Profile
頚髄損傷・北九州市在住|岩岡美咲(いわおかみさき)1988年生まれ。高校2年生で体操競技中に受障し第4頸椎脱臼骨折。頭部以下完全四肢麻痺、呼吸筋麻痺により気管切開+人工呼吸器。総合せき損センターにて反射シールを貼った口元を動かし、シールの動きを読み取る機器を使用することでパソコン操作が可能となる。
その後、総合せき損センターの先生から後押しを受けて入院し気切を閉じ、人工呼吸器を口でくわえるNPPVへ変更する。発声可能となり吸引も必要なくなる。講演活動をきっかけに、大学へ進学。重度障害者大学等進学支援事業を利用して介助者と通学し、2022年春に卒業。現在は重度障害者等就労支援特別事業を利用して一般企業(在宅ワーク)でアルバイトをしている。2022年、一般社団法人わをんの理事に就任。5月から重度訪問介護制度を利用して一人暮らしを始めた。
“大学生”の肩書きがなくなる不安
みなさん、こんにちは。福岡県北九州市在住の岩岡美咲です。私は高校生の時にスポーツ事故で頸髄損傷という障がいを負いました。首から下を動かすことができず、自発呼吸もできないので24時間人工呼吸器が必要です。
2013年までは気管切開をしていて発声することができなかったのですが、現在はNPPV(非侵襲的陽圧換気)という呼吸管理方法で、口にくわえたマウスピースから空気を取り入れて声を出すことができます。再び発声が可能になって、講演活動や大学進学など世界が広がりました。
今年の3月に大学を卒業して、不動産会社で在宅ワークのアルバイトを週3回しています。さらに、一般社団法人わをんの理事/事務局スタッフとして「当事者の語りプロジェクト」の記事作成やホームページ の更新等を担当しています。5月中旬に親元から離れて、一人暮らしを始めました。今はサポートしてくれる介助者と共に24時間生活をしています。
この就労ルポでは私が“働く”に至るまでの経緯や、その時に感じたこと、どのような制度を利用しているのかなど、現在の就労状況についてお伝えしたいと思います。
まず、私が就労に関することをお伝えするには、大学を卒業する前のことまで遡らなければなりません。地元の市立大学に長期履修制度を利用して6年通って卒業が近づいてきたとき、私は漠然と働きたいという思いがありました。どうしてかと聞かれたら理由は2つあります。
1つ目は、大学に進学した人の多くが思うであろう、卒業する前に就職活動をして卒業後に働く。それと同じように私も大学を卒業したら働きたいという単純な思いでした。
2つ目は、肩書き・所属がなくなる怖さです。大学進学は考えてもいなかったところからスタートしましたが「大学生」という肩書きは私にとって大きなものでした。その肩書きは卒業したらなくなってしまう。大学に行く前に過ごしていた何もない日常に戻ってしまう。
そう考えるだけで毎日が不安でした。実家暮らしは両親がいて、良くも悪くも何もしないで日常生活が送れてしまいます。大学に毎日通う事は、時にはしんどいなと思うこともありましたが、毎日車椅子に乗って大学に通う時間はメリハリのある生活でした。
「卒業したら何をする(したい)の?」と何気なく聞かれることに「働きたいけど…」と自信なく答えることしかできませんでした。大学に行く前のように何もない生活に戻ってしまわないために働くことを考えるようになりましたが、自分に何ができるのか、何がしたいのか想像もできませんでした。
“私がどうしたいのか”を選ぶことの大事さ
その頃、一般社団法人わをんの活動で代表理事、事務局長、大学院に進学している当事者の方々と zoom 越しに会う機会があり、なんとなく私の頭に大学院進学がちらついてきました。
いや、でも勉強嫌いだし。大学院進学か働くか悩んでいたところ、大学等進学支援事業でもお世話になった、私が通っている大学の教授にたまたまお会いしました。
「もうすぐ卒業ですが、先に悩んでいます。働きたい気持ちは漠然とあるんですが、今は働くときに介助者を利用できる制度がないし、大学院進学と言ってもなかなか想像できません」教授は「せっかく大学に来たんだから大学院に進学して研究を続けてみるのもいいと思うよ。
