり情報はありませんでした。「もう見つからんのじゃない?」と気持ちが落ち込んでいたとき、ランチをしたお店の近くにあったマンションの側を通ったのです。母は車を止めて「ちょっとエレベーター覗いてくる~」と車から降りていきました。
私は車の中で待ちながら「いつもこうして見て回ってくれてるんだな」と期待もせずに待っていたところ「エレベーターに乗れるか試していいって!」と母がテンション高く車に戻ってきました。車をマンションの駐車場に駐めさせてもらい、管理人さんがお迎えしてくれました。「すみません、突然…」と私も急展開にヒヤヒヤしながらいたのですが「いいですよ~」と気さくな管理人さん。
肝心なエレベーターは奥行きがあり、私のティルト(背もたれと座面が連動して角度を調整できる)車椅子でも入ることができました。「入ったね」このサイズが今後の部屋探しの基準にできるかもと考えていたところ、「部屋も見ていきますか?」と管理人さんが言ってくださったのです。私も介助者も母も「いいんですか!?」と驚きを隠せずにいました。
「車椅子だったら○号室と▲号室が生活できると思うので…」と、管理人さんは2部屋も見せてくださいました。何も準備していなかった私は「車椅子で上がっていいんですか?」とドキドキしながら、人生で初めての内見です。一緒にいた介助者に「すごいね、楽しいね」と話しながら、部屋を見て妄想が膨らみました。
「突撃!隣の晩ごはん」ならぬ「突撃!エレベーターチェック」から、まさかのお部屋内見に。管理人さんに自分の状況なども伝え、一人暮らしをしたら24時間介助者(ヘルパー)がいること、訪問看護や訪問入浴を利用していること、往診、とにかく毎日いろんな人が出入りすることや駐車場が必要なことをお話ししました。管理人さんは「いいですよ~」「大丈夫ですよ~」としか言いません。
本当に分かってくれてるのか不安な気持ちもありつつ(疑ってごめんなさい)お部屋はとてもよく、どこかを手直ししないと住めないわけでもなく、理想のお部屋に初めての内見で出会ってしまいました。資料をいただいて前向きに考えていますとお伝えしてその日は帰りました。
父にも内見に行ってもらい、「いいと思う」という言葉とともに、その日から「あの部屋に住むんだ!」を目標に、一人暮らしに向けた準備が始まりました。その時点で3月初旬でした。
あまりにも急に新居が決まったため、引っ越しの準備はもちろん手についていません。マンションの管理人さんは部屋を押さえて5月まで入居を待つと言ってくださいました。
アルバイト開始!わからない手続きは役所とともに
話はやっと就労に戻ってくるのですが、私が講演活動をするようになったとき、始めは移動支援で経済活動をしてはいけないことを知りませんでした。それをある日偶然知ったとき、当事者仲間にどうしたらいいか相談したところ、「講演謝金で生活していけるほど稼いでいるわけじゃないんだからいいんだよ」と言われ、そういうものかと思っていました。
ところが、利用するヘルパー事業所が変わったら「福祉サービスを利用して経済活動はNGだよ」と言われ、経済活動をするときはヘルパー事業所に自費でサービスをお願いする有償介護となりました。私の今までの解釈は違っていたのかと改めて認識しましたが、これでは謝金の額によっては有償介護になると赤字になってしまう、それなら謝金をもらわず社会参加として謝金はいただかず、福祉サービス(移動支援)を利用した方がいいのではないかなど、たくさん悩みました。
当事者仲間に「(制度を作って)介助者をつけて働きたい」と話したときは、「そんなのいつになるん?」と相手にされませんでした。しかし考えれば考えるほど、なんで働くときに介助者を利用できないんだと腹が立って、私は「介助者をつけて働きたい」と胸を張って言うために、経済活動をするときは有償介護で進んできました。
不動産会社でのアルバイトが決まり、社長さんをはじめ、部長や先輩社員にzoomで面談をしていただきながら働く準備を進めていきました。就労支援特別事業の利用を開始するにあたり、役所の難しい要綱を読みながら「結局、準備するものはなんなんだ?」と不安になっていたところ、役所のB係長が申請に必要なものリストを作ってくれました。
申請に必要なものリスト
