運動調査記事

施設での隔離生活から抜け出し、自分の人生をつくっていく

Profile

脊髄損傷・東京都在住|佐藤 聡(さとう さとし)
1967年、新潟県生まれ。9歳で障害をもち、4年間施設に入所。14歳で地元の中学に戻る。大学時代に障害者運動に出会い、交通バリアフリー運動を通して運動の面白さを知る。卒業後にメインストリーム協会に関わり、海外の障害者への支援も積極的に行なう。2014年からDPI日本会議に携わる。

佐藤聡さんは、9歳の時の怪我により、車いすユーザーになりました。大学卒業後は、兵庫県の自立生活センター、メインストリーム協会で、国内外の障害者の支援に従事。現在は、障害当事者の全国組織であるDPI日本会議の事務局長として、障害者の就労問題を含め、さまざまな政策提言や権利擁護活動をされています。

私たち一般社団法人わをんでは、当事者の語りプロジェクトを通して、就労中に介助を受けられないために就職活動を挫折してしまった人や、以前働いていたのにヘルパーと会社の軋轢で退職することになってしまった人と出会う中で、その人たちと一緒に、介助付き就労の実態を把握し、情報発信していきたいと考え、リサーチをしてきました。

それをもとに、介助を利用しながら働きたいという当事者の背中を押せるような、介助付き就労ハンドブックを作成中です。

そこで今回は、介助付き就労を広めるために、今後どのように運動を進めていけばいいのか、また地域で活動している各団体と、国に働きかけるDPI日本会議の役割分担について、佐藤さんの考えをお聞きしました。

目次

  1. 施設の隔離生活は人間の本来の力を奪う
  2. 家族の協力で充実した学校生活に
  3. 大学選びで直面した、関東と関西で違う人権意識

施設の隔離生活は人間の本来の力を奪う

まずは生い立ちを教えてください。

佐藤:子どもの頃は、両親と祖父母、曾祖父、姉と弟の8人家族でした。9歳のとき、遊んでいる最中に背中を打ち、怪我をしました。半年の入院後、車椅子で生きていく事になりました。普通学校には受け入れてもらえなかったので、はまぐみ学園(※1)という、県内で唯一、養護学校を併設した障害児施設に、小学4年の6月から入所ました。

はまぐみ学園はどのようなところでしたか。

佐藤:小学1年生から中学3年生までの障害児が150人ぐらいいました。8人部屋だったのですが、壁がガラスで、廊下から部屋の中が全部見えるようになっていました。プライバシーはまったくなく、とても驚きました。

完全に隔離されていて、施設の外には全く出られませんでした。買い物も自分ではできないし、実家に帰れるのも年に3回だけ。月3回の面会日以外は、家族とも会えない。起床時間から就寝時間まで全部決められていて、自分で決めてなにかやるということが出来ませんでした。

テレビもロビーに1台しかないので、社会で起きていることが何も分かりませんでした。社会との接点が全くなかったので、刑務所に入っているようでしたね。

壁がガラスだったのは、職員が子どもたちを監視するためでしょうか。

佐藤:子どもがベッドから落ちたときにすぐ気づくためだったようですが、着替えも全部外から見えていました。その後、建物は建て替えられて、ガラスの壁は普通の壁になりました。

以前、鹿児島の川崎良太さんから、10代で療養施設に入所した経験をお聞きしたときに、入所期間が長いほど、「施設から出たい」と思う人と、「施設で生きていくしかない」と諦める人に分かれてくるというお話がありました。 障害児施設のはまぐみ学園でも、長期間入所している子ども(※2)は施設から出るのを諦めていきますか。

佐藤:そうですね。松葉杖で歩ける子どもは地元の学校に帰っていきましたが、車いすの子どもは一人も帰れない。普通の学校に車いすで通っている子はいないと聞かされていたので、だんだん元の学校に帰るのを諦めていきますよね。

さらに、入所中、外にいっさい出ないので、人に会うのが怖くなりました。買い物の時に、初対面の店員にお金を渡すことが恐ろしいのです。障害者になる前は、当たり前に買い物していたのに、4年間隔離されて、施設の職員など限られた人にしか会わなかったら、それ以外の人に会うのがものすごく怖くなっていました。

精神科病院に10年入院していた女性が、以前は買い物が大好きだったのに、10年ぶりに精神科病院から出てきたら、怖くて買い物に行けなくなったという話を聞いたことがあります。私と全く同じだなと思いました。人間は隔離されると、その人本来の力を失っていくのです。

それでも佐藤さんは、施設から出ることを諦めなかったのですね。

佐藤:「施設にいても全然面白くもないし、このままだと自分は世の中のことをなにも知らずに、変な大人になってしまう。その前に、元の世界に戻りたい」と、すごく思っていました。

中学生のときに、同じ施設にいた女の子が、普通高校を受験しました。私と同じ障害で、2歳上の子でした。学力テストは通ったのですが、「車いすの設備がないから」という理由で落とされたんです。彼女は1週間ぐらいずっと部屋で泣いていました。