その先に大学の先生や講師とか、つながる道が見えてくるかもしれないよ」と言ってくださいました。そして教授は、私のゼミの先生と市議会議員さんを呼んで、私の今後のことを相談する時間を作ってくださいました。 私のいないところで!ゼミの先生から聞いて驚きました。
このように、私がいないところでも時間を取って私のことを気にかけてくれる人がいることが、どんなに心強くありがたいことかと思いました。それまで大学院に進むのも、働きたいという気持ちもどこか覚悟が決まらずうじうじ悩んでいました。
でも、先生方や市議会議員さんが背中を押してくださったことで大学院に進みたいという気持ちが強くなりました。教授は常に「まず岩岡さんがどうしたいのかということが出発点であり、最も大切です。今と同じ状況が続くわけではなく、岩岡さんの行動次第で制度も社会も変わっていくのです。
それは岩岡さんだけのことではなく、社会全体にとってとても良いことだと信じています」と言ってくださいました。私は先生方や支えてくれている人たちのためにも、目標を持って進んでいかなければと覚悟を決めました。そして昨年の夏に大学院受験をして肩書きがなくなる危機から無事、救われたのです。
大学院進学に向けた準備をしているうちに市議会では「重度障害者への支援について」と大学等進学支援事業に続き、就労支援のことでも私のことを例に出していただき、北九州市は重度障害者の就労支援特別事業を予算案の中に入れてくれたのです。
大学等進学支援事業も就労支援特別事業も各自治体の任意事業です。よく「どうやって北九州は事業を取り入れてもらったの?」と聞かれます。
私がしたことは、ただ「(介助者と)学校に行きたい!」「(介助者のサポートを受けて)働きたい!」と声を出しただけです。同じように障がいを持った当事者仲間たちの自治体では重度訪問介護の時間数が少なかったり、就労支援特別事業を取り入れてもらえない話を聞きます。北九州市はいいね、恵まれてるね、という言葉ですませないために、私にはこうして知っていただく機会を大事にするしかありません。
一人暮らしをするには何からするの?
次に、卒業後のことでもう一つ悩んでいたのが一人暮らしについてです。高校生の時に怪我をして障がい者になり、10数年実家暮らしでなに不自由ない生活を送っていました。
しかし将来のことを考えるようになり、両親はいつまでも元気で自分のそばにいてくれるわけではない。私も家を出て介助者とともに生活できるようにならなければいけないと考えるようになりました。
一般社団法人わをんの活動で関わる当事者の方たちも、重度訪問介護制度を利用して一人暮らしをしてる人はたくさんいます。私は相談支援専門員さんと一緒に「大学卒業後に一人暮らしをしたいと考えているけど何から手続きを行っていけばいいか」と、役所に行って尋ねました。
まずは自立支援給付の居宅介護の利用を重度訪問介護に切り替えること、そして家を探すことでした。重度訪問介護への切り替えにはまず、一人暮らしをイメージしたスケジュールを考えないといけませんでした。
私は初めてそこで介助者と過ごすことを考えてみましたが、全くといっていいほどイメージが沸きません。それもそのハズで、実家暮らしでは私が何もしなくてもごはんは出てくるし、洗濯も終わるし、してもらって当た」り前だと思っていた家事の存在を気にしたことがなかったからです。
洗濯って何時間かかるの?といったスケジュールさえも立てられず、いきなりつまづいてしまいました。わをん代表理事に助けを求め、参考資料を送っていただきなんとか少し、介助者との生活を想像することができました。
相談支援専門員さんと役所に相談をしに行った数日後に、窓口でいつも担当してくださっている方(以下、Aさん)が私の家での生活状況を見に来てくださいました。
私は自発呼吸がなく24時間人工呼吸器を使用しているので、24時間介助者の見守りが必要なのは当たり前ですが、車椅子やベッドの移乗はグラグラな据わっていない首を支えるために、介助者が2人いないとできません。