- ① 申請書
- ② 受給者証の写し
- ③ 雇用契約書の写し
- ④ 支援計画書
- ⑤ 自営業者等であることを証する書類
- ⑥ サービス等利用契約書の写し
- ⑦ 誓約書
私は就労支援特別事業が利用できるから会社に「働けます」と言えるのに、雇用契約書の写しがないと就労支援特別事業が申請できないのはおかしくないかと尋ねました。④支援計画書には労働日や勤務場所、業務内容から細かなタイムスケジュールと支援内容を記載しなければいけません。役所窓口の担当のAさんやB係長は「わからなかったらここに来て一緒に書こう」と言ってくれました。
そして、私がしたいお仕事は不動産会社だけではなく講演活動もあります。こちらは⑤自営業者等であることを証する書類が必要で、初めて税務署に行き「個人事業の開業届」を提出してきました。
私、個人事業主ですって。そして必要な書類を準備して改めて役所に行きました。不動産会社のアルバイトはざっくりタイムスケジュールは書けましたが、講演活動はどのように書けばよいかわからず役所に行ってから尋ねました。
①申請書④支援計画書、どちらも講演活動用にもう一種類書いた方がいいね、となり、窓口のAさんとB係長と相談しながら作成しました。これで私も堂々と介助者を利用しながら働ける!
「北九州市はどうやって就労支援特別事業を取り入れてもらえたの?」これは本当に私に答えられるノウハウはありません。市議会議員さんが大学等進学支援事業に引き続き、「重度障害者への支援について」と重度障害者就労支援特別事業についても議会で取り上げてくださったことが大きいかと思います。
そして役所の対応、というより担当してくださったAさんやB係長がいい人だから…これは本当に自慢したいくらいですが、決して自治体や人によって就労支援特別事業が使える人、使えない人がいていいハズがありません。また、上記してきたような複雑な手続き、そして就労支援特別事業を利用してからも複雑な書類のまとめの協力をしてくれるヘルパー事業所がいないとできません。
どうして重度障がい者の日常生活では通学や就労が区切られてしまうのでしょうか。就労支援特別事業ができて介助者を利用しながら働けるようになったのはとても嬉しいことですが、重度障がい者やヘルパー事業所が就労支援特別事業を利用するハードルはすごく高いのではないかと思います。
実家を卒業!働きながら毎日のごはんに悩むこと1時間
3月から不動産会社でのアルバイトが始まり、5月中には引っ越しをして一人暮らしが始まりました。私は改めて自分の生活を考えたときに「あ、大学院に行ったら自分が壊れる」と思いました。
初めて働いて、初めて一人暮らしをして、さらに大学院に通うことは私にはできないと。3月末の大学の卒業式前に4月からの大学院の休学手続きをしました。当初、考えていた生活とは順番が変わりましたが、大学院は自分の生活が組み立てられるようになってから復学したいと考えています。
それから3月4月は一人暮らしに向けての準備を始めました。夜な夜な介助者と新聞紙でベッドやテーブルの実物大の型を作ったのを、新居に持ち込んでお部屋を隅々まで採寸して想像を膨らませたり、家具屋さんやネットでこれどう?あれどう?と話したり、とても楽しく準備が進みました。部屋の鍵を引っ越しの一週間前に受け取り、引っ越し当日までに必要最低限の荷物を残してほぼ新居へ運びました。引っ越し当日は福祉用具の業者さんに実家でベッドを解体してもらって、新居に運んでもらって組み立ててもらいました。車椅子移乗等に使うリフトは十数年使ったので日常生活用具の給付を申請して新調しました。新しい生活が始まる不安20%、ワクワク80%でした。
3月からスタートした不動産会社のアルバイト(在宅ワーク)は、日々申し込みやキャンセルなど動きがある不動産情報の更新をすることからスタートしました。業務を教えてくださる先輩も在宅ワークなので、zoomを繋いで画面を見ながら教えていただくことから始まりました。これぐらいの広さの部屋でこれくらいの家賃なのかと仕事を始めて知ることがたくさんあって、「家賃4万ほどで2LDK、公共交通機関に近い物件、一軒家もあり」などと社長さんに伝えた過去の私を殴ってやろうかと思いました。