それを見て、「やっぱり障害者は普通の学校に入れてもらえないんだ」と思い知りましたが、同時に「駄目かもしれないけど、自分もチャレンジしてみたい」とすごく思ったのです。何も挑戦せず、養護学校にずっといるのは嫌でした。

しかし、自分の気持ちを親には言い出せませんでした。私の実家は豪雪地帯で、親の送迎がないと、冬は学校に通えないと分かっていたからです。そんな私を見かねた施設の職員が、私の家族に連絡してくれ、私が父と話すきっかけを作ってくれました。

「迷惑かけるけど普通学校に戻りたい」と父に打ち明けたら、父が地元の中学校の校長に相談してくれたのです。ラッキーなことに受け入れてもうことが出来ました。田舎の小さな学校で、たまたま校長先生が非常に理解のある人だったのです。

本当に校長先生次第で普通学校の受け入れ状況が変わるという話は、今も聞きますよね。

家族の協力で充実した学校生活に

中学では、他の生徒との関係はどうでしたか?

佐藤:4年間、社会との接点がなかったので、同級生と話が合わないのではと最初は不安でしたが、生徒の半分は小学校時代の顔見知りだったので、すぐ受け入れてもらえました。いじめも全くなく、とても楽しい学校生活でした。

安定した学校生活があったからこそ、その後の大学進学にも前向きになれたのでしょうか。

佐藤:そうですね。最初、私は大学進学をそれほど希望してなかったのですが、学校の先生になりたいと思ったのをきっかけに、大学進学を目指すようになりました。その後、先生になりたい思いはだんだん薄れていきましたが。

天畠:どうやって通学していたのですか。

佐藤:晴れた日は、自分で車いすをこいで通ってました。中学時代は1kmの距離を15分、高校時代は4.5kmの距離を約45分かけて行っていました。雨の日は母の車で送ってもらいました。

送迎はいつもお母さんがされていたのでしょうか?

佐藤:そうですね。母は働いてなかったので、送迎はいつも母の担当でした。雪の季節は毎日、それ以外の季節でも雨の日は送ってもらいました。下校途中で雨が降りだしても、ガードレールの下で雨宿りしていると、母親が迎えに来てくれるのです。母親は空模様を見ながらずっと僕の送迎のことを考えていたと思います。

他の障害者の方からは、放課後、他の友達は学校に残っておしゃべりしたり、道草しながら帰ったりしていたけれど、送迎を頼むと放課後を楽しめないのが残念だったという話も聞いたことがあります。佐藤さんも同じようなことを思っていましたか?

佐藤:僕はブラスバンドのクラブに入っていて、毎日、放課後は他の生徒と一緒に遅くまで学校に残っていましたね。高校時代は土日も部活だったので、学校に行っていました。

福祉サービスによる送迎を頼むと、決められた時間に帰らなければなりませんが、専業主婦のお母さんが送迎だったからこそ柔軟に対応できたのでしょうね。

佐藤:それはとてもありがたかったですね。

大学選びで直面した、関東と関西で違う人権意識

佐藤:大学受験のときはいろいろ悩みました。当時は車いすの学生を受け入れてくれる大学自体も少なく、受け入れている大学の情報も、それを教えてくれる人も全くいませんでした。

車いす学生がいるかどうか、一つ一つの大学に電話で確認するしかなく、学生数が多い大学に順番に電話していきました。最初のN大学には「いません」と言われ、2番目のW大学には「分かりません」と言われました。そう答えるということは、車いすトイレもスロープもないだろうと思いました。

R大学には「今まで一人も受けたことがない。受け入れられるかどうか教授会で話し合うから10月まで待ってくれ」と言われました。R大学からの答えを待っている間に、関西の大学にも電話してみました。

すると、同志社大学も立命館大学も「車いす学生、いますよ」と言うのです。本当かどうか見に行ったら、エレベーターがついている建物や、車いすトイレもあって、ここには確かに障害学生がいると確信しました。

その後、京都の大学を3つ調べ、関西は他の大学も受け入れているらしいと分かったので、関西の大学を受けようと決断しました。1986年頃のことです。

関西と関東で大学の受け入れ度合いが違うのは、障害者運動の影響でしょうか。

佐藤:そうですね。関西は部落差別や在日朝鮮人問題が切実な問題だと社会に認識され、運動もあったので、そのような社会問題にどこの大学も授業でちゃんと取り組んでいたんですよ。それに引っ張られる形で障害の問題も大学で取り上げられていました。人権に対する取り組みは圧倒的に関西が進んでいましたね。

当時は、公共交通機関のバリアフリーも関西の方が住んでいて、東京は車いすで乗れる駅が1つもなかったから、東京に行くのは本当に嫌だったんですよ。

※1 現・新潟県はまぐみ小児療育センター。新潟県立はまぐみ特別支援学校が併設され、センターに入所する障害児はこの学校に通学する。https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/hamagumi/

※2 令和2年度に入所していた689名のうち、676名が1週間以内に退所しているが、7名が1年以上入所していて、そのうち5名は2年以上入所していた。(参照:新潟県はまぐみ小児療育センター「令和3年度事業概要」)