さらに車椅子に座っているときに体制を整えたりするのも介助者1人では難しいです。介助者が必要な場面を実際に見ていただけたことで、窓口でただ単に説明するより伝わったことは多いと思いました。
私は相談支援専門員さんと一人暮らしの計画スケジュール等をまとめて提出しました。しかし後日、役所から連絡があって介助者の時間数を見直すべきだと言われたのです。いつも担当をしてくれているAさんとB係長が改めて自宅まで来て説明をしてくれました。
「岩岡さんが一人暮らしをして生活をするには、大学等進学支援事業も就労支援特別事業も利用しない生活を考えるべきですよ。でないと、通学や就労がもし体調不良とかで使えなかったときに重度訪問介護の時間数は足りなくなってしまいます」
私は当初提出していた一人暮らし計画スケジュールの時間数よりも、安心して生活ができる介助者の派遣時間数を出してもらうことができました。私がやりたいことを実現するために、一緒に考えてくれた役所の方々の心強さを感じました。
就活をすっ飛ばして履歴書の提出
家を探してみて感じたのは、ネットに出ているお部屋情報はバリアフリーに関する情報があまりにも少ないということです。
バリアフリーにチェックを入れると途端に情報が少なくなるのはもちろんですが、エレベーターありと書いてあっても私の車椅子では入れないエレベーターだったり、1階の部屋と書いてあっても、そこにたどり着くまでに段差があったりしました。
自分でネットの情報だけで部屋を探すのは限界がありました。また障がいもあり車椅子生活だということで、受け入れてくれる不動産会社や大家さんはいないのではないかと考えていました。
そのとき、母のママ友の同級生に不動産会社の社長さんがいらっしゃることを教えてもらいました。私が小学生の時から知っているママさんのご友人で、私はすぐに連絡をして、ママさんと社長さんに自宅まで来ていただきました。
部屋の状況や生活環境を見ていただきながら、一人暮らしをしたいお部屋を探していることをご相談しました。社長さんがとても優しくお部屋探しに関して協力してくださるとおっしゃってくださいました。そのとき私が伝えたのは「家賃4万ほどで2LDK、公共交通機関に近い物件。一軒家もあり」、と世間知らず丸出しな条件でした。社長さんは優しく聞いてくださっていました。
「パソコン操作はこんなふうに(口の下に貼った反射シールを動かすとカーソルが動く・クリックしたいところで一瞬止まる)操作をすることもできます。ただ、重度の障がいがあると、なかなか介助者を利用しながら働くことが難しいんです」家のことだけではなく、私の近況などもお話させてもらいながら、社長さんの不動産会社のホームページを見ていたところ、SDGsの文字を見つけました。
ホームページには『貴重な資源や環境を大切にするという意味でSDGsに貢献しています』と書いてありました。私は「福祉もどうですか?履歴書出しますよ!」とその場の勢いで社長さんに言ってしまいました。仕事内容もハッキリ分かっているわけでもなく「何言ってるんだ」と怒られても仕方がないようなことです。それが本当に就労につながるとは考えてもいませんでした。
家探しのご相談をした数日後、社長さんから「実は、もし美咲さんが本当に就労する気があるのなら具体的に検討させていただこうかと思っています。もちろん、その際にはお互いの条件をすり合わせて合意する必要がありますが・・・いかがでしょうか?」と連絡がありました。
なんてこった!働きたい働きたいと言いながらも何をしたらいいか分からないままでしたが、「履歴書出していいですか」のひと言が現実になってしまいました。「仕事をしたいという気持ちはずっとあります。もし社長にお仕事の件でご相談に乗っていただけるならとても心強く、またどんなことも頑張れる気持ちは持っています!」とすぐに返事をしました。
私はそこから北九州市の就労支援特別事業の利用に向けて動き出したかったのですが、北九州市も新しくできたばかりの制度ですぐに利用できる状況ではありませんでした。