アルバイトが始まったときはまだ実家だったので、引っ越し準備とアルバイトのことだけを考えていればよかったのですが、引っ越し後はそういうわけにはいかなくなりました。私の現在のとある1日のスケジュールは以下のような感じです。
とある1日のスケジュール
- 7:30
- 起床・ストレッチ
- 8:00
- 朝食
- 8:30
- 洗面
- 9:00
- 訪問看護
- 11:00
- アルバイト
株式会社DL 賃貸管理部 - 15:00
- 休憩・掃除
- 15:30
- リハビリ
- 16:30
- いろいろ
わをんスタッフ活動・zoom - 18:30
- 夕食準備
- 19:00
- 夕食
- 19:30
- いろいろ
講演準備・読書・zoom - 0:00
- 洗面・就寝準備・ストレッチ
- 1:00
- 就寝
アルバイトがあるのは週3回ですが、業務は訪問看護が終わった30分後から始まるので水分補給をしたりパソコンの準備をします。先輩とzoomをつないで今日の業務内容を指示してもらいます。それから業務を行い、終わりにzoomで報告します。
途中で疑問が出てもLINEや社内のメッセージ欄で教えてもらえます。先輩がお休みの日でも、一人で業務をすることができるようになりました。ただ、ミスをしてしまったり分からないことがあったりなど、完全なる独り立ちには努力が必要です。最近では社内報を作ってみないかとお声かけいただき、社長室室長と打ち合わせを重ねているところです。新しい業務も少しずつ覚えて、できることを増やしていきたいです。
アルバイトが終わると訪問リハビリがあります。お仕事で緊張した体を動かしてもらえるので、手足の関節だけではなく肩や首など痛いところを動かしてもらいます。私は自分で体を動かすことができないので同じ姿勢でいる時間が長いです。
頭の付け根から背中までガチガチで、たまにブリッジをしたくなります。就労支援特別事業を利用することで、仕事中も介助者がいてくれるので、姿勢を整えたり水分補給をしたり安心して業務に集中することができます。リハビリが終わると16:30を超えていてあっという間に夜ごはんを考える時間がきます。一人暮らしを始めて1ヵ月ほどは、自分が食べるごはんのメニューと作り方を調べるのに1時間近くかかっていました。
実家では何もせずにごはんが出てきたのに、一人暮らしでは考えないといけないことが多すぎてそれだけで1日が終わってしまいます。夕食後にやっと少し落ち着く時間ができますが、普段使わない頭を使っているせいか、未だに就寝後は秒で眠ります。
“働く”をしてみて感じたこと
私が“働く”を手に入れた方法は今まで書いてきたとおりです。「運が良いね、ラッキーだね」と言われればそこまでですが、決してその一言で終わらせてはいけないと思います。私は社長さんに出会えたことから、自分で“働く”チャンスをつかめたと思っています。
もちろん、社長さんをはじめ、社員の皆さんの理解があってこそですが。障がいがあってもなくても誰もが同じように“働く”のスタートラインに立てる環境作りをしていかなければなりません。自治体によって就労支援特別事業が取り入れてもらえない当事者の声を聞きます。重度障がい者が働きたいと思っても介助が必要だから、制度がないからと諦めなければいけないのはとてもおかしなことだと思います。
そして、日常生活から通学・通勤が区切られていること。重度障がい者が通学や通勤することが想定されていないことに違和感を覚えます。
「バイトして偉いね」「働いててすごいね」「頑張ってるね」健常者が働いていても偉いね、すごいねなどと言われることは少ないかと思います。どうして重度障がい者が働くことが特別なのでしょうか?
私自身、日常生活でもお仕事でも障がいの特性上一人ではできないことがたくさんあり、配慮をお願いすることはあります。しかし障がい者であることを理由に「障がいがあるからこの程度で大丈夫、仕方がないね」などと絶対に思われたくありません。私自身、会社でもそこにいるだけで大丈夫な存在になってしまわないように、日々成長していけるように頑張りたいと思っています。そして、障がいがあってもなくても働きたい人が働ける、当たり前のことができるんだと発信し続けていきたいと思